冬らしい寒さが戻ってきました

冬らしい寒さのなかお参りさせていただきました。一週間前の御礼清掃の時には残っていた紅葉の葉もすっかり落ち、銀杏の大木は丸裸の木肌が寒々しく感じられる光景でした。お山の色も灰色に染められ、麓にはお猿の食べ残しの柿、今が時節の柚子の実が鮮やかでした。 191221_01 191221_04 ところで、今月の親先生からは、「空(すべては移り替わり行くもの。)」と戴きました。「空」について調べてみると…、 仏教は一口に五千余巻の経巻、八万四千の法門があると言われるそうです。キリスト教のバイブル、イスラムのコーランとは比較にならない多数の経典があるとか。その中でも特に根本となる経典には、「般若心経」が挙げられる。その一巻二百六十二文字の中に仏教の教えの真髄が説き示されていると。その真髄とは何かといえば、それは「空」であると…。 空の心とは、かたよらない、こだわらない、とらわれない。あらゆるものをあるがままに受け入れる広い、広い心だそうです。無心、すなわち空の心を身に着ければ、暗がりに一条の光が差し込んで、暗がりが無くなるように、罪や障りが消えてしまうと。 空とは、自分、人間、すべてのものの在り方を示す語であって、同時に、こだわりなく生きる生き方に直結する考え方でもあると。絶望している「私」にこだわり続けていては、絶望から逃れることはできない。絶望したり、希望を持ったりすることは、空としてある私の、無数にある局面、すがたの一つに過ぎないとみた時、絶望している自分の姿が見えてくると。 空とは、こだわらない生き方でもあると。こだわらないとは、なすべきことをやらないことではないと。なすべきこと、自分の抱えている問題と誠実に向き合いながら、それへのこだわりを捨てることであると。 191221_03 191221_02 私たちは、些細なことでも愛着し、善い悪い、好き嫌い、と言うと。しかし、このような心の動きも突き詰めてみると、大抵はわがままであることが多いと。これを中国・隋の高僧、天台智顗は、「心を観ずるに心無し」と言い、また、現実の生活で、善い悪い、好き嫌いを離れて立ち行くものか…とも、とらわれない、こだわらないと言っても、所詮は夢のような実体のないものに過ぎず、「空を観ずるに空無し」と言わしめたそうです。 現実は、どうすればよいのか、理想によって正しく方向付けされ、現実のそれぞれについて理想による裏付けを得つつ、一歩一歩、着実に実現させるよう努力することでしょうか。(奈良康明著:仏教名言辞典より抜粋) (合掌) 管理人

一年間御礼清掃日

あっという間に一年経ち、お世話になった境内の清掃に参加させて頂きました。やっとお山が灰色に変わり、銀杏の木も丸裸になっていましたが、紅葉は未だ美しく日に映えていました。遅れていますが、椿や水仙が一つ、二つ花を付け始めています。変わったことと言えば、アミちゃんの子供たちが清掃している人たちにジャレ回って微笑ましいことでした。

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ところで、先週の親先生のご法話をお聞きしましたので、概略、書き留めて置きたいと思い、整理してみました。それは、親先生が初代先生の後を受け継がれて間もない頃のお話しだそうです。

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ある日、一人の男性がたずねて来て、「自分には、嫁と子どもがおりますが、その嫁と子が突然居なくなりました。「何処に行ったか仏様にたずねてもらえませんでしょうか」と頼まれたものでした。

親先生はその時、初めての経験でしたので、内心、「そんなこと分かる訳はない、どうすれば」と……。ともあれ、先ずは、お不動様にお参りしましょうと、御宝前にお参りし、お不動様にお祈りしてみつつも、何処に行ったか分かるあてもなく困っていると、脳裏に「せせらぎに立つ女性と子供の姿」が浮かんできたそうです。ただ、情景は、入水自殺を連想させるともとらえられる場面であり、困っていると、突然、親先生の口が勝手に声を発し、「大丈夫ですよ」との言葉が飛び出したそうです。そのお嫁さんは、「ただ、お世話になりました。家を出て行きます」との書置きを残しただけで居なくなられたそうで、足取りを追うこともできないとのことでした。

親先生は、「大丈夫だから、家で待つように」と言って帰らせましたが、心配の尽きぬまま、一日たち、二日たち、一週間たって、その男性に様子を尋ねると、お嫁さんは、三日目に帰って来たそうです。

ところが、事件は、このまま終わらなかったそうです。お嫁さんが、「離縁して欲しい」と、言い出したとのことでした。そして親先生には、どうしたものかと相談され、また困り果ててしまいました。子どもの養育のこと、母親の10代の頃からの金遣い荒い悪癖などの夫婦間の問題が新たに分かりはしましたが、仏縁で、何とか縁を繋ぎ留めたい、ご縁を深めたいとの思いはあるものの、思案する親先生に届く声、お不動様の声は、「離縁しなさい」だったそうです。

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道理の通らぬように感じつつも、親先生は、別れることを勧められたそうです。お嫁さんには、ご主人への深い愛情と思い遣り、嫌われたくない心情などが、自身の悪癖が原因して起こる様々な事、それらが日々の生活