一年間感謝清掃の日

ブログを書かせていただいて以来初めてのことですが、家族の体調のこともあって、親先生拝領の写真のみで思いを綴ってみることにしました。当日は、穏やかな日差しに冬のぬくもりを感じさせてくれたとのこと…。お山はすでに冬の色合いで、落ち葉は多く、お接待の「焼き芋」は直ぐに美味しく焼きあがったそうです。この頃、住まいのある島根西部では、すでに冬の雨となっておりました由、みな様の日頃のご努力に感謝申し上げるところです。この一年にも改めましてありがたくお礼申し上げたいと存じます。

  

親先生から12月は、「 命 【いのち】 (どんなものにも命があると感じられたら、それはきっとあなたが素敵なひとだから) 」といただきました。 親先生のこの一年のご法話に感謝申し上げます。

岩波仏教辞典(中村元先生他共著)では、「命」として次のようにあります。人生を苦なるものとしてとらえ、それからの脱却を目的とする仏教では、特にその初期においては、『命』ということが純粋の自然現象として取り上げられることはほとんどなかった。しかし、限られた『命』有限な人生との自覚から、それをバネとして永遠なるものに触れ、それに帰一し同化することを目指すのが宗教であるのなら、初期の仏教でもそれは説かれていたし、むしろ積極的に求むべきだとされていたといえる。煩悩の火が吹き消された状態を表す涅槃(ねはん)がそれである。涅槃は、永遠なるものへの帰一・同化によって到達しうる絶対的平安の境地を表すと解され、初期の仏教においては現証されるべきものであったが、考察が深まるにつれて、次第に抽象的・彼岸的なものへと変質して行った。

これに対して、大乗仏教では、むしろ積極的に命、無限の命ということが主張されるようになる、無量寿経で、《無量寿》(Amitayus)仏が説かれ、また法華経でいわゆる久遠実成(くおんじつじょう)の仏が述べられているのはその一例である。仏に対する考察が進むにつれて、法界(ほうかい)や法身(ほうしん)・真如(しんにょ)など超時間的な観念も現れるようになった。 無限の命ということも、それが仏についていわれている間は超越的であるが、大乗仏教も中期以降になると、輪廻転生(りんねてんしょう)するわれわれ凡夫の中にも成仏の因子たるべきものが存在し、しかもそれは生死輪廻(しょうじりんね)によってもいささかも変じることなく永遠に不変であるという。・・・以下、略・・・。

  

そして道元禅師による『正法眼蔵・生死の巻』(全訳注:増谷文雄)には、【原文】「生死の中に仏あれば生死なし」、又云く、「生死の中に仏なければ生死にまどはず」、こころは、夾山(かつさん)・定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。

もし人、生死のほかに仏をもとむれば、ながえをきたにして越(えつ)にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱(げだつ)のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。

生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらいにて、すでにさきあり、のちあり。故(かるがゆえに)、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらいにて、又さきあり。のちあり。これによりて、滅すなはち不滅という。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。

この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著(じゃく)すれば、これも仏のいのちをうしなふ也。仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏の心にいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばをもっていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あわれみふかくして、上をうやまい下をあわれみ、よろづをいとふこころなく、ねがう心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。

  

【現代語訳】

《夾山(かつさん)・定山(じょうさん)のことば》

いわく、「生死のなかに仏があれば、生死はない」、またいわく、「生死のなかに仏がなければ、生死にまようこともない」、これらは夾山・定山といわれた二人の禅師のことばである。仏道を悟り得た人たちのことばであるから、きっと徒(いたずら)にいったものではなかろう。生死をはなれたいと思う人々は、まさしくその意味するところを明らかにしるがよい。

《生死のほかに仏なし》

もし人が、生死のほかに仏をもとめたならば、それはあたかも、車の轅(ながえ)を北にむけて南の方越に赴かんとするようなものであり、あるいは、面(かお)を南にむけて北斗星をするようなものである。いよいよ生死の因をかきあつめて、ますます解脱の道を見失うばかりである。そこはただ、生死はとりもなおさず涅槃(ねはん)であると心得れば、それでもはや生死だからとて厭うべきものもなく、涅槃だからとて願うべきものもなくなる。その時はじめて生死をはなれる者となるのである。

《生と死について》

そもそも、生と死のありようは、生から死に移るのだと思うのは、まったくの誤りである。生と死はそれがすでに一時(ひととき)のありようであって、そこにもちゃんと初めがあり、また終わりがある。だからして、仏法においては、生はすなわち不生(ふしょう)であるという。滅もまた、それがすでに一時のありようであって、そこにもまた初めがあり、終わりがある。だからして、滅はすなわち不滅であるという。つまり、生という時には、生よりほかにはなんにもないのであり、滅というときには、滅よりほかにはなにもないのである。だからして、生がきたならば、それはただの生のみであり、滅がくれば、それはもう滅のみであって、ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである。厭うこともなく、また願うこともないがよろしい。

《生死は仏の御いのち》

この生死はとりもなおさず仏の御いのちである。これを厭い捨てようとするならば、それはとりもなおさず仏の御いのちを失うこととなるであろう。だからとて、そこに止まって生死に執着(しゅうちゃく)すれば、それもまた仏の御いのちを失うこととなる。仏のありようにこだわっているからである。厭うこともなく、慕うこともないようになって、その時はじめて仏の心に入ることができるのである。だが、その境地は、ただ心をもって量ってみたり、あるいはことばをもっていってみたのでは入ることはできない。ただ、わが身もわが心もすっかり忘れはなち、すべてを仏の家に投げいれてしまって、仏の方からはたらきかけていただいて、それにそのまま随ってゆく、その時はじめて、力もいれず、心をもついやすことなくして、いつしか生死をはなれ、仏と成っているのである。思うに、仏となるには、ごくたやすい道がある。それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと。そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとを厭う心もなく、またねがう心もなく、つまり、心に思うこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。そしてそのほかに仏をもとめてはならない。

  

新型コロナは、このところ島根でも連日1000人を超える日が続いており、第8派に到っているものと推測されます。市からは、5回目のワクチン案内が届き、すでに5回目を完了したところですが、やはり、手抜きすることのないように、良く基本を守って、マスく、手洗い、換気、距離を空けるなど、みんなで頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実に対策したいものです。コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)