遅くなりました…12月のブログ

親先生から12月は、「柔軟心(にゅうなんしん): やわらかい心は、煩わしさもやっかいも、ふんわり受け止めてくれる。と、いただいております。

「やわらか心で人生うまくゆく」垰本全中著より抜粋…。(道元禅師の柔軟心に学ぶ生き方の知恵) (著者は広島県竹原市の少林屈道場にて井上希道老師の指導の下、坐禅に励んでおられるとのこと。)

  

曹洞宗の開祖、道元禅師は中国の宋(日本の鎌倉時代)に渡られ、宋における禅師、天童如浄(てんどうにょじょう)師に、苦労して禅の修行をされたとのこと…。禅本来の目的は全てのとらわれから解放されることであり、それが、「柔軟心」を得ることである、悟りであると指摘しておられます。この「柔軟心」が、道元禅師が得られたもの、禅修行の最終的なに目指すものであるとされています。

同時代の臨済宗の開祖、臨済禅師は、「随所に主となれば、立処皆な真なり」と…。

(訳:「どこででも自ら主人公となれば、その場、その場が真実だ。」(入矢義高「臨済録」岩波文庫、70~72頁)

日本の臨済宗は、鎌倉時代、栄西禅師(えいさいぜんじ)が、宋の国で修行され、開祖となられたもの。臨済録は道元禅師も熟読されていたものでしたが、この頃の中国(唐代末期)では、意気軒昂たる禅僧達の生き様が生々しく描かれている上に、禅の本質に関する鋭い論理が展開されていて、よくよく参考になるとのこと…。

厳しい禅の修行と仕事を両立させるのは大変なことですが、道元禅師は、当時の宋の大臣が官務に多忙であっても、仏道への志が深かったので、悟りを得たという例えを引用して、世の中の仕事というものが、仏法の修行を妨げないことを強調しておられます。(道元「正法眼蔵」(一)弁道話・38~39頁)

現在の臨済禅の基礎を作られた白雲禅師の下には、たくさんの悟りに至った弟子がいましたが、その一人である「おさと」さんという女性は、裁縫仕事に夢中になっていて悟ったとのこと…。夜を徹して裁縫仕事に夢中になっていて、朝、ニワトリが鳴くのを聞いて悟ったとのこと…。

今を真剣に生きるしかないとのこと…。道元禅師は仏道修行について以下のように述べておられます。

「日々選流(せんる)して無常迅速(むじょうじんそく)なること、眼前の道理なり。知識経巻(きょうぐわん)の教えを待つべからず。只念念(ねんねん)に明日を期(ご)することなく、当日当時ばかりを思うて、後日は太(はなは)だ不定(ふじょう)なり。知り難ければ、只、今日ばかり存命のほど仏道に随はんと思うべきなり。」

  

(著者訳)  「日々は流れて無常迅速であることは、目の前の道理である。学識者や仏教の経巻の教えを学習していても、仕方がない。ただいつもの思いとして、明日を期することなく、今日この今だけを思っていることである。明日のことは全く分からない。知ることが難しいのだから、ただ今日だけを生きていられる内は、仏道に従って生きていこうと思うべきである。」

『切に思うことは必ず叶う』と、仏道修行の困難を克服するについて、語っておられます。

「切に思うことは必ずとぐるなり。強き敵、深き色、重き宝なれども、切に思う心深ければ、必ず方便に出来(いでく)る様あるべし。」

(著者訳)「切に思うことは必ずかなうはずである。強い敵、深い色、重要な宝物であったとしても、切に思う心が深ければ、必ず何らかの方便が出てきて、勝つことができたり手に入ったりするものである。」

この切に思うことは、現代でも当てはまることであり、今から考えると無謀であったことも、固い志をもって道を開こうと強く愚直に願っていたからだと感じられます。かたくなに…、ではなく、その志は、他の人の理解を得られるものだったからでもあります。その努力の内には、双方の理解を得るということも含まれているのであると…。

  

新型コロナ、インフルエンザは、減少傾向にありますが、マスクなど、続けたい習慣は、是非にも残したいものです。劇症型溶連菌、RSウイルスなど、高齢者にとっては怖い細菌が控えています。予防としての、マスク、手洗いなど、基本を守っていたいものです。

もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。 それにしても人間って智慧がないですね…、 狭い地球で、争っている時では無い…。 そしてパレスチナ(ハマス)とイスラエルの宗教戦争、世界大戦の様相が見え隠れしているのではないでしょうか???

(合掌)

(管理人)