遅くなりました…令和6年3月のブログ

親先生より、3月は、「寛恕」(かんじょ)『心が広くて思いやること、過ちをとがめだてしないで許すこと』…、といただきました。なお、3月は春季お彼岸にあたり、永代経法要が厳修されました。

寛恕(かんじょ)という言葉について、『大辞林』には、「かんじょ」(スル)心が広く、思いやりのあること。また、とがめずゆるすこと…と、ありました。 よく使われる例として『なにとぞ御寛恕願います』などと、使うとあります…。

  

奈良康明編著『仏教名言辞典』には、次のようにありました。

出典 空海(774~835)「性霊集(せいりょうしゅう)巻第四。

【原文】濁世凡人、豈得无愆、恕過令新、請之寛大、宥罪納臓、稱之含弘。

【解説】濁世の凡夫、豈(あ)に愆(あやまち)なきことを得んや.過(とが)を恕(ゆる)して、新(しん)ならしむる。之(これ)を寛大(かんだい)と謂(い)い、罪を(つみ)を宥(なだ)めて、臓(ぞう)を納(い)る。之(これ)を含弘(がんこう)と称す。

[元興寺の僧の中璟(ちゅうけい)の罪が赦されんことを請う表]の中の言葉。元興寺の僧の中璟の罪が赦されるよう、弘仁五年(814)閏七月二十六日、懇請した上表文であるが、中璟に関しては伝未詳。空海との関連についても不明。また、いかなる罪を受けたかも不明である。しかし、この上表文をみると、中璟は仏法としての戒律・行法を守らず、国の法典をも慎み行わないという、仏法と王法の両者にまたがる罪を犯したようである。しかもなおかつ、ここにとり上げた言葉の前に次のようにある。

  
「大樹仙人、迹(あと)を曲城(こくじょう)に廻らし、慶喜(きょうき)道者、悩みを鄧家(とうけ)に被る。往古の賢人、猶亦(なおまた)未だ免れず。すなわち、禅定の徳の高かった大樹仙人のような賢人でさえ、王女に恋慕したため曲女城にその醜名を遺し、釈迦の弟子の阿難尊者でさえ、摩登伽(まとうが)という婬女になやまされた。昔の賢人でさえ、なお女犯のおそれを免れることができなかったとある。これらから考えられるところとして、中璟が罪を被ったのは女性に関連したことかもしれない、…と、あります。

  

空海は、中璟にたいして秦の始皇帝がとった、罪ある時は必ず罰するという方法ではなく、仇に報いるに恩をもってすることを願っていた、と…。

まさに「寛恕」では…。

(合掌)

(管理人)

 

 

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