はやばやと秋の深まり

突然に女房殿の都合がつき急遽お参りすることになりました。ほぼ1カ月振りのお山とのご対面でした。今年も、サル達が闊歩しているとのことですが、美味しいものから食べているらしく、渋みがある柿さんは後回しになっている模様で、柿がたわわに実っていました。お山はすでに色づき始めていて寒い冬の到来を予感させ、新年の初護摩の朝には、ながーいツララに身が引き締まったことを思い出していました。ただ、その前には、秋らしい紅葉を楽しみたいものです。

  

親先生より10月は、「放下著(ほうげじゃく)〝結果を求めるなら、こだわりを捨てよ〟」といただきました。

この放下著は、「すててしまえ」と言っていると。つまり、こだわりを捨てよと…。この話は、「五家正宗賛」の「趙州(じょうしゅう)和尚の章にあるもので、おおむね次のとおり。中国の厳陽(げんよう)尊者という修行者が『一物不将来の時如何に?(何もかも捨てて、てぶらの時は、どうしたらいいのか?)』と問うと、……趙州和尚は、それでも『放下著』と答えた……。厳陽尊者は、『捨ててしまえと言われても、何も持っていないのだから捨てようがない』と、食い下がる。すると、趙州和尚は、『恁麼(いんも)なら担取(たんしゅ)し去れ [それならば、そいつを担(かつ)いで去れ] 』と言う。 趙州和尚は、『何も持たないという意識までも放下せよ』と、言っていると。『自身で作り上げた身体と口と意の荷物はその時まで自分で担ぐことになる』と、たれにも手助けできないことを知らしめていると。

  

ところで、古代インドでは四住期という生き方を理想としていたそうです。学生期(がくしょうき/8~25)、止住期(しじゅうき/25~50)、林住期(りんじゅうき/50~75)、遊行期(ゆうぎょうき/75~100)と区切るもので、このうち、これから団塊の世代が迎える遊行期については、死ぬための旅に出るとのことであったと。旅であれば荷物は少ない方がよく、次々と手放すことで身を軽くし、身体ひとつの死を迎えたいものと思う次第。 お釈迦様が最後の旅に出られたのも、『手放す旅』だったのではないかとも思うもの…。放下著は趙州和尚の言葉ですが、ここでも『捨てることの大切さ』が説かれていると感じてしまうものです。

少なくとも『遊行期』を迎えるわたしたちの世代には、これまで頂いたご恩に足りようはずもないことは明らかであり、遊行の旅に出るについても、『手放す旅』のみでは不十分と感じるのではないかと…。

  

坂村真民氏の詩集に『一遍智真』という詩がありました。『捨て果てて、捨て果てて、ただひたすら六字の名号(みょうごう)を、火のように吐いて、一処不住の、捨身一途の、彼の狂気が、わたしをひきつける。 六十万人決定往生(けつじょうおうじょう)の、発願に燃えながら、踊り歩いた、あの稜々(りょうりょう)たる旅姿が、いまのわたしをかりたてる。 芭蕉の旅姿もよかったにちがいないが、一遍の旅姿は念仏のきびしさとともに、夜明けの雲のようにわたしを魅了する。 痩手(そうしゅ)合掌、破衣跣(はいはだし)の彼の姿に、わたしは頭をさげて、ひれ伏す。』…。

『捨てること』について、これほどに色々と出てくるものと、驚くべきことです。お導きをいただき、お不動さまお上人さま親先生など皆さまに感謝しつつ、せめても遊行の暮らしを見直し、加えて十善戒をよく守り、一日一日を大切にして、行願に励まねばならないと思うものです。

  

新型コロナウイルス感染症対策は、原因がよく分からないまま、新たな感染者数が減り続けています。そして、緊急事態宣言もまん延防止も全て解除され、経済優先に舵を切られた様子。ワクチンの接種は60%を超えた模様ですが、人出の多いことも気になります。第6次のパンデミックは必至の環境が整いつつあると思うところ…。早急に医療・予防の体制を新薬の矢継ぎ早の放出を、お願いしたいものです。医療関係者の方々はもとより、事務方の関係者の方々にも、長期戦を覚悟しての日々の改善も含めてご努力に感謝申し上げ、引き続き頑張って頂きたく、祈念申し上げるものです。

(合掌)

管理人

親先生のお留守のお参り

久し振りのお参りは突然に女房殿の都合で始まりました。お寺の境内は、寒冷前線が通過した後で、秋の空気に包まれて肌寒い感じ…。親先生はお留守でしたが、いつものようにお参りさせていただきました。遠くで野猿の声を聞いたように思いましたが、姿を見ることは無く、お山の全体がやや赤みを増したような…、しかし、まだまだ深い緑が山肌を覆っていると感じました。……秋の足音が聞こえて来そうな境内でした。

  

