2月のお山(境内)は、年々趣きを変えており、大本山も最初のお参りが紫燈護摩供祈願祭であったこと、本堂・奥の院など、それぞれの広さに驚かされたこと、さらに親先生のご配慮で知覧など拝見させていただきましたこと、歓びに満ち溢れておりました。親先生より、2月は、「身口意」(しんくい)『言葉と心と行いが揃ってこそ人に真実がとどく』と、いただきました。
そして2月は、奈良康明著、仏教名言辞典から以下のように拝読させていただきました。
【原文】我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち) 従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいざんげ)
【出典】インド 大乗経典 『華厳経』 (唐、般若訳、四十巻本) 第四十「普賢行願悔」
【解説】普賢菩薩の行と願を讃嘆する偈文が入法界品(にゅうほうかいぼん)の梵本(ガンダ・ヴューハ)や『四十華厳』などにみえる。その中に、前掲載の懺悔文が含まれている。梵文から訳すと、「貪(むさぼ)りや瞋(いか)りや愚(おろ)かさの故に、身と語と意とによって、私は悪を作(な)した。そのすべてを私は懺悔します」となる。
仏教では、人間の行為を身・口(または語)・意の三業に分けて考える。身体的行為、言語的行為、心理的行為である。例えば、他に対して憎しみの気持ちを抱くのは、意業であり、それを言葉に出して言うのが口業であり、相手をったりするのが身業である。いずれも悪業であるが、その根本になっているのが、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと無知(むち)の三毒である。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)を三毒と言うのは、この三つが人間の悪業の根源となっているからである。
また人間の行為を三昧(現在・過去・未来)という広がりの中でとらえ、特に宿業について深い宗教的な自覚を求める。「我借より造るところの諸の悪業」という表現は、それをよく示していると思われる。みずから意識すると否とを問わず、われわれはたえず悪業をおかしつづけている。このことに深く思いをいたし、おかした罪を心から懺悔すること。ここに仏教生活の原点があるように思う。
悪業(悪い行い)と言われるものには、さまざまなものを数え得るであろうが、仏教では、十種類のものをその代表として選び、十悪業とする。身業に関するものが三種(身三(しんさん)という)、口業に関するものが四種(口四(くし)という)、意業に関するものが三種(意三という)ある。
今それを列挙してみると、殺生((せっしょう)いきものを殺すこと)、偸盗((ちゅうとう)盗み)、邪婬((じゃいん)男女間のみだらな行為)、妄語((もうご)偽りを言うこと)、両舌((両舌)人の間をさく言葉)、悪口((あっく)粗暴な言葉)、綺語((きご)ことばを飾ること)、貪欲((どんよく)むさぼり)、瞋恚((しんい)いかり)、邪見((じゃけん)偏見)を言う。
殺生とか偸盗とか邪婬とか、身体で行う悪業が重大な結果を招くことは言うまでもない。とりわけ人を殺すことは、悪業の代表と言ってよい。大量殺戮(さつりく)を伴う戦争が仏教徒にとって許すべからざる犯罪とされるのは当然である。しかしちょっとした不注意から行われやすいのは口(言葉)に関する悪業であろう。人を傷つける言葉、乱暴な言葉、うそ偽りにみちた言葉、歯のうくようなほめ言葉等々。意識すると否とを問わず、私たちはこれらの様々な悪業をまぬがれることができない。悪業を犯さないように心がけるとともに、犯した悪業について、心から懺悔滅罪(ざんげめつざい)することが大切な所以である、……と。
(合掌)
(管理人)