遅くなりました…令和6年9月のブログ

親先生より、9月は、「無為」(むい)『まっさらな心に、戻ってみましょう』、といただきました。 久しぶりに、中村元先生の「岩波仏教辞典」を拝読させて戴くこととしました。

無為は、一般には、何もしないでぶらぶらしていることや、平穏無事なさまをいったり、また、老荘思想では、作為的でない、自然なままのことを意味するが、仏教では、原因や条件《因縁(いんねん)》によって作り出されたものでない。不生不滅(ふしょうふめつ)の在住をいう。涅槃のことを《無為》というが、それは涅槃が生死輪廻(しょうじりんね)を超越した、不変のものであることを表現したのである。

  

そして、以下は、奈良康明著による仏教名言辞典から拝読しております。

【どのように友を作ろうとも、どのようにつき合おうともやがて人はそのようになる。つき合いとはそういうものである。】

〈出典〉インド、原始経典『ウダーナヴァルガ』25.1。

〈解説〉釈尊は悟りをひらき、当時のインドにはなかったキラキラした教えを説いた。それは新しい価値観の創造であり、当時の社会に広く受け入れられた。しかし、当時の倫理のすべてを否定したわけではない。だれでもが認める人生の知恵を仏教の世界観の中で確認しているものも少なくない。

  

この一文も「友」と名づけられた一章の一つで、人はいかに友人に影響されるかを説いたものである。この章には、ほかにも、くさった魚を包めば、匂いの良い草さえ悪臭にそまるし、香木とともにあれば臭いのひどい葉も芳香を放つ。毒を塗った矢を矢筒の中に入れると、他の毒を塗っていない矢を汚す、等という比喩をあげている。

善悪、いずれであれ、私たちは友人からさまざまに影響されることは当然である。仏典は、より具体的な例として、賢者と交わると知恵を磨き、真実を見分けることができる、とか、自分では悪いことをしていなくても、悪人とつき合っていると同じ悪事をしているのではないかと疑われ、評価を落すともいう。「朱に交われば赤くなる」という諺があるが、その仏教版である。

(合掌)

(管理人)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です