はやばやと秋の深まり

突然に女房殿の都合がつき急遽お参りすることになりました。ほぼ1カ月振りのお山とのご対面でした。今年も、サル達が闊歩しているとのことですが、美味しいものから食べているらしく、渋みがある柿さんは後回しになっている模様で、柿がたわわに実っていました。お山はすでに色づき始めていて寒い冬の到来を予感させ、新年の初護摩の朝には、ながーいツララに身が引き締まったことを思い出していました。ただ、その前には、秋らしい紅葉を楽しみたいものです。

  

親先生より10月は、「放下著(ほうげじゃく)〝結果を求めるなら、こだわりを捨てよ〟」といただきました。

この放下著は、「すててしまえ」と言っていると。つまり、こだわりを捨てよと…。この話は、「五家正宗賛」の「趙州(じょうしゅう)和尚の章にあるもので、おおむね次のとおり。中国の厳陽(げんよう)尊者という修行者が『一物不将来の時如何に?(何もかも捨てて、てぶらの時は、どうしたらいいのか?)』と問うと、……趙州和尚は、それでも『放下著』と答えた……。厳陽尊者は、『捨ててしまえと言われても、何も持っていないのだから捨てようがない』と、食い下がる。すると、趙州和尚は、『恁麼(いんも)なら担取(たんしゅ)し去れ [それならば、そいつを担(かつ)いで去れ] 』と言う。 趙州和尚は、『何も持たないという意識までも放下せよ』と、言っていると。『自身で作り上げた身体と口と意の荷物はその時まで自分で担ぐことになる』と、たれにも手助けできないことを知らしめていると。

  

ところで、古代インドでは四住期という生き方を理想としていたそうです。学生期(がくしょうき/8~25)、止住期(しじゅうき/25~50)、林住期(りんじゅうき/50~75)、遊行期(ゆうぎょうき/75~100)と区切るもので、このうち、これから団塊の世代が迎える遊行期については、死ぬための旅に出るとのことであったと。旅であれば荷物は少ない方がよく、次々と手放すことで身を軽くし、身体ひとつの死を迎えたいものと思う次第。 お釈迦様が最後の旅に出られたのも、『手放す旅』だったのではないかとも思うもの…。放下著は趙州和尚の言葉ですが、ここでも『捨てることの大切さ』が説かれていると感じてしまうものです。

少なくとも『遊行期』を迎えるわたしたちの世代には、これまで頂いたご恩に足りようはずもないことは明らかであり、遊行の旅に出るについても、『手放す旅』のみでは不十分と感じるのではないかと…。

  

坂村真民氏の詩集に『一遍智真』という詩がありました。『捨て果てて、捨て果てて、ただひたすら六字の名号(みょうごう)を、火のように吐いて、一処不住の、捨身一途の、彼の狂気が、わたしをひきつける。 六十万人決定往生(けつじょうおうじょう)の、発願に燃えながら、踊り歩いた、あの稜々(りょうりょう)たる旅姿が、いまのわたしをかりたてる。 芭蕉の旅姿もよかったにちがいないが、一遍の旅姿は念仏のきびしさとともに、夜明けの雲のようにわたしを魅了する。 痩手(そうしゅ)合掌、破衣跣(はいはだし)の彼の姿に、わたしは頭をさげて、ひれ伏す。』…。

『捨てること』について、これほどに色々と出てくるものと、驚くべきことです。お導きをいただき、お不動さまお上人さま親先生など皆さまに感謝しつつ、せめても遊行の暮らしを見直し、加えて十善戒をよく守り、一日一日を大切にして、行願に励まねばならないと思うものです。

  

新型コロナウイルス感染症対策は、原因がよく分からないまま、新たな感染者数が減り続けています。そして、緊急事態宣言もまん延防止も全て解除され、経済優先に舵を切られた様子。ワクチンの接種は60%を超えた模様ですが、人出の多いことも気になります。第6次のパンデミックは必至の環境が整いつつあると思うところ…。早急に医療・予防の体制を新薬の矢継ぎ早の放出を、お願いしたいものです。医療関係者の方々はもとより、事務方の関係者の方々にも、長期戦を覚悟しての日々の改善も含めてご努力に感謝申し上げ、引き続き頑張って頂きたく、祈念申し上げるものです。

(合掌)

管理人