今月は、今まで思い巡らすことなど全く無かった女房殿の入院(ちょっとした手術)という大イベントがあり、ドタバタの連続で、あっという間に、月末となっていました。 境内のお山は、僅か1カ月で秋らしくなり、空は高く澄みわたり、山肌の赤く染まりつつあるを見て、思わず微笑んでしまうことでした。今日は御行花替えの日で、お同行様にはありがたく心より感謝申し上げます。さらに、サルたちの置き土産の柿の実を吊るし柿にされたとか、信徒会館にも秋が溢れていました。
親先生から10月は、「行雲流水 (雲や水のように、そのとき、その場を無心に生きる) 」といただきました。 岩波仏教辞典(中村元先生他共著)には、『行雲流水』として、『【宋史】蘇軾伝に「文を作るは行雲流水の如く、初めより定質無し」とあり、行く雲や流れる水のような大自然のおのずからなる無心無作の働きをいうと…。転じて、一処に滞ることなく自由無礙なる達道の人、およびその境涯を指していうと…。また、略して『雲水』ともいい、一処不住に諸方に師を求めて参学行脚する修行僧とその心境を指すとあります。
故松原泰道師の著・『道元』には、曹洞宗の沢木興道師(~1965年)について紹介があり、一年のうち三百日は旅に過ごし、生涯寺を持たず、「宿なし興道」、「乞食興道」と呼ばれていたと…。17歳で志して出家し永平寺に入り、雑務に使われつつも雲水の坐禅する姿に深く感動し、「門前の小僧、習わぬ経を読む」そのままに見よう見まねで坐禅を組み、たまたまそこへ、いつも興道(幼少の名は才吉)をアゴで使っている婆さんが入ってきたのですが、この時ばかりはびっくりして、そこにつくばい、坐禅している才吉少年に手をあわせて「ほとけさまを拝むようにていねいに」拝んだと…。 道元は、それを『坐仏』というと…。『坐仏』とは、坐禅のすがたがそのまま仏であるということ…。道元禅師は「まことにしるべし、初心の坐禅は最初の坐禅なり。最初の坐禅は最初の坐仏なり」と…。
そしてもうひとつ、中村元先生の「新仏教語源散策」には、『行雲流水』として、行乞流転(ぎょうこるてん)の生涯と言われた種田山頭火の句を紹介しておられます。
・分け入っても 分け入っても 青い山 ・ぬいても ぬいても 草の執着をぬく
一介の乞食僧となって諸国を行脚する毎日は、生やさしい日々ではなかった。夏の炎天下にも、冬の雪降りしきるなかでも、歩を進めなければならなかった。
・炎天を いただいて 乞い歩く ・生死の中の 雪ふりしきる
・どうしようもないわたしが 歩いている ・しぐるるや 死なないでいる
大正14年、44歳のとき、曹洞宗に出家して、永平寺に詣でた。そのときの句…。
・水音の たえずして 御仏とあり ・てふてふ ひらひら いらかをこえた
・法堂(はつとう)あけはなつ 明けはなれている
『行雲流水』は、移り変わる四季のように、定めなく移り変わって止まらないことをたとえて言っていると…。
新型コロナは、第7派が終息に向かいつつある模様ですが、海外からの受け入れを始め、経済に舵を切ったわけで、これからの冬季のインフルエンザと共に行わねばならない難しい舵取りを如何にさばくことが出来るかに掛かっていると思っています。まずはみんなで、良く基本を守って、周囲の人たちと共に頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共に新型コロナも確実に対策したいもの、コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。
(合掌)
(管理人)