早朝から滝のような大雨が突然降りだしたり、晴れ間も見えたりと不安定な天候ではありましたが、昨日は御行清掃させていただく日でした。いただいた作業は、位牌堂周辺と本堂周辺の枇杷の剪定でした。雨の中、お同行の方々との作業となりましたが、非力なわたしには、少し太い枝になると時間ばかりが掛ってしまい、結局、大部分は皆様に助けられている有り様、ただ感謝するに尽きたものでした。
周辺の大雨は、作業の終る頃には、曇り空と変わっておりましたが、ニュースでは、40ミリ前後の雨であったとか・・・。雨上がりの境内には、雨の似合う紫陽花、擬宝珠、姫扇水仙などが雨にしっとりと濡れて、これまでにない格別の風情を感じさせてくれました。
信徒会館の脇には、濁流が轟音とともに流れ落ちて、気づかぬうちの大雨であったことを現認させてくれました。
今月の親先生からは「直指人心(じきしにんしん)《大切なのは自分の心を明らかに知ること。》」と、いただきました。唐代の黄檗希運禅師の「伝心要録」に、「到此之時方知、祖師西来、直指人心、見性成仏、不在言説(此の時に至り、まさに知る。祖師の西来以来、直指人心・見性成仏は、言葉では説明できないことを)」とある一節で、禅の開祖達磨大師の教えだそうです。
「大師が説いたのは、ただ一つの心、ただ一つの真理だけであって、その伝え方は、仏によって仏を伝えるという方法(以仏伝仏)で、それ以外に説かなかった。その法は、言語では説くことのできない法(不可説法)であり、客観や対象物としてとらえるものでもない(不可取仏)。これを本源清浄心と呼ぶと。ただこの一事のみが真実であると。」
達磨大師が伝えた法とは、外側から客観的に把握できるものではないと、それは、人の心の真ん中に入り込むような主体的なものであると言う。禅は言葉ではないと、理論でもない、理屈や分別でもない、ましてや学問でもないと。それは百言を弄しても伝わらないもので、直接、相手と心をつかみ合うことでしか伝わらないと。
修行を積まれた親様に直指していただき、自らをして掴めぬ心根を洞見していただければと、その心性に仏性の有無は分からなくとも、日々のお行に向かわせていただけていることの喜びなどが僅かにでも感じていただけていたらと願ってみる今日のわたしでした。感謝申し上げます。
(合掌)
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