ブログ
ブログ一覧
遅くなりました…令和6年8月のブログ
親先生には、8月は、布施『喜びの気持ちで人にほどこす』と、いただいております。
奈良康明著の「仏教名言辞典」にて、多々ある中、この一文を読み上げてみたいものと思います。
『相(そう)に住(じゅう)せずして布施(ふせ)せば、其(そ)の福徳(ふくとく)思量 (しりょう)すべからず。』
【出典】インド、大乗経典、「金剛般若経」、『後秦、鳩摩羅汁訳』
(若菩薩)不住相布施。其福徳不可思量
【解説】布施の原語は「ダーナ」と言い、与えることという意味。 布施には、財施(物の施し)と法施(教えの施し)がある。仏教教団では前者は在家信者が修行者に行う布施で、とくに食べ物の布施が中心である。これに対して後者は修行者が在家信者に対して行う布施で、信者の布施を受けたときに、その善行に対して説法することが布施と考えられている。修行者は生産活動をしないので、信者の食べ物の布施が頼りである。それがあることで修行に専念できる。
一方、信者はその布施をすることで、修行者から法施を受ける。それによって功徳を積み、来世で善いところに生まれ変われるという確固たる信仰をもつことができる。布施はこのように教団のなかでは、信者と修行者の間においてなくてはならない行為で、これを修行とまで考えたのである。修行であるから、そこで、「ものにとらわれながら布施してはならない」という教えが生まれた。
在家信者は、惜しみ心、賎(いや)しい心、お返しを期待する心などをもって財施をしない。つまり、貪(むさぼ)りの心で財施をしてはならない。という意味である。また修行者には教えを出し惜しみしたり、報酬を求めるために説法したりしてはならないというのが法施の意味である。
(合掌)
(管理人)
遅くなりました…令和6年7月のブログ
7月は、盂蘭盆に当たり、施餓鬼法要が厳修されました。この法要でもコロナ禍以降、お参りされる方は少数となり、郵送などを利用され、熱風の吹きまくる状況では、むしろ、好ましいこととなりつつあります。
親先生より、7月は、「陰徳陽報」(いんとくようほう)『人知れず良いことを行う人には、必ず目に見えて良いことが返ってくる』と、いただきました。
以下は、故松原泰道老師の「百歳の禅語」から拝読したものです。明治の文豪幸田露伴の「三福の教え」で、次のような言葉を遺しているそうです。
「今日の吾人(ごじん)は、古代に比べて大いに幸福を有している。これらは皆前人からの植福の結果であり、よきリンゴの木を有している者は、よきリンゴの木を植えた人の恵みを荷(に)なっているのである。すでに前人の庇蔭(ひいん)による。吾人もまた植福をなして、子孫におくらざるべからずである。」
福を独り占めせずに、近所の人に施すだけでなく、未来にも遣わせ、と言うのです。
良いリンゴの木は美味しいがリンゴがなって食べられるけれども、これは自分が植えたけものじゃない、リンゴの木を植えた人はそれを食べることができない。人の寿命は短いから、みんな後の人のために植えている。
だから我々も、リンゴの木を植えるのと同じように、自分の子孫をはじめ、他人の幸せのためにも、やはり福を蒔(ま)いて、おかなければいけない。
この露伴のつくった幸せについての三つ言葉があります。(これらの言葉は、露伴が作ったものだそうです。味わって噛みしめたいものです)
一つは「惜福(せきふく)」、福を惜しみ、大切に、大切にする。
二つ目は「分福」、「分福茶釜(ちゃがま)」などと冗談めいていますが、分福は自分だけでなく福を他にも分けるということ。茶釜で沸かしたお湯は一人だけのものではなくて、みんなで分けていくもの。
三つ目に「植福(しょくふく)」、後の人のために、福を植えて徳を積んでゆく。
惜福は、物をいとおしんで、大切にすること…。例えば、一枚のティッシュペーパーでも、一粒のお米でも大切にしてゆく、これが「惜福」です。
