お参りの日は、多忙でした。午前中は病院で経過観察中の肺がん(?)のCT検査。結果は「変化なし」で、半年後に再検査。今は、不整脈が危ういのですが…と、言いたいところをグっと我慢して5千円払って一安心という次第でした。その後、約束のお参りをさせていただいたのですが、親先生には、色々ある病人ばかりが押しかけていて申し訳ありませんと叫びたい気持ちでした。お山は、緑深く、色とりどりの紫陽花が美しく咲き競っていました。今年は、枇杷の当たり年であると…。親先生には、それを狙うサル達との知恵比べを楽しんでおられるようにお見受けしたものです。
親先生より 6月は、「慈悲(慈は他の人に利益と幸せを与えること。悲は他の人から苦しみや悲しみを取り除くこと。)」といただきました。
中村元先生編著による「新仏教語源散策」には、次のようにありました。(抜粋)
仏典における「慈悲」は、より広やかな、そしてより根源的なものに根ざした言葉であると。 「大智度論(だいちどろん:大品般若経(だいぽんはんにゃきょう)の注釈書で100巻より成る)」に、「慈悲」は、仏道の根本なり」と説かれ、「法華経」嘱累品(ぞくるいぽん)に「如来には大慈悲あり」と、また「観無量寿経」に「仏心とは、大慈悲これなり。無縁の慈しみをもって、もろもろの衆生を摂するなり」と説かれているように、慈悲は、仏道修行をしてゆくうえの根本精神であり、苦しみ悩むすべての人々を救いとらんとする仏の心そのものであり、ひいては仏教そのものであると言えると。…
パーリ仏教(上部座仏教、あるいは南伝仏教とも呼ばれる)の解釈では、「スッタニパータ註」に、「滋」とは「同朋に利益と安楽とをもたらそうと望むこと」いわば「与楽」と解し、「悲」とは「同朋から不利益と苦悩とを除去しようと欲すること」すなわち「抜苦」と解している。
ここで、与楽(慈)、抜苦(悲)、といっても、安楽を与えることはとりもなおさず苦悩を除くことであるから、両者は内容的には同じであると。ちなみに「心地観経(しんじかんぎょう)には、「慈」が「父の恩」に、「悲」が「母の恩」に、「慈父の恩は、高きこと山王の如く、悲母の恩は、深きこと大海の如し、と比定されている。ともあれ、「慈」と「悲」とは、心情的にはほとんど同じものに根ざしているので、漢訳者たちは、両語を区別せず、熟字を好む習慣から、「慈悲」という成語を生み出し、それが一般化されたものと。…
(中略)…仏さまが身を捨てて苦界にあえぐ衆生を救わなかった場所はないと。…あたかも雨の如くに、その慈悲はいかなる者にもあまねく及ぶものと。…また、大乗仏教の菩薩たちは、慈悲心をもって苦しみ悩む人々を救おうとする誓いを立て、それは「誓願」、「本願」と呼ばれていると。…また、「慈悲」とは、他人に対して仏の教えを説くこと、法を説くこと(法施)であるとも考えられていたと。(原始仏教) ――と、考えると、「慈悲」という語の源について解説しようとしている当事者の行いそのものが、慈悲の実践ではないかと……。
新型コロナウイルス感染症は、自身も1回目のワクチン接種が完了し、2回目を待つところですが、ワクチンが世界に広く行き渡り、コロナ禍の早期終息が叶うことを願うものです。そしてまた、変異株ウイルス対策のための新薬やワクチンの更なる開発など心から応援したいと願い、祈願するものです。
(合掌)
管理人