暑い夏の一日でした…お参り

8月は、不整脈対策の手術をさせていただきました由、久し振りのお参りが叶い、嬉しい一日でした。境内では、花替えのお行をされていると聞き、また、山之守護神堂には、先の大雨と強風、台風などの被害で、直径50センチを超える大木が倒れ、屋根を直撃していたそうで、今日は復旧工事を総代様中心に行われたとのこと。皆さまには、暑い中、ご苦労様ですと、只々、お礼申し上げることでした。

  
親先生より8月は、「進一歩(しんいっぽ)”教えに生きるものにゴールはない。命がけで弛(たる)まなく学び続ける」といただきました。 先ず、中国宋代の禅僧・無門慧開和尚の無門関を読む(秋月龍珉・著・講談社)には、無門関「第四十六則 竿頭進歩」とあり、「石霜和尚が言った。『百尺の竿の頭で、どう一歩を進めるか』、またある古徳(南泉の弟子の長沙景岑)いわく、『百尺の竿の頭に坐っている人は、道に入ることができたといっても未だホンモノではない。百尺の竿の頭で一歩を進めて、十方世界に自己の全身を実現せねばならない』と。

『百尺の竿頭』がどんな所か…、それは無門和尚の言う「打成一片」の禅定三昧の境地であると。 打成一片の澄み切った心境に入ると『これが身心脱落ということか』と、自らその境地を肯定したりする誤りに陥ると。そこは未だ悟りの境地ではなく、更に一歩を進めてこそ、『天地と同根、万物と一体』という『全身』(『宇宙的無意識的自己』・『無相の自己』)を自覚体認できると。 この『進一歩』のことを無門和尚は、先に、『驀然打発(まくねんたはつ)』と言ったと。『何も言えない、何をすることもできない』切羽詰まった状況に修行者を追い込むのもいわゆる『打成一片』の『大疑現前』境に入らせるためで、そこでは一切の『分別』は役立たず、必要なのは、『分別』の主体である『自我』の『死』であると。 それを『禅定(ぜんじょう)』と言うと。そこが『百尺竿頭』であると。そこを『進一歩』すると自我が死んで自己が活きる『悟り』の境地に出ると。この体験を『大死一番、絶後に蘇る』と言うと。無門和尚の言う『驀然打発』で『本来の自己』の自覚での『悟り』であると。・・・『死んで生きるが禅の道』であると。

  

松原泰道老師著の「禅語百選」には、『百尺竿頭進一歩』として、次のように言っておられます。『禅者は「上山の路は是れ下山の路」と言うと。向上から向下に転進するのであると。孤峰頂上で〝いい子〟になったり、〝いい気持ち〟になっていないで、泥んこの社会に戻ること』であると。紫野大徳寺開山の大燈国師は、悟りを開いてから二十年間も五条橋の下で乞食の群れに身を投じていたと。花園妙心寺開山の関山国師も、悟りを得てから八年間、岐阜の伊深の山中で、村人の使役に身を尽くしていると。これが『百尺竿頭進一歩』であると。

そして、浜松医科大学名誉教授・高田明和先生著『禅問答の名言』の中で、山本玄峰老師の言葉を紹介しておられます。『百尺の竿頭にいるような人は隙間なく、油断なく、生活する。そうすると乾坤(宇宙世界)を独りで歩むような広大な気持ちになれる』と解釈され、一番上の人は益々慎重に努力すべきであるとの考え方が見えると。しかし、現代は、競争の時代であり、何時、足を引っ張られて落下するかもしれないと。 生きて行くうえで先を争うことがあったら、先ずは、一歩譲ること。他人の嫉妬を駆り立てては、成功はおぼつかないと。成功しても自慢しないこと。さらに相手を立てる気持があってこそ安泰であると。

  

個人に立ち返って、まず、今の体力で、竿竹の一尺がのぼれましょうか…。登れたところは、誰かの助けをいただいていることに違いなく、感謝、感謝こそが、私の成功の基本と思われてなりません。

新型コロナ禍は、この田舎町にも、石炭専燃型発電所2号機建設工事者のクラスターが発生していましたが、今日の発表で、やっと、新規感染者0人となり、ホッとしたところです。ワクチンは、2回接種してはいますが、今は子ども達も危険と聞いております。 若い方々には、県境を越えるような長距離の移動など我慢されるよう願うものです。医療関係者の皆さまにはもちろん、県民・市民の皆さまにも、基本の対策を徹底するなど全員協力して、新型コロナの撲滅に頑張りたいものです。

(合掌)

管理人