親先生より9月は、「啐啄同時(そったくどうじ) 〝 学ぼうとするものと教え導くものの息があって相つうじること〟」といただきました。

中国、唐末期~宋代、鏡清道怤(きょうせいどうふ)禅師の『碧厳碌』第16則に、次のような言葉があると。『大凡行脚人(おおよそ、あんぎゃのひとは、) 須具啐啄同時眼(すべからく、そったくどうじのまなこをぐし、) 有啐啄同時用(そったくどうじのようあって、) 方称衲僧(はじめてのうそうとしょうすべし。)』、 <解説>そもそも、修行の旅に出て、正しい指導者を求める人は、修行者と指導者とがピッタリ息の合うのを見定める鑑識眼を備えなければならない。指導者に投ずれば、修行者と指導者が意気投合した働きを示しえて、初めて禅宗の指導者といえるのであると。…( 中略 )… 後に、道元禅師は、『学道用心集』のなかで、「第五則 参禅学道は正師を求むべき事」という項目を掲げて、その中に、「正師を得ざれば(得なければ)、学ばざるに如かず(~のごとし)」とまで述べている。この言葉の重要性をよくよく理解しておく必要があると。(仏教名言辞典・石井修道駒沢大教授著)

  

松原泰道老師の著による「禅語百選」には、「碧厳録第16則」として、解説があり、「機を得て相応ずる得難い好機」を言い、ちょうど、鳥の卵のふ化のとき、雛が内側から吸ったり突いたりすることを「啐」と言い、親が外から突くのを「啄」と言うと。転じて、修行者の機の熟したのを見て、師家(修行者を指導する高僧)が、さとりの動機を与えることを言うと。それは極めて繊細で、親と雛との啐と啄が少しでもズレたら生命は継承されず、さとりという永遠のほとけのいのちも啐啄のときを誤ると伝わらないと。 禅者にあっては、禅のこころを表すために用いる時は、深い意味を持っていると。それは、修行者の煩悩の底にひそんでいる純粋な人間性をどうして自覚させるか、それには、煩悩の厚いカラ(殼)を隔てて、師家がすでに自覚している純粋な人間性とのふれあい…、自覚と他覚との〝同時〟…、自力と他力の深層での出会いであると。 

わたくし事ですが、いまだ、真に〝おじひ〟の何たるかも良く分からぬままの凡夫であるのみにて、親先生に万事おすがりする以外になく、お行が足りぬとしっ責されるも必死におすがりする他にないことです。

  

新型コロナのワクチン接種は、令和3年6月に2回目が終わりました。そして、オリンピック・パラリンピックは、第5波の新型コロナウイルス変異株の猛威の中、ほぼ無観客で実施され、練習に練習を重ねてこられたアスリートの皆さんには心より〝おめでとう〟を言わせていただきます。一部新聞によりますと、コロナ禍の無観客による損失は、約11兆円との試算であるとか、なんとか緊急の支援が漏れなく行なわれることを願うものです。 現在も緊急事態宣言下であり、まん延防止等重点措置下でもあり、ワクチン接種計画、治療法の開発、今後の緊急国内展開など、関係者の皆さまには、なんとしても頑張っていただきたいものです。

(合掌)

管理人

暑い夏の一日でした…お参り

8月は、不整脈対策の手術をさせていただきました由、久し振りのお参りが叶い、嬉しい一日でした。境内では、花替えのお行をされていると聞き、また、山之守護神堂には、先の大雨と強風、台風などの被害で、直径50センチを超える大木が倒れ、屋根を直撃していたそうで、今日は復旧工事を総代様中心に行われたとのこと。皆さまには、暑い中、ご苦労様ですと、只々、お礼申し上げることでした。

  
親先生より8月は、「進一歩(しんいっぽ)”教えに生きるものにゴールはない。命がけで弛(たる)まなく学び続ける」といただきました。 先ず、中国宋代の禅僧・無門慧開和尚の無門関を読む(秋月龍珉・著・講談社)には、無門関「第四十六則 竿頭進歩」とあり、「石霜和尚が言った。『百尺の竿の頭で、どう一歩を進めるか』、またある古徳(南泉の弟子の長沙景岑)いわく、『百尺の竿の頭に坐っている人は、道に入ることができたといっても未だホンモノではない。百尺の竿の頭で一歩を進めて、十方世界に自己の全身を実現せねばならない』と。

『百尺の竿頭』がどんな所か…、それは無門和尚の言う「打成一片」の禅定三昧の境地であると。 打成一片の澄み切った心境に入ると『これが身心脱落ということか』と、自らその境地を肯定したりする誤りに陥ると。そこは未だ悟りの境地ではなく、更に一歩を進めてこそ、『天地と同根、万物と一体』という『全身』(『宇宙的無意識的自己』・『無相の自己』)を自覚体認できると。 この『進一歩』のことを無門和尚は、先に、『驀然打発(まくねんたはつ)』と言ったと。『何も言えない、何をすることもできない』切羽詰まった状況に修行者を追い込むのもいわゆる『打成一片』の『大疑現前』境に入らせるためで、そこでは一切の『分別』は役立たず、必要なのは、『分別』の主体である『自我』の『死』であると。 それを『禅定(ぜんじょう)』と言うと。そこが『百尺竿頭』であると。そこを『進一歩』すると自我が死んで自己が活きる『悟り』の境地に出ると。この体験を『大死一番、絶後に蘇る』と言うと。無門和尚の言う『驀然打発』で『本来の自己』の自覚での『悟り』であると。・・・『死んで生きるが禅の道』であると。

