遅くなりました…令和6年4月(~5月)のブログ

親先生より、4月は「不迎」(むかえず)、『これから先のことを思い悩まない…、』といただきました。また、5月は「不蒋」(おくらず)『過ぎ去ったことをくよくよしない…、』と、いただいております。今回は中国の「荘子」について、守屋洋著より拝読させていただきました。ブログの遅れを取り戻すべく、現在も頑張っておりますが、パソコンの不具合もあと少しで脱出できそうですし、今しばらくお待ち願います。

  

「老子(ろうし)・荘子(そうし)」は、道家(道教)の人で、紀元前四世紀後半頃、楚(そ)の苦県(こけん)厲卿(らいきょう)曲仁里(きょくじんり)の人で、姓は李(り)、名は耳(じ)、字は聃(たん)と言い、周王朝の録を食んでいたが、その衰えとともに旅に出て函谷関(かんこくかん)に至った。尹喜(いんき)という人に請われるままに上下二編の道と徳に関する説五千余言を残したといわれる。 『史記』は、老子の著作と言われるが、この老聃のほかに二、三の異説を紹介するなど、真偽のほどはわからない…と、あります。 荘子は名を周(しゅう)と言い、宋の国の蒙の人で、『史記』にかって蒙の漆園があり、その管理人をしていたとあります。

  

【原文】「至人の心を用うるはカガミのごとし。不蒋(おく)らず、不迎(むか)えず、応じて蔵(おさ)めず、故(ゆえに)に能(よ)く物(もの)に勝(た)えて傷(そこな)われず。

【解説】「至人」とは、「荘子」のような理想の世界の人間像であり、そうした人の心の使い方は、鏡のようなものだ…とのこと。それでは、鏡のようとはどのようなことなのか…、「荘子」によれば、まず、「蒋らず」「迎えず」なのだと。「蒋らず」とは、過去にとらわれない。過ぎ去ったくよくよ思い悩まないということである。また、「迎えず」とは、将来のことまで取り越し苦労はしないということであると…。さらに、「応じて蔵(おさ)めず」とは、眼前の現象に自在に対応し、過ぎ去れば痕跡を留めないという意味であると…。

  

どんな状況でも柔軟に対応できて、しかも、自分が傷つけられることがない。「至人」というのは、定見のない日和見主義的な存在に見えてしまいそうであるが、決してそうではなくて、荘子は、「至人」についてこうも言っている。

「外面は相手によって自由に変化しながら、内面はしっかりと自分の主体性を守っている。相手によって自由に変化できる人物は、自分を傷つけることがないから、その本質は少しも変わらない。だいいち、このような人物は変わるとか変わらないとか、そういう意識すらもたない。よって、相手との摩擦も生じないのである。」と…。

(合掌)

(管理人)

 

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