親先生のお留守のお参り

久し振りのお参りは突然に女房殿の都合で始まりました。お寺の境内は、寒冷前線が通過した後で、秋の空気に包まれて肌寒い感じ…。親先生はお留守でしたが、いつものようにお参りさせていただきました。遠くで野猿の声を聞いたように思いましたが、姿を見ることは無く、お山の全体がやや赤みを増したような…、しかし、まだまだ深い緑が山肌を覆っていると感じました。……秋の足音が聞こえて来そうな境内でした。

  

親先生より9月は、「啐啄同時(そったくどうじ) 〝 学ぼうとするものと教え導くものの息があって相つうじること〟」といただきました。

中国、唐末期~宋代、鏡清道怤(きょうせいどうふ)禅師の『碧厳碌』第16則に、次のような言葉があると。『大凡行脚人(おおよそ、あんぎゃのひとは、) 須具啐啄同時眼(すべからく、そったくどうじのまなこをぐし、) 有啐啄同時用(そったくどうじのようあって、) 方称衲僧(はじめてのうそうとしょうすべし。)』、 <解説>そもそも、修行の旅に出て、正しい指導者を求める人は、修行者と指導者とがピッタリ息の合うのを見定める鑑識眼を備えなければならない。指導者に投ずれば、修行者と指導者が意気投合した働きを示しえて、初めて禅宗の指導者といえるのであると。…( 中略 )… 後に、道元禅師は、『学道用心集』のなかで、「第五則 参禅学道は正師を求むべき事」という項目を掲げて、その中に、「正師を得ざれば(得なければ)、学ばざるに如かず(~のごとし)」とまで述べている。この言葉の重要性をよくよく理解しておく必要があると。(仏教名言辞典・石井修道駒沢大教授著)

  

松原泰道老師の著による「禅語百選」には、「碧厳録第16則」として、解説があり、「機を得て相応ずる得難い好機」を言い、ちょうど、鳥の卵のふ化のとき、雛が内側から吸ったり突いたりすることを「啐」と言い、親が外から突くのを「啄」と言うと。転じて、修行者の機の熟したのを見て、師家(修行者を指導する高僧)が、さとりの動機を与えることを言うと。それは極めて繊細で、親と雛との啐と啄が少しでもズレたら生命は継承されず、さとりという永遠のほとけのいのちも啐啄のときを誤ると伝わらないと。 禅者にあっては、禅のこころを表すために用いる時は、深い意味を持っていると。それは、修行者の煩悩の底にひそんでいる純粋な人間性をどうして自覚させるか、それには、煩悩の厚いカラ(殼)を隔てて、師家がすでに自覚している純粋な人間性とのふれあい…、自覚と他覚との〝同時〟…、自力と他力の深層での出会いであると。 

わたくし事ですが、いまだ、真に〝おじひ〟の何たるかも良く分からぬままの凡夫であるのみにて、親先生に万事おすがりする以外になく、お行が足りぬとしっ責されるも必死におすがりする他にないことです。

  

新型コロナのワクチン接種は、令和3年6月に2回目が終わりました。そして、オリンピック・パラリンピックは、第5波の新型コロナウイルス変異株の猛威の中、ほぼ無観客で実施され、練習に練習を重ねてこられたアスリートの皆さんには心より〝おめでとう〟を言わせていただきます。一部新聞によりますと、コロナ禍の無観客による損失は、約11兆円との試算であるとか、なんとか緊急の支援が漏れなく行なわれることを願うものです。 現在も緊急事態宣言下であり、まん延防止等重点措置下でもあり、ワクチン接種計画、治療法の開発、今後の緊急国内展開など、関係者の皆さまには、なんとしても頑張っていただきたいものです。

(合掌)

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