  

松原泰道老師著の「禅語百選」には、『百尺竿頭進一歩』として、次のように言っておられます。『禅者は「上山の路は是れ下山の路」と言うと。向上から向下に転進するのであると。孤峰頂上で〝いい子〟になったり、〝いい気持ち〟になっていないで、泥んこの社会に戻ること』であると。紫野大徳寺開山の大燈国師は、悟りを開いてから二十年間も五条橋の下で乞食の群れに身を投じていたと。花園妙心寺開山の関山国師も、悟りを得てから八年間、岐阜の伊深の山中で、村人の使役に身を尽くしていると。これが『百尺竿頭進一歩』であると。

そして、浜松医科大学名誉教授・高田明和先生著『禅問答の名言』の中で、山本玄峰老師の言葉を紹介しておられます。『百尺の竿頭にいるような人は隙間なく、油断なく、生活する。そうすると乾坤(宇宙世界)を独りで歩むような広大な気持ちになれる』と解釈され、一番上の人は益々慎重に努力すべきであるとの考え方が見えると。しかし、現代は、競争の時代であり、何時、足を引っ張られて落下するかもしれないと。 生きて行くうえで先を争うことがあったら、先ずは、一歩譲ること。他人の嫉妬を駆り立てては、成功はおぼつかないと。成功しても自慢しないこと。さらに相手を立てる気持があってこそ安泰であると。

  

個人に立ち返って、まず、今の体力で、竿竹の一尺がのぼれましょうか…。登れたところは、誰かの助けをいただいていることに違いなく、感謝、感謝こそが、私の成功の基本と思われてなりません。

新型コロナ禍は、この田舎町にも、石炭専燃型発電所2号機建設工事者のクラスターが発生していましたが、今日の発表で、やっと、新規感染者0人となり、ホッとしたところです。ワクチンは、2回接種してはいますが、今は子ども達も危険と聞いております。 若い方々には、県境を越えるような長距離の移動など我慢されるよう願うものです。医療関係者の皆さまにはもちろん、県民・市民の皆さまにも、基本の対策を徹底するなど全員協力して、新型コロナの撲滅に頑張りたいものです。

(合掌)

管理人

盂蘭盆施餓鬼―厳修

先の日曜日、盂蘭盆施餓鬼・厳修、御行清掃の日から2週間ぶりのお参りです。3日前からは、コロナ禍で緊急事態宣言さ中でのオリンピック・パラリンピック開幕となり、驚きのなかでの開会式の挙行であったと歴史に名を遺すものとなったと思うところでした。境内は暑く、猿滑やカンナ、木槿(むくげ)の花など、暑さ好みの花の季節が到来していました。中山不動尊の幟が晴天に映え、古四国八十八個所には上人様御像のすずやかなお顔を拝見し、山中の涼しさを味わうことが叶いました。本堂の中は、換気されているものの、蒸れた空気の取り巻く中で、マスクの着用は我慢を強いるものでしたが、吹く風の涼を運ぶ……その折々が有難く嬉しく感じられる一日ともなっておりました。

  

親先生の今日のご法話は、「新型コロナ禍」、そして「ご縁」のことでした。昨年も同様にコロナ禍に様々な対策をしての法要でしたが、今年は、皆さんが心身ともに慣れておられる…との親先生の感想でした。必要な注意は払うものの、絶対に動かないことはせず、ある程度の感染は止むを得ないとの考えもあるのではないかと。

  

親先生には、今年で67歳になられると、年を取るにつれ、箔がつくと言われるが、そうでなかったのが良寛さん、とにかく何も持たないひとであったから、いつも手のひらは空いていて手助けもできたと、また、ここ温泉津の人で、浅原才市さんは、妙好人として浄土真宗のお慈悲を徹底され、「我が」、「ワシが」、「己が」、ということがなかった。年を取ると、健康についてさえ、我が強くて、素直に言うことを聞けない。

これではいけないと瀧光寺のお不動さんのご縁でここに集っている。ご先祖様とのご縁は、いつの頃からかわからない――仏さまにしかわからない――が、この後の百万遍のご供養で、ご先祖さまには、上げ膳、据え膳の供養をいただき、精霊送りにて、満足してお帰り頂くことができると。

  

いよいよオリンピック・パラリンピックが始まりました。ワクチン接種は、65歳以上でやっと目途がついたところ。問題は、インド株の50歳以下への急拡大。何とか、コロナを克服したオリンピック・パラリンピックとして歴史に名前が刻まれるよう祈念するものです。

(合掌)

