久し振りのお参りでした。それは宗祖上人大菩薩様のご恩日であり、親先生に久しくご挨拶の叶う、そしてありがたくもお済度いただける機会であります。このところめっきり寒くなりましたが、境内のお山は、目にもはっきりと秋の気配の色使いとなっていました。柿の実が黄色く色付き、ススキ、コスモスなど昨日の中秋の月を連想させる花たちがありました。その境内では、柿や栗を狙って猿たちが遠征してくるとか、食べるのみで引き上げてくれると良いのですが、雨樋や電線など引っ張ってイタズラするのが困りものです…と、親先生も困り顔でした。
今月の親先生からは「喫茶去(きっさこ)《いつでも、だれにでも、こだわりなく、「お茶を召し上がれ」》」と、いただきました。
このご恩日には、お茶は勿論のこと、お斎をいただき、お接待もいただき、いつものことながら、大変に美味しく、ありがたくいただき、感謝で一杯になります。
これは、中国は唐代の趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん)禅師の語録の中にでてくるお話だそうです。趙州和尚のところに二人の修行僧が来訪し、その一人に「曾(か)って此間(すかん)に到るや(以前ここに来たことがありますか)」と尋ね、僧が「曾って至らず(来ていません)」と答えると、禅師は「喫茶去(そうですか、お茶を召し上がれ)」とお茶でもてなしたそうです。そして二人目の僧が同じ問いに、「曾って至る(来たことがあります)」と答えると、その僧にも同じように、「喫茶去」と言って、お茶をふるまわれたそうです。それを見ていた院主が「初めて来た人にも、以前来た人にも同じようにお茶を出すのは何故ですか?」と問うと、禅師は、院主にも「喫茶去」と、お茶を勧められたそうです。老若、職業、貧富、貴賤、賢愚の別なく、誰にでもお茶を勧める禅師のさわやかな境地に学ぶものがあるとのことです。
ご恩日のお参り・・・何とはなくお斎をいただき、お茶をいただき、何時もその手間の掛かった心尽くしを有り難くいただいているのですが、こうして、改めて、禅語「喫茶去」を目にすると、ありがたさが一段と身に染みて来るのを感じさせます。嬉しさいっぱいで身の置き所に難儀するといった心境です。
(合掌)
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