日本の茶の湯の話になりますが、長い間の錬磨によって、無駄なお点前(作法)は一つもない、けれども、一つだけあるとのこと、それは、お湯を杓で汲むとき、すこし多く残して、無駄をするそうです。禅の心から生まれた茶の湯の「分福」というそうです。この分福を修行されたのが道元禅師、越前・福井の永平寺にあって師は、毎朝、柄杓で仏様の水を汲むのですが、閼伽(あか)の水と言い、最後に杓に汲んだいくらかの水を川へ戻すそうです。川に流れる水はたくさんあるけれども、自分たちだけが戴いてはいけない。下流の人たちも、この水を分けていこう…、これが分福、福を分けること、と…。
茶の湯では、杓のお湯を全部茶碗にあけてしまわずに、後の人のために、茶釜に戻していくという作法になったと、…。禅の生活が表れているのですが、こうした行為を「陰徳を積む。」というそうです。陰という字は「かげ」、つまり人に分からないように、目立たぬように、さりげなく他人様の幸せを願っていく。そのように物を大事にしてゆく。そして子供たちに、「閻魔様も分からないように良いことをしなさい」と教え、「他に分かったら何にもならないのだ、……。」と、「黙々として人のために幸せを念じて行きなさい」と、…。それが植福になるのだと、…。
(合掌)
(管理人)
遅くなりました…令和6年6月のブログ
親先生より、6月は「克(欲望などを抑える。困難を切り抜ける)」と、いただきました。
「克」について、大辞林では、動詞(タ)五段活用。「争って相手を負かす。競争して他のものをしのぐ。「大事な試合に…ツ。選挙で…ツ。多くは、克ツと書く。欲望などを抑える。誘惑に、・・・ツ。己に、…ツ。一方の力や傾向などが、他方より、強い、勝っている。能力を超えた負担を負っている。
お上人様がおっしゃっておられましたそうです。「いただくまいと思っても、授かるまいと思っても、『ありがとうございます。もったいのうございます』という、その気持ちがあったならば、必ず授けられる。いただくまいと思うても、いただかずにはおられんことになる。授かるまいと思うても授からずにはおられんと、…。
自分自身が助けられて、救われて生きていることに感謝の気持ちを持つことが一番大事であると、羨む、ねたむ、何になりましょう。自分の粗食に、自分の生かされている現在の境遇に、心からありがとうという感謝の念をもって精進努力するところにこそ、本当の財産もでき、本当の名誉も、家も、おのずから授かることができると…。今の自分をよく見つめて、そしてありがとうございますという感謝の念を持って生きていくこと、……今一番大事なことと思います。
苦しいとき、悲しいとき、つらいとき、感謝するのは難しいことかもしれませんが、しかし、他人と比べることをやめて今現在の境遇に生かされていることに感謝する。これが、宗祖お上人様の歩まれた道であったと、…。「宗祖覚恵上人様語録…心のともしび」より
(合掌)
(管理人)
遅くなりました…令和6年4月(~5月)のブログ
親先生より、4月は「不迎」(むかえず)、『これから先のことを思い悩まない…、』といただきました。また、5月は「不蒋」(おくらず)『過ぎ去ったことをくよくよしない…、』と、いただいております。今回は中国の「荘子」について、守屋洋著より拝読させていただきました。ブログの遅れを取り戻すべく、現在も頑張っておりますが、パソコンの不具合もあと少しで脱出できそうですし、今しばらくお待ち願います。
「老子(ろうし)・荘子(そうし)」は、道家(道教)の人で、紀元前四世紀後半頃、楚(そ)の苦県(こけん)厲卿(らいきょう)曲仁里(きょくじんり)の人で、姓は李(り)、名は耳(じ)、字は聃(たん)と言い、周王朝の録を食んでいたが、その衰えとともに旅に出て函谷関(かんこくかん)に至った。尹喜(いんき)という人に請われるままに上下二編の道と徳に関する説五千余言を残したといわれる。 『史記』は、老子の著作と言われるが、この老聃のほかに二、三の異説を紹介するなど、真偽のほどはわからない…と、あります。 荘子は名を周(しゅう)と言い、宋の国の蒙の人で、『史記』にかって蒙の漆園があり、その管理人をしていたとあります。