管理人

雨を心配しつつ御行清掃の日

今日は、夏の御行清掃の日、梅雨末期の雨が心配でしたが、幸いにも、暑さでの熱中症に注意が必要な曇り空の一日となり、作業させていただくには最高の状態になってくださったと、ただただ感謝することでした。夏本番を控え、カンナ、ムクゲなど、準備万端です。そこへ、ヒメオウギスイセンが、我が意を得たりと、ゆったりと構えたようすが、美しさが際立つように感じてしまいます。 そして、位牌堂(旧本堂)の前の榧の木の枝卸しが主な作業でしたが、お同行さまの達者なチェーンソウさばきで、あっという間にスリムになってくださいました。類似のイチイの木(阿羅々木)ではないかとの説もあるとか、枝木を運んでいて、葉先がチクチクしなかったようにも感じたものでしたが、真実は(?)でしょうか。

 

親先生より 7月は、「老心(ろうしん)//慈しみの心、親が子を思うように、他の人を思う心である」といただきました。  2月のブログにも関係することですが、道元禅師の著された「典座教訓(てんぞきょうくん・食事を担当する修行僧の心構えを示されたもの)」に、「三心(さんしん)」の教えがあり、ひとつが「喜心」であり、二つ目が「老心」、三つめが「大心」であると…。

 

「…謂(いわ)ゆる老心とは、父母の心なり。譬(たと)えば父母の一子(いっし)を念(おも)うがごとく、三宝(さんぽう)を存念(ぞんねん)すること、一子を念(おも)うが如くせよ。貧者(ひんじゃ)、窮者(ぐうしゃ)、強(あながち)に一子を愛育す。其の志(こころざし)如何に。外人識(し)らず。父と作(な)り母と作(な)って、方(まさ)に之を識(し)る。自身の貧富を顧みず、偏に吾が子の長大ならんことを念う。自の寒きを顧みず、自の熱きを顧みず、子を蔭(おお)い子を覆(おお)う、以て親念切切(しんねんせつせつ)の至りと為す。其の心を発(おこ)すの人、能く之を識(し)り、其の心に慣(なら)うの人、方(まさ)に之を覚る者なり。然あれば乃ち水を看(み)、穀を看るに、皆(みな)子を養うの慈懇を存すべき者(もの)歟(か)。大師釈尊、猶(なお)二十年の佛寿を分(わか)って、末世(まっせ)の我等を蔭(おお)いたまう。其の意如何。唯父母の心を垂(た)るるのみ。如来(にょらい)全く果を求むるところなく、亦(また)富を求むるところなし。…」(典座教訓原文抜粋)

 

精進料理考(吉村昇洋著)には、次のようにあります。 「次に、『老心』だが、これは『老婆心』のことであると。『我が身を顧みず、深い悲しみから親身になって他者に関わる心』を言うと。料理をする者は、自分の料理を食べていただく相手だけではなく、食材そのものへの感謝や、丁寧に扱う心を忘れないことが大切であると。ポイントは、〝我が身を顧みず〟という部分で、何かの見返りを期待しないという姿勢が問われる。見返りを期待してしまうと、つい自分の都合のよいように相手を御してしまいそうであるが、それでは、自我が前に出過ぎてしまい、〝深い慈しみ〟はどこかへと追いやられてしまうと…。」  半年に一度の御礼清掃の日、見返りを期待しない感謝のこもった作業をさせていただきたいものと思うところです。そのためには、体調の管理も大切であり、高野山のご法話シリーズを聞きすぎて寝不足などならぬよう頑張りたいものです。

 

ところで、新型コロナのワクチンですが、2回目の接種が完了しました。2回目は、ダルさ、関節痛、微熱などあり、ほぼ1日休養でした。これで、バリヤー確保したとは思わないことにしました。第4波が到来し、その主たる勢力は、インド由来のデルタ株であるとのこと。今まで通りの消毒、マスク、三密を避けるなどの対策を続けていくことにする必要があると感じています。強力なワクチン、加えて治療薬の開発など、努力されている関係者の皆様にはこれまでにもまして心から応援させていただきたいものです。ウイルス禍の一日も早い終息を強く願って祈願するものです。

(合掌)

管理人

梅雨の一休みにお参り

お参りの日は、多忙でした。午前中は病院で経過観察中の肺がん(?)のCT検査。結果は「変化なし」で、半年後に再検査。今は、不整脈が危ういのですが…と、言いたいところをグっと我慢して5千円払って一安心という次第でした。その後、約束のお参りをさせていただいたのですが、親先生には、色々ある病人ばかりが押しかけていて申し訳ありませんと叫びたい気持ちでした。お山は、緑深く、色とりどりの紫陽花が美しく咲き競っていました。今年は、枇杷の当たり年であると…。親先生には、それを狙うサル達との知恵比べを楽しんでおられるようにお見受けしたものです。

  

親先生より 6月は、「慈悲(慈は他の人に利益と幸せを与えること。悲は他の人から苦しみや悲しみを取り除くこと。)」といただきました。

中村元先生編著による「新仏教語源散策」には、次のようにありました。(抜粋)

