7月は、盂蘭盆に当たり、施餓鬼法要が厳修されました。この法要でもコロナ禍以降、お参りされる方は少数となり、郵送などを利用され、熱風の吹きまくる状況では、むしろ、好ましいこととなりつつあります。
親先生より、7月は、「陰徳陽報」(いんとくようほう)『人知れず良いことを行う人には、必ず目に見えて良いことが返ってくる』と、いただきました。
以下は、故松原泰道老師の「百歳の禅語」から拝読したものです。明治の文豪幸田露伴の「三福の教え」で、次のような言葉を遺しているそうです。
「今日の吾人(ごじん)は、古代に比べて大いに幸福を有している。これらは皆前人からの植福の結果であり、よきリンゴの木を有している者は、よきリンゴの木を植えた人の恵みを荷(に)なっているのである。すでに前人の庇蔭(ひいん)による。吾人もまた植福をなして、子孫におくらざるべからずである。」
福を独り占めせずに、近所の人に施すだけでなく、未来にも遣わせ、と言うのです。
良いリンゴの木は美味しいがリンゴがなって食べられるけれども、これは自分が植えたけものじゃない、リンゴの木を植えた人はそれを食べることができない。人の寿命は短いから、みんな後の人のために植えている。
だから我々も、リンゴの木を植えるのと同じように、自分の子孫をはじめ、他人の幸せのためにも、やはり福を蒔(ま)いて、おかなければいけない。
この露伴のつくった幸せについての三つ言葉があります。(これらの言葉は、露伴が作ったものだそうです。味わって噛みしめたいものです)
一つは「惜福(せきふく)」、福を惜しみ、大切に、大切にする。
二つ目は「分福」、「分福茶釜(ちゃがま)」などと冗談めいていますが、分福は自分だけでなく福を他にも分けるということ。茶釜で沸かしたお湯は一人だけのものではなくて、みんなで分けていくもの。
三つ目に「植福(しょくふく)」、後の人のために、福を植えて徳を積んでゆく。
惜福は、物をいとおしんで、大切にすること…。例えば、一枚のティッシュペーパーでも、一粒のお米でも大切にしてゆく、これが「惜福」です。
日本の茶の湯の話になりますが、長い間の錬磨によって、無駄なお点前(作法)は一つもない、けれども、一つだけあるとのこと、それは、お湯を杓で汲むとき、すこし多く残して、無駄をするそうです。禅の心から生まれた茶の湯の「分福」というそうです。この分福を修行されたのが道元禅師、越前・福井の永平寺にあって師は、毎朝、柄杓で仏様の水を汲むのですが、閼伽(あか)の水と言い、最後に杓に汲んだいくらかの水を川へ戻すそうです。川に流れる水はたくさんあるけれども、自分たちだけが戴いてはいけない。下流の人たちも、この水を分けていこう…、これが分福、福を分けること、と…。
茶の湯では、杓のお湯を全部茶碗にあけてしまわずに、後の人のために、茶釜に戻していくという作法になったと、…。禅の生活が表れているのですが、こうした行為を「陰徳を積む。」というそうです。陰という字は「かげ」、つまり人に分からないように、目立たぬように、さりげなく他人様の幸せを願っていく。そのように物を大事にしてゆく。そして子供たちに、「閻魔様も分からないように良いことをしなさい」と教え、「他に分かったら何にもならないのだ、……。」と、「黙々として人のために幸せを念じて行きなさい」と、…。それが植福になるのだと、…。
(合掌)
(管理人)