遅くなりました・令和5年11月のブログ

親先生から11月は、「平常心是道(びょうじょうしんぜどう): 一切のものにとらわれることなく、自分の為すべきことを為す」と、いただきました。

  

【原文・漢】中国・南宋の僧 無門慧開が公案四十八に評唱と頌を配した公案集の第十九則にある。若かったころの趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)が師の南泉普願     (なんせんふがん)禅師に「道とは何でしょうか」と問うと、師は、先輩の馬祖道一(ばそどういつ)の言葉そのままに「平常心是道」と答えたとあります。(景徳伝灯録巻二十八)

【解説】松原泰道師の禅語百撰によりますと、平常(びょうじょう)と平生(へいぜい)は似て非なるものがあると…。平生は《ふだん、そのまま》であり、平常には、さらに自然(じねん)の意味も併せ持つ…と。また、自然(しぜん)と自然(じねん)とでも違い、山川草木に人工を加えないのを自然(しぜん)という…と。そして自然(じねん)は、《おのずから、そのように、真理のままに、あらしめられている現実》とあります。よって、ありのままとは、本能のままにふるまったり、ふだんのままが「道」だというのではないと…。 ありのまま、そのままとは、真理にある状態であり、真理の自然があることを「法爾自然(ほうにじねん)」、「自然法爾(じねんほうに)」とも言い、法然上人の名もこれに由るとのこと…。

  

朝日新聞の「暮らしのことば」欄に、「られるは、古代では、《自然にそうなる》の意味を表わす言葉だった。たとえば、”ごはんが食べられる”のも神仏や人々のおかげで、自分の力のせいではないとの気持ちを表した言葉だった」と、ありました。

芭蕉は、自然を造化と言い、この造化に帰るのを「風雅の道」と言ったと…。すなわち、「見る処、花にあらずという事なし。おもう処、月にあらずという事なし」であると…。

「平常心是道」を無門慧開は、詩にうたっています。 「春に百花有り、秋に月有り、夏に涼風有り、冬に雪有り、若し閑事(かんじ)の心頭(しんとう)に掛(かか)る無くんば、便(すなわ)ち、是れ人間の好事節(こうじせつ)」…と。

前二句に自然を歌っていますが、第三句の「閑事の心頭に掛る無くんば」が大切…と、閑事は"むだごと„であり、中でも自分が執われるエゴが最上のむだごとであると…。この閑事に足をすくわれなかったら、禅に限らず、どの道にもかなうことであると…。

中国・宋代の禅僧白雲の「道とはこれだ、ただこれ、これだ。どうして通れぬか」の一言はよくよく味わうべきであると…。

道とは、禅のこころに限らず、華道・剣道などの道に通じるもの…。稽古の時も一大事の時も、ともに変わった心持ちが無くなるまで習慣化されてこそ「平常心是道」であると…。

  

現在に立ち返ってみますと、シベリアの永久凍土が溶け出しているであろう将来…、予測困難な事態が待ち受けていると思われるところです。 新型コロナもインフルエンザも、グーッと減少傾向にある模様ですが、しかし、マスク着用の習慣は続くものと思われるところ…。 

そしてもうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。 パレスチナ(ハマス)とイスラエル、イランまで参戦しようとしているらしい…。もっと強く調整役ができる人はいないのでしょうか???

(合掌)

(管理人)

遅くなりました…令和5年10月のブログ

遅くなりました。立て続けとなりますが、10月、11月、12月と、親先生のお話から、いただくこととします。親先生から10月は、「行住坐臥(ぎょうじゅうざが): 威儀(いぎ)を改(あらた)むれば、心も随(したが)って、転(てん)ずるなり。」と、いただきました。これは、中国(唐)・牛頭法融撰・「絶観論」に出てくる問答である…と。(仏教名言辞典・奈良康則著)

  

【原文・漢】「縁門起問曰、若不存身見、云何行住坐臥也、答曰、但行住坐臥、何須立身見」

【原文・和文】「縁門(しんもん)起(た)ちて問(と)うて曰(いわ)く、「若(も)し身見(しんけん)を存(そん)せずして云何(いかん)が行住坐臥(ぎょうじゅうざが)するや」。答(こた)えて曰(いわ)く、「但(ただ)行住坐臥(ぎょうじゅうざが)するのみ、何(なん)ぞ身見の立つるを須(もち)いん」。

【解説】 禅門の中でも曹洞禅は、「威儀(いぎ)即(そく)仏法(ぶっぽう)、作法(さほう)是(これ)宗旨(しゅうし)」をその宗風としている。威儀といい、作法といい、ともに私たちの行為、行動を指し、この行為、行動がそのまま仏法であり、宗旨であるというのは、曹洞禅の宗風がいかに日常生活の一挙手一投足を大切にしているかを如実に示している。この行為・行動を別の言葉で表現したのが行住坐臥である…と。行というのは動くこと、住というのは立ち止まること、坐というのはすわること、臥というのはよこたわることであるが、私たちは、通常、この四つの行為のいずれかをしているわけだから、私たちの生活すべてはこの行住坐臥の四つに集約される。

しかもこの行住坐臥の四つの行為が、それぞれに重要な意義と価値を有するところから、この四つのそれぞれは、威儀の言葉をつけて四威儀とよばれている。

  

ところで、この行住坐臥の四威儀が、一つの基本的立場で貫かれるならば、その人生は着実なものとなるはずである。例えば、日本で起こり、今では世界的なスポーツにまで発展した柔道の精神を歌った「柔(やわら)」という歌があるが、そこでは、この行住坐臥のすべてが柔一筋で貫かれることが理想とされ、「行くも、止まるも、坐るも、臥すも、柔一筋、柔一筋…、」とうたわれているごとくである。

ここで、この行住坐臥の四威儀を一貫する基本的立場を何に求めたらよいか、が問題にされている。弟子の縁門の考えは、私たちの行動すべては、自分という考えが基本になるべきではないか、自分を意識せずに、どうして行動することができようか、というものである。しかし、この考え方に対して、先生の入理(にゅうり)は、自分という考えが表に出たのでは行動そのものが、エゴで歪められてしまい、行為の純粋性が失われてしまう。だからこそ、私たちは、自分という考えなどきっぱりと捨てきって、ただひたすらに歩き、立ち止まり、坐り、よこたわるだけを心がけるべきだ、というのである。

道元の説く坐禅のありようは、「只管打坐」と言われるが、この「只管」がここでいう「ただひたすら」にあたる。したがって、「只管打坐」は、「ただひたすらに坐る」ことであるが、それは簡単なことのようで、実は大変むずかしい。坐ることによって、何かを得ようとする気持ちが起こるからである…と。

  

話を現在に転じると、新型コロナは、グーッと減少している模様…。 島根県など気が付いたら手遅れとならないように、インフルエンザの予防接種、余力があれば、コロナ対策とした方がよさそうです。

もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。それにしても人間って、智慧がないですね…、日本にも秋と春が無くなろうとしている現実を感じないのでしょうか? 狭い地球で、争っている時では無い…。  パレスチナ(ハマス)とイスラエル、次期世界大戦の様相が見え隠れして…不気味です…。

(合掌)

(管理人)