仏典における「慈悲」は、より広やかな、そしてより根源的なものに根ざした言葉であると。 「大智度論(だいちどろん:大品般若経(だいぽんはんにゃきょう)の注釈書で100巻より成る)」に、「慈悲」は、仏道の根本なり」と説かれ、「法華経」嘱累品(ぞくるいぽん)に「如来には大慈悲あり」と、また「観無量寿経」に「仏心とは、大慈悲これなり。無縁の慈しみをもって、もろもろの衆生を摂するなり」と説かれているように、慈悲は、仏道修行をしてゆくうえの根本精神であり、苦しみ悩むすべての人々を救いとらんとする仏の心そのものであり、ひいては仏教そのものであると言えると。…

パーリ仏教(上部座仏教、あるいは南伝仏教とも呼ばれる)の解釈では、「スッタニパータ註」に、「滋」とは「同朋に利益と安楽とをもたらそうと望むこと」いわば「与楽」と解し、「悲」とは「同朋から不利益と苦悩とを除去しようと欲すること」すなわち「抜苦」と解している。

  

ここで、与楽(慈)、抜苦(悲)、といっても、安楽を与えることはとりもなおさず苦悩を除くことであるから、両者は内容的には同じであると。ちなみに「心地観経(しんじかんぎょう)には、「慈」が「父の恩」に、「悲」が「母の恩」に、「慈父の恩は、高きこと山王の如く、悲母の恩は、深きこと大海の如し、と比定されている。ともあれ、「慈」と「悲」とは、心情的にはほとんど同じものに根ざしているので、漢訳者たちは、両語を区別せず、熟字を好む習慣から、「慈悲」という成語を生み出し、それが一般化されたものと。…

  

(中略)…仏さまが身を捨てて苦界にあえぐ衆生を救わなかった場所はないと。…あたかも雨の如くに、その慈悲はいかなる者にもあまねく及ぶものと。…また、大乗仏教の菩薩たちは、慈悲心をもって苦しみ悩む人々を救おうとする誓いを立て、それは「誓願」、「本願」と呼ばれていると。…また、「慈悲」とは、他人に対して仏の教えを説くこと、法を説くこと(法施)であるとも考えられていたと。(原始仏教)   ――と、考えると、「慈悲」という語の源について解説しようとしている当事者の行いそのものが、慈悲の実践ではないかと……。

   

新型コロナウイルス感染症は、自身も1回目のワクチン接種が完了し、2回目を待つところですが、ワクチンが世界に広く行き渡り、コロナ禍の早期終息が叶うことを願うものです。そしてまた、変異株ウイルス対策のための新薬やワクチンの更なる開発など心から応援したいと願い、祈願するものです。

(合掌)

管理人

平年より22日早い梅雨入り

土曜日の午後、山陰は梅雨入り、平年より22日も早いとのこと。夏の熱波に耐えねばならないかと思うと、不安にもなりそうです。その雨に先立って急遽お参りさせていただくことにしました。親先生はお同行さまと花の終わったツツジの剪定に忙しくしておられました。境内の草刈りなどいつもご苦労されていて、感謝の気持ちでいっぱいです。降り始めた雨の中、お山の中腹からは雲が沸き上がっていて、一休みして…と、促されているように感じたものです。

  

親先生より 5月は、「心配」( 心配は心を配ること、つまり思いやりの心を言うのです )といただきました。

近代の高僧の一人である山本玄峰老師【注】には人生の真髄をうがった多くの言葉があると。「心配」もその一つで「心痛はしてならぬ。が、心配は大いにせよ」と。「心痛」は心を痛めるのであるから益のないこと。一方、「心配」は、心を配ることであり、千々に砕いて配るべしと。つまり、知恵と慈悲とが一つに溶け合った行為の実行を勧めていると。 

  

師はまた、「人には親切・自分には辛切・法(仏法・真理)には深切であれ」とも心配を展開されていると。徳川後期の儒者佐藤一斎の「春風をもって人に接し、秋霜をもって自らつつしむ」の言にも相応し、さらに「法には深切」は、師にしてはじめて言える至言であると。心は痛めてはいけない、心は執らわれてはならない、ころころと流れるように配らねばならないと…。( 禅語100選( 故 松原泰道師・著 )より抜粋 )

【注:山本玄峰老師(1866-1961)三島市龍沢寺・住職。 和歌山県生まれの禅僧。生涯を通して四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。鈴木貫太郎首相に終戦を勧め、日本の降伏を国民に伝えた玉音放送の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」の元となる文言(禅宗の始祖・達磨大師の言葉「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じ」を元にしていると。)を進言したと。】(Wikipediaより抜粋)

  

