【清水集落と堂床山】
ここ清水集落から望む堂床山は、千数百年の昔、火山噴火或いは自然発生的な山体崩落によって山が崩れ落ち、西田地区から、清水を経て、小浜へと流れていた川が、堰き止められ、現在の湯里川になったとの伝承があります。
更に、天文8年(1539)8月の豪雨によって、山津波が発生、長さ800メートル、幅300メートル規模の巨岩の海が数ヶ所にわたって出現したとのことです。
この地区の特産品に「清水柿」(西条柿)があります。堂床山の石混りの土壌が栽培に適していたのか大変に美味しいもので、各地に出荷されてきました。栽培は、江戸時代初期に植付けが始まりましたが、初代大森代官が奨励したのではないかとも言われています。
また、清水地区には、島根県の名水百選に指定された「清水の金柄杓(かなびしゃく)」があります。この街道を通り掛った代官様(初代銀山奉行)が、この湧水を飲まれたところ、あまりの美味しさに「金の柄杓」を下さったとのことです。盗まれてはいけないと鎖で“はなぐり”に括られていたとのことで、その跡が残っています。
昔より、毎年8月14日夜、地元の人々が集まり、水に感謝する水神祭がおこなわれています。
そしてまた、この堂床山には、「山姥伝説」があり、堂床山の岩屋に住む山姥が大岩のたまり水で顔を洗うと綺麗になったとの伝承も生まれています。
この堂床山(通称、清水大師山)に、霊山として戦後開山した瀧光寺には、地元の石工さんのご苦労により、これらの巨岩を彫刻して製作された不動明王像を始め、多数の石像、御堂などがあります。
【銀山街道】
石見銀山から銀を搬出し、また、所要品を運び込むために、人馬が往来した街道で、大森の銀山から、西田地区、そしてここ清水地区を経て、沖泊港または温泉津港までの道程は、約15Kmでした。
銀山街道の途中、西田地区は、宿場町として繁盛し、「西田千軒」と称され、本陣を始め、芝居小屋、茶屋などが軒を連ねたということです。
街道を往来した人々には、次のような名前が、いろいろな記録から読み取れるとのことです。
・細川幽斎(ほそかわゆうさい) 1582年 戦国武将、足利義輝・義昭、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、肥後細川家の祖となった。
・教如上人(きょうにょしょうにん) 1587年 一向宗顕如上人の長男。東本願寺の創始者。弟子の了明が住職である石見の順勝寺を訪ねた時、この寺の総代であった豪商辻屋が、300メートルの道に銀の絨毯を敷き詰め、これを献上したとのこと。教如上人は、この銀を基に東本願寺を創建したと言われている。
・大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす) 1601年 初代銀山奉行。武田信玄の下で鉱山開発を学び、徳川家康の命で、石見銀山、佐渡金山、伊豆金山などの採掘量を飛躍的に増大させ、また、江戸の守りの要として八王子千人同心を結成し、また一里塚の設置など全国交通網の整備にも功績がある。
・吉田桃樹(よしだとうき) 1778年 儒学者、大川橋を掛けたことで有名。著書の「槃游余禄」に温泉津温泉の記録がある。
・仙厓義梵(せんがいぎぼん)1812年頃 禅僧、福岡・博多の臨済宗妙心寺派の聖福寺の元住職で、仏画・書の達人であった。交流のあった温泉津町西田の瑞泉寺に自謙和尚を訪ね、3年間逗留したとのこと。(「石見ふるさと大百科」折居克比古編による)
・頼杏萍(らいきょうへい) 1820年 儒者・漢詩人、安芸・竹原の人、三次町奉行を勤める。頼山陽の叔父にあたる。
・小田玄蛙(おだげんあ) 1823年 俳人。広島の人。広島で医を業とした。著書に「萍(うきくさ)日記」など。
・大国隆正(おおくにたかまさ) 1860年 津和野藩士(旧姓野之口)、国学者、明治維新後神祇事務局権判事など勤める。弟子に、王政復古の号令を発した玉松操、福羽美静などがいる。
・福羽美静(ふくばびせい) 1887年 津和野藩士、国学者、漢学、山鹿流兵法を学び後に大国隆正に師事する。明治政府で、廃仏毀釈、神道政策の推進に尽力。元老院議官、貴族院議員となる。