由来

 山陰高野山(法泉山)瀧光寺 縁起



すすまぬ心もすすませて あなたのご恩の尊さよ
 この詩は、当山近郊の一篤信者様の詠まれたものです。昭和22年4月21日の夜半より3夜続けて、菩薩様が夢枕に立たれ、「この山(湯里・大師山)に八十八箇所を開けよ」とのご霊告がありました。当山は、このご霊告によって開顕されたものです。
 仏様に至心まことでおすがりするとき、入我我入、三身一体となり、み仏の三密と衆生凡夫の三業とが渾然融合して仏智不思議を体現するものです。
 当山は、本堂をはじめ、信徒会館、大小十ヶ所の参拝堂、お山より湧き出る霊水のお滝場、お百度行場等々あり、信行一如の道場として広く大衆のために開かれた霊山です。


霊山開顕のこと(初代親先生(新治照道住職)ご体験記(抜粋)より)

 血と汗と涙で開く大師山 御慈悲のみ手に導かれつゝ
 これはわたしが教えも新たに島根県温泉津町湯里・清水大師山に当山を創設する最中に口ずさんだ甚だつたない歌であります。題といい、歌と申し、仏光にてらされたならば誠に増上慢に墜ちた思い上がりも甚だしいことと存じます。
 然しながら、一泥凡夫に過ぎない私が、親様のお慈悲のお導きに遇って、苦難の中にも楽しさを味わいながら、出来難い難事を一つ一つ成就させていただいたことは、偏に御同行様の御奉仕御協力の賜物とは申せ、如何に考えても不思議と言うより他は表現の辞もなく、有難い御慈悲の御導きがあればこそ、仏智不思議の裏付けがあったればこそ、味わわんとして味わうことの出来ないこよなき体験があったればこそ、成就の道も開けたものであったと、今にしてしみじみ了解させられるものであります。
 清水大師山は、遥か昔、真言宗系の寺坊があったらしく、現在土地の古老もその詳細を知る由もありませんが、土地の字名に寺畑、堂の本と寺の名称がつけられていたり、五輪塔が田の中、畑の中など諸所彼処から出て来たのを見ても、山麓の池から周囲一丈もある杉の大木が数多く掘出された形跡から見ても、恐らくは四、五百年の昔、大地震のため山が裂け、お寺が倒壊したものと推察されます。 そして、今から百五十年前、地元の祖先が旅先(四国)から一体の大師尊像を持ち帰りこの山に安置してからは、「清水お大師山」として霊名を遠近に知られるようになっていました。
 昭和22年2月、一篤信者様のお導きで、はじめて九州高野山へ多数のお同行様共々お詣りしたのですが、その後間もない3月某夜宗祖大菩薩様がこのとき同行の一篤信者様の枕辺に3晩続けて御霊告され、「この山を八十八箇所に開いてくれよ」との懇々たるおさとしがあったのです。
 幸い、私所有の山であったため、種々経緯の後、その委託を受けて、最初は軽い山開きにかかったのですが、深入りしてみれば仲々事はむつかしく遂にその秋、本山において得度したのであります。
 本山での得度の後、七日間の行に入りました。大悲の加被力と申しましょうか、言うに言われぬよろこびが私の心一杯に広がるのでした。行願三日目の朝、私は歓喜のあまり滂沱と流るゝ涙もろとも親様に懺悔し、お誓い申し、大悲の御冥護をお願い申し上げたのであります。その時、私自身が言ったとも覚えず、「有難いお慈悲をやるぞー、受け取れー」と大声で叫びました。
 丁度その頃、いまだ眠っていた妻が夢を見ました。枯木の空洞ともつかぬ穴から二つの巻物が出て来て、その一巻がくるくると開かれ、巻物の中には数え切れないみ仏がお座りになっておられ、その御姿を拝する間なしに、「やるぞー、受け取れー」との私の声で夢破られたそうであります。
 妻からこの夢の話を聞き、言い知れない感動に胸うたれ,霊山開顕!!そうだ、是が非でも山を開かねばならぬと大いなる勇猛心が沸き起こったのであります。わずか一宇の小堂を建てるにもその苦難は並大抵のものではありませんでした。人手不足のため傷のうずきに堪えながら築石運搬の片棒担ぎをした苦しかった頃、往時を振り返り、うたた灌漑無量と申しますか夢のような気がしてなりません。
 ここで、夢に見た巻物ですが、当時は皆目見当もつきませんでしたが、それから数年後、久し振りに本山御宝蔵に入らせていただいた時、ふと御内陣須弥壇前に二つの古い巻物があるのに気付き、思わずハッといたしたのであります。恐らく金胎両部曼荼羅ではなかったかと拝察されます。
 現在、山も一応の輪郭基礎は出来上がりましたが、今後もたゆみなく無限の成就への道へと精進いたそうと思っております。一年一年と歳を拾うにつけても、いつまでも赤子の心を失いたくないものと希うばかりです。

   (平成3年11月刊 瀧光寺信仰霊体験記「歓喜」より)