新型コロナウイルス感染症は、いよいよ第4波に突入、緊急事態宣言が延長されるに至っては、オリンピックの更なる延期も必要となりそうです。希望はワクチンの接種でしょうか…、今月17日からの接種の通知が届いています。日本でも4社のワクチン開発がすすめられていると聞きます。皆で、医療担当の方々同様に、心からの応援をしたいものです。 そしてまた、新型コロナウイルス撲滅のために努力されている関係者の皆様にも、心から応援させていただきたいものです。新薬や変異対策など待たれる研究・開発が飛躍的に進み、新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

新緑の眩しい中のお参り

1ヵ月ぶりのお参りでした。境内のお山は、新緑につつまれて心地よく、早くも石楠花が淡いピンクの花をつけていました。新緑の紅葉が目に眩しく、ツツジ、皐月なども、今が盛りでしょうか、今年は、2週間くらい季節が早いもようです。お同行様が草刈りに頑張っておられます。有難く、感謝申し上げるものです。

  

親先生より、4月は、「不自讃毀他戒(<ふじさんきたかい>:自分の自慢、他人の悪口を言ってはならない) 」と、いただきました。

「不自讃毀他戒」は、「梵網経(梵網経盧遮那仏説菩薩心地戒品)」下巻にあり、十重禁戒、及びそれに関連する細かな規定を定めた「四十八軽戒」がある中、「十重禁戒」の第七番目にあるそうです。「十重禁戒」とは、「不殺戒(ふせつかい)」、「不盗戒(ふとうかい)」、「不淫戒(ふいんかい)」、「不妄語戒(ふもうごかい)」、「不酤酒戒(ふこしゅかい)」、「不説罪過戒(ふせつざいかかい)」、「不自讃毀他戒」、「不慳戒(ふけんかい)」、「不瞋戒(ふしんかい)」、「不謗三宝戒(ふぼうさんぽうかい)」であると。

なお「梵網経」は、日本への影響も大きく、鑑真和上の渡来によって、授戒のあり方が変わったそうです。鑑真和上は、東大寺に戒壇を築き、聖武天皇始め430人を授戒、その後、筑紫大宰府の観世音寺、下野国の薬師寺にも、戒壇を設立したとあります。(「お経で学ぶ仏教」東京大学仏教青年会・同蓑輪顕量教授・編著より)

  

道元禅師「正法眼蔵」95巻の重要文言の集約である「修証義」には、第十五節として、次のようにありました。「次には応(まさ)に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を受け奉るべし、第一摂律儀戒(だいいちしょうりつぎかい)、第二摂善法戒(だいにしょうぜんほうかい)、第三摂衆生戒(だいさんしょうしゅじょうかい)なり、次には応(まさ)に十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)を受け奉るべし、第一不殺生戒(だいいちふせっしょうかい)、第二不偸盗戒(だいにふちゅうとうかい)、第三不邪淫戒(だいさんふじゃいんかい)、第四不妄語戒(だいしふもうごかい)、第五不酤酒戒(だいごふこしゅかい)、第六不説過戒(だいろくふせっかかい)、第七不自讃毀他戒(だいしちふじさんきたかい)、第八不慳法財戒(だいはちふけんほうざいかい)、第九不瞋恚戒(だいくふしんいかい)、第十不謗三宝戒(だいじゅうふほうさんぽうかい)なり、上来三帰(じょうらいさんき)、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)、これ諸仏の受持(じゅじ)したまうところなり。

「訳文」 次には、三種にまとめた真心からの戒を、是非とも受けるべきである。第一は全て悪いことを真心からしてはならない戒、第二は全て良いことを真心からしなさいという戒、第三は、生きとし生けるもの一切を救うためになるようなことを、真心からしなさいという戒である。次には、重要な十種のしてはならない戒を受けるべきである。第一はものの命を取らないという戒、第二は他人のものを盗らないという戒、第三は邪(よこしま)な男女の交わりはしないという戒、第四は嘘は言わないという戒、第五はお酒を買わないという戒(迷いのお酒に溺れないという戒)、第六は他人の過ちをせめたてないという戒、第七は自分の自慢をしたり他人の劣っていることを言わないという戒、第八は法も財も施すのに惜しまないという戒、第九は瞋(いか)りを起こさないという戒、第十は三宝を謗(そし)らないという戒である。 以上のように仏法僧への帰依、三種の真心からの戒、十種の大事な戒、これらは諸仏が守り続けてきた戒である。(「修証義解説」(曹洞宗吉祥院住職・丸山劫外師(尼僧様です)著)より抜粋)

  

新型コロナ禍が続いておりますが、SNSという時代のおもちゃが悪用されて、誹謗中傷が絶えない現実があります。お互いに良いところを見つけ合うことに集中したいですね。気持ちを楽にして、「かたよらない心」、「こだわらない心」、「とらわれない心」でありたいと思うのですが、年を重ねるにつれ、皆さまにお世話になることが多く、溜息が出てしまいます。いつもご迷惑をかけていますこと、この機にお詫びし、深く感謝申し上げるものです。