【原文】「至人の心を用うるはカガミのごとし。不蒋(おく)らず、不迎(むか)えず、応じて蔵(おさ)めず、故(ゆえに)に能(よ)く物(もの)に勝(た)えて傷(そこな)われず。
【解説】「至人」とは、「荘子」のような理想の世界の人間像であり、そうした人の心の使い方は、鏡のようなものだ…とのこと。それでは、鏡のようとはどのようなことなのか…、「荘子」によれば、まず、「蒋らず」「迎えず」なのだと。「蒋らず」とは、過去にとらわれない。過ぎ去ったくよくよ思い悩まないということである。また、「迎えず」とは、将来のことまで取り越し苦労はしないということであると…。さらに、「応じて蔵(おさ)めず」とは、眼前の現象に自在に対応し、過ぎ去れば痕跡を留めないという意味であると…。
どんな状況でも柔軟に対応できて、しかも、自分が傷つけられることがない。「至人」というのは、定見のない日和見主義的な存在に見えてしまいそうであるが、決してそうではなくて、荘子は、「至人」についてこうも言っている。
「外面は相手によって自由に変化しながら、内面はしっかりと自分の主体性を守っている。相手によって自由に変化できる人物は、自分を傷つけることがないから、その本質は少しも変わらない。だいいち、このような人物は変わるとか変わらないとか、そういう意識すらもたない。よって、相手との摩擦も生じないのである。」と…。
(合掌)
(管理人)
遅くなりました…令和6年3月のブログ
親先生より、3月は、「寛恕」(かんじょ)『心が広くて思いやること、過ちをとがめだてしないで許すこと』…、といただきました。なお、3月は春季お彼岸にあたり、永代経法要が厳修されました。
寛恕(かんじょ)という言葉について、『大辞林』には、「かんじょ」(スル)心が広く、思いやりのあること。また、とがめずゆるすこと…と、ありました。 よく使われる例として『なにとぞ御寛恕願います』などと、使うとあります…。
奈良康明編著『仏教名言辞典』には、次のようにありました。
出典 空海(774~835)「性霊集(せいりょうしゅう)巻第四。
【原文】濁世凡人、豈得无愆、恕過令新、請之寛大、宥罪納臓、稱之含弘。
【解説】濁世の凡夫、豈(あ)に愆(あやまち)なきことを得んや.過(とが)を恕(ゆる)して、新(しん)ならしむる。之(これ)を寛大(かんだい)と謂(い)い、罪を(つみ)を宥(なだ)めて、臓(ぞう)を納(い)る。之(これ)を含弘(がんこう)と称す。
[元興寺の僧の中璟(ちゅうけい)の罪が赦されんことを請う表]の中の言葉。元興寺の僧の中璟の罪が赦されるよう、弘仁五年(814)閏七月二十六日、懇請した上表文であるが、中璟に関しては伝未詳。空海との関連についても不明。また、いかなる罪を受けたかも不明である。しかし、この上表文をみると、中璟は仏法としての戒律・行法を守らず、国の法典をも慎み行わないという、仏法と王法の両者にまたがる罪を犯したようである。しかもなおかつ、ここにとり上げた言葉の前に次のようにある。
「大樹仙人、迹(あと)を曲城(こくじょう)に廻らし、慶喜(きょうき)道者、悩みを鄧家(とうけ)に被る。往古の賢人、猶亦(なおまた)未だ免れず。すなわち、禅定の徳の高かった大樹仙人のような賢人でさえ、王女に恋慕したため曲女城にその醜名を遺し、釈迦の弟子の阿難尊者でさえ、摩登伽(まとうが)という婬女になやまされた。昔の賢人でさえ、なお女犯のおそれを免れることができなかったとある。これらから考えられるところとして、中璟が罪を被ったのは女性に関連したことかもしれない、…と、あります。
空海は、中璟にたいして秦の始皇帝がとった、罪ある時は必ず罰するという方法ではなく、仇に報いるに恩をもってすることを願っていた、と…。
まさに「寛恕」では…。
(合掌)
(管理人)