2022年 新春初護摩供祈願祭

新年あけましておめでとうございます。先の日曜日は、「新春初護摩供祈願祭」厳修されました。ブログをと思いましたもののパソコンが不調でダマし騙されつつの作業となり、Windows10と対峙して3日も要することとなり、皆さまには只々お詫び申し上げる次第です。今年は、新型コロナ、特にオミクロン株が猛威を振う中、本堂内で全員が集まるやり方を止め、各人の間隔を空けて流れ方式での護摩供祈願祭が行われました。参拝される方々の間隔はご家族であっても、2メートル近く空いていたと思いました。また、ご祈願の護摩木は、殆どが郵送であった模様で、当日の参拝者が大幅に少なく出来ていました。境内(お山)は、木立も、空の雲も、どんよりと寒々しい色に染まっていました。それでも季節を映して蝋梅、水仙、椿、クチナシの実などが楽しませてくれました。

  

親先生より 1月は、「一日一生(今日の一日は、一生の一日ではなく、日々がわが一生)」、といただきました。 (註:「一日一生」は、これまで3回ほどありましたので、今回は、故松原泰道老師の「百歳の禅語」の逸話を紹介させていただくことにしました。)

江戸時代の禅僧、白隠禅師を厳しく育てられた師匠の話、その師匠は信州中野・飯山の人で、正授庵という小庵に住んでいたことから正受老人と呼ばれ、村の人々にさまざまな法を説いたと…。その一方では、地元に先祖代々口伝されてきたことを学ぶこともあったと…。その中に、「一日暮らし」というものがあり、それは「今日一日」、この一日一日を取り返しのつかない時間として生きて行くとの考え方であると…。

辛いことも「今日一日」と思えば耐えられ、楽しいことも「今日一日限り」と思えば現を抜かすこともないと…、「自分の全生涯が今日の一日」であると考えると…。この「一日暮らし」は、釈尊の言葉にも出てくると…。それは「今日なすべきことを明日に延ばさず、確かに行っていくことがよき一日を生きる道であると…。時には雨の日も風の日もあるが、それは悪い日で、晴天の日は吉日と言う二元的なことではないと…。仏教では、物事を比べることが苦しみの原因とされていて、「今日がよい天気だったらなぁ、とか、病気の時に「健康だったらなぁ」と現実と違うことを考えると、そこに比較が生まれ、悩みの元になると…。

  

作家の吉川英二さんは、「雨の日は雨を愛し、晴れの日は晴を愛する」という言葉を遺されたと…。物事を比べず、その時を大切にして、その時なすべきことをなしていくことが、生きる上で大切であると…。

また、武者小路実篤さんは、絵が好きで、絵を描いては、サインと共に一言書かれていたと…。その一言で最も多かった言葉が「桃栗三年柿八年、達磨は九年で、俺は一生」であったと…。最初の「桃栗三年柿八年」は、「種を蒔いてすぐに実るものではないこと…、物事の完成には相応の時間が必要と…。」、また、「達磨は九年間、壁に向かって坐禅された」と…。そして実篤さんは、「俺は一生、学び通す」と言っていると…。これらは、「明日を思い浮かべず」、「今日なすべきことを、きちんと今日行っていくこと」が、よき人生を築くことに通じるとの考えであると…。

私事ですが、先週お寺さまのカレンダー(年間計画)を頂戴しました。親先生には、常に先々のことに心をわずらわしておられるのではないかと思い、その一つ一つに集中して対処されていると思っております。ブログひとつを書かせていただくについても、今の一瞬に全力で…と、思う次第…。

  

新型コロナウイルス感染症は、いよいよ第6波が到来しそうですね。沖縄、広島、山口が「まん延防止等重点措置」を申請、東京、大阪などでも特別措置が検討されている模様です。都市圏では危険の域にあると見たいです。オミクロン株の爆発的流行が間近にありますが、重傷者が少ないことが安心材料でしょうか。まずは、皆さんの努力が不可欠です。マスク、手洗い・消毒、密にならないなど基本を守りましょう。 新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。そして、今年一年兎も角も無事に乗り切りたいものです。

(合掌)

管理人