新型コロナウイルス感染症は、いよいよ第4波に突入の模様、鎮静化は望めそうもなく、陣頭指揮を取るべき中枢のお役人が最も避けるべき集団会食を深夜まで行っていたそうですから、神仏にでもお願いするしか無いのではと…。 それでも希望もあります。ワクチンの接種も着々と進んでいる模様ですし、日本でも4社のワクチン開発がすすめられていると聞きます。皆で、医療担当の方々同様に、心からの応援をしたいものです。 そしてまた、新型コロナウイルス撲滅のために努力されている関係者の皆様にも、心から応援させていただきたいものです。新薬や変異株対策など待たれる研究・開発が飛躍的に進み、新型コロナウイルス禍の一日も早い終息が叶うことを強く願うものです。

(合掌)

管理人

 

春雨の永代経法要

今日は、春の永代経法要。 新型コロナ禍のため、寒い中、扇風機で換気し、百万遍の大念珠は、全員が、マスクし、手袋をしての珠数繰りにて、ご先祖様廻向をさせていただきました。準備などお世話いただいた皆さまに心より感謝申し上げるものです。 雨に煙るお山は久し振りですが、その全体が赤みをおびて新しい芽吹きを予感させてくれます。境内は、もはや桜が5分咲きくらいでしょうか、レンギョウ、ユキヤナギなどはすでに満開で雨に濡れて耐えている風に感じられました。 

   

 親先生より、3月は、「泣 ( 泣いていいさ、明日を生きるために、未来を築くために ) 」と、いただきました。(親先生からは、ご法話でも一部紹介されました)  涙については、まず、宗祖覚恵上人さまが立教されて間もない頃のご遺訓がありました。一日の行で疲れた身体を、せんべい布団に横たえて眠ろうとされるも、いろいろと思われるのか、なかなか眠りにつかれず、涙をながしておられることがよくあったそうであります。そんなときに決まって授かられるおじひは、「ひとりで泣くとおもうなよ。そなたばかりを泣かせはせぬぞ。この大悲の親も諸ともぞ」であったと。上人さまは、突然起きあがり、おじひを授けてくださったみ仏の方角に両手を合わせて、「ありがとうございます。もったいのうございます」と、悲しみの涙から、よろこびの涙へと一転し、とめどもなかったそうであります。居合わせたお同行さまたちは、「ほら、いま、お上人さまのおじひがお出ましになっている。早くいただきましょう」と、隣の部屋から、頭を畳にすりつけて、涙を流しながらいただかれたそうであります。(概説.・中山身語正宗より、抜粋)  

   

親様には、報恩感謝とともにおすがりすれば、ともに泣いてさえいただけると…。50才を過ぎたころから、良く涙が流れるようになりました。それは、これまでの生きざまへの猛省であったり、友人、家族、仕事仲間、果ては先祖さまに至るまでのみんなに詫びる気持であったように感じます。生きざまとは言え、自分ひとりの勝手になるものではなく、みんなに多大な迷惑を承知して生きてきたのではないかと。そして日々生きることに汲汲としていた…そんな生き方が限界だったのかもしれません。病を得て65歳で退職し、単身赴任から解放され、親先生にご縁をいただいてから今日まで、うれし涙と出会えるときが戻って来つつあり、ありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。

   

もう一つ、松原泰道師(臨済宗妙心寺派龍源寺住職)著「こころの開眼」には次のような逸話がありました。それは、師の内孫が僅か2日ほどで亡くなられたことでした。更に運悪く、檀家でも長く病んでおられたご主人を無くされた方があり、葬儀が重なってしまったと。師は、若和尚に「こう言う時こそお経を読んであげるのが本当の供養になるのだから、子どものためにも、行ってあげなさい」と送り出したと。数日後、その未亡人が「あの若和尚さまに世にもありがたいお経を読んでいただきました」とお礼を言われたと。よく聞いてみると、若和尚は「奥さん、ご主人を亡くされてお悔やみを申し上げるべきですが、私には慰めを言うべき言葉がない…。たった今、初めての子供を亡くしたばかりで、棺のままに置いてあるのです…と。そういう時だから、とてもお慰めできないし、今日は、短いお経でお許しくださいと言い、二人で般若心経を読んだそうです。  未亡人の話は続きます。「お経は、ご本があれば読めるお経ですし、まして若和尚さまは空でお読みになれる。その読みなれた心経が二人とも途中で読めなくなってしまいました。何べんも涙にむせぶのです。」と。若和尚は、「奥さん、もうやめておこう。読めないお経が本当のお経だったんだから、やめておこう。坊やが亡くなったおかげで本当にお経が読めるようになりました」と。これを聞いて師は、一つの経験というものが人さまのお役に立つのだと感じられたと…。

師は、「仏教は苦労人の宗教」だと思っておられると。人生の苦労を舐めた人であれば、年齢のいかんを問わず、学歴の有無に関係なく黙っていても通じるものがあると。それはキリスト教でも通じると。「泣いてパンを食べた者でないと、本当の神の心は分らない」とあるそうです。

