立教柴燈大護摩祈願祭参拝~大本山~

先の週末は、親先生はじめお同行さま方々のお力添えをいただいて立教柴燈大護摩祈願祭にお参りさせていただきました。初めての大本山は、深い緑の山なみに溶け込むように在り、その全容は雲の彼方にあるとも思われる広大なものでした。護摩祈願祭は、参拝の人で混み合っていて写真も巧く撮れないほどでしたが、幸い護摩を焚く煙の程よく流れる位置に居てまずは感謝でした。

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この2月、親先生からは「行雲流水(こううんりゅうすい/雲や水のように、そのとき、その場を無心に生きる)」といただきました。このことにつき思い浮かびますのはなぜか大本山ホームページの写真にあります、厳しい修行を続けられるご先達様方の雲水姿です。自然のなすがままに修行し、一切の物事に執着しない悟りの境涯を言うのだそうです。そして、自己に執着しない姿・・・無心・無我・無念無想なのであると。

中国禅の六祖・慧能禅師は、「この法門は、先人以来、第一に「無念」を立てて宗旨とし、「無想」を本体とし、「無住」を根本とする。「無想」とは形において相を離れるのであり、「無念」とは念(おも)うて念(おも)わないことであると言われたと。(六祖壇経)ただ、ぼんやりする訳ではなく、自我が無くしているものの何も思わないわけでもなく、自我や執着によるとらわれが無いなかで自然に思うのだそうです。

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武田信玄の禅の師、快川禅師は、「安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水を須いず)・滅却心頭火自涼(心頭滅却すれば火もおのずから涼し)」と言って、攻め来る信長軍を前に悠然と身を焼いたとか。これは私ごとですが、月始め、心臓不整脈の手術を受け、その手術痕の痛さに看護師さんを煩わせたりで「心頭滅却すれば・・・涼し」とは程遠い状態でした。昔の人々は、驚くほどに身心剛健だったのだと、無念無想をも超えた領域に到達されるもた易いものであったのだと、つくづく感心しているところです。

手術成功について心よりみ仏さまに感謝させていただく日々、また、施術いただいた先生はもちろん新技術を開発戴いた諸先生、関係者の皆さまを始めお世話になっている有縁の皆様方のご恩に、そして何より家族のみんなに感謝するものです。今後はご恩報謝のため、親先生のお導きのもとお行させていただきたく精進したいものと存じます。その先には、心頭滅却は困難であるとして、無念無想に一歩でも近くなり得る努力をかさねたいとの思いを持つものです。

(合掌)

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