10年前、3月11日、私はいまだ現役で新宿で勤務していました。30秒もあったと感じられる長い地震の揺れにパソコンを支えて耐え、それが何度も繰り返したこと、何百万という帰宅困難な人たちの群れが、駅の隅々まで溢れ返っていたことなど、昨日のように思い出したものでした。その時の徹夜での支援活動など、経験者でないと分からないとの逸話でしたが、共感するものがあります。

同じように子供を亡くされた師の知人女性の歌がありました。…「なぐさめを求めて泣きし我なれどささげて生くるよろこびを知る」…と。 求めているときは甘えがあるが、その体験を人さまに役立てていただくときこそ、それは喜びになると…。

   

新型コロナウイルス感染症は、いまだ第3波が鎮静化ならず、変異株も増加しつつありますが、ワクチンの行き届くことなど心待ちされます。バングラディシュのノーベル平和賞受賞者・ムハマド・ユヌス氏が提唱しているワクチンの特許権のフリー化・製造権の開放が今の世界を救うとの考えに大賛成するものです。新型コロナウイルス撲滅のために努力されている関係者の皆様にはこれまでにもまして心から応援させていただきたいものです。そして、新薬や変異対策用ワクチンの開発など、新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

杉花粉の一日

久し振りのご恩日のお参りでした。晴天ではありましたが、やや風も強く、少し寒い…そんな一日…ただ、花粉の飛び方は大変なものでした。今日は格別に花粉の存在が肌身をもって感じられたものでした。この前のお参りよりも、梅、あせび、山ツバキなど、今が盛りの花々が元気を与えてくれています。そして、コロナ禍につき、寒さに耐えての換気が行われ、百万遍(珠数繰り)では、手のアルコール消毒をし、更に薄い手袋をしての珠数繰りとなりました。

  

親先生の今日のご法話は、「坂村真民」氏の「二度とない人生だから」(「自選・坂村真民詩集」より)と、宗祖・覚恵上人さまのご遺訓との類似点についてでした。

先ず、坂村真民氏の「二度とない人生だから」は、次のようでした…(写真参照)

・二度とない人生だから一輪の花にも無限の愛を注いでゆこう一羽の鳥の声にも無心の耳を傾けてゆこう

・二度とない人生だからまづ一番身近な者達に出来るだけのことをしよう貧しいけれど心豊かに接してゆこう

・二度とない人生だから露草の露にも廻り合いの不思議を思い足をとどめてみつめてゆこう

・二度とない人生だから昇る日沈む日丸い月かけてゆく月四季それぞれの星々の光に触れて我が心を洗い清めてゆこう

・私が死んだら後を次いでくれる若い人達のためにこの大願を書き続けてゆこう (抜粋)

  

「この詩の中には、宗祖覚恵上人さま思い出させてくれるところがあります。」と、親先生。 上人さまは明治3年生れ。この4月にはご生誕150年法要が行われますが、コロナ禍で大本山のみで行われるとのことです。(役員・職員のみで行う)

「宗祖上人さまは、どんな人であったかというところで、坂村真民氏と共通しているところを感じる」と、親先生。

上人さまについて、親先生には、次のように紹介されています。

・例えば、ある人から「他人を導けるようになるには、どれほどの行を積んだらよいか」と、尋ねられたところ・・・・・「自分の真似をしなさい、と言えるまで行をしなさい。自ら苦労しない者には衆生を助けることは出来ません」と、体験をして、そこで得たものこそ、本当に衆生を導けるものです…と。

・「み仏から心を授かるためにはどれほどのお行を積まなければならないでしょうか」との問いには、即座に「死ぬまでです」と答えられたと。「他人がいいものを着ていると、自分も着たい、他人がうまいものを食べていると、自分も食べたい」などの人間の欲は死ぬまで離れないからであると。

・お山(本山)での食事は極めて粗末なもので、粥が多かった。それは上人さまも同じものを食べておられたが、その食事に不満をいだき、缶詰など持ち込むものも多かった。そんなとき、上人さまは、「美味しいものは料理屋でたべるとよい、ここは修行の場ですよ」と諭されたと。

  

・お山は、杉や桧の銘木が育っていますが、苗木の手入れに行こうとされている上人さまに、「そのような仕事は代わりの者にさせてはいかがですか」と問われると、「これは子どもの教育と同じことです。立派な人に育てるためには良い教育が必要で、同じように良い木を育てるためには良く手入れすることが大切です。如来大悲は、まこと一つが目当てです。まこと一つを間違えなければ信仰は、野原でも出来るものです。あなたの目の前にある石ころが、私の手入れしようとする苗木が、仏さまなのですよと、諭されたと。

坂村真民氏の詩には、仏さまに通じるものを感じていますとも親先生のお話しにはありました。

  

明日からは、桃の節句の季節、新型コロナウイルス感染症対策は、いよいよワクチン接種が視野に入るまでになりつつあります。数多の病持ちとしましては、副作用などの心配が少ない、新薬や更なるワクチンの開発などに英知を集めて頑張って頂きたく願うものです。

(合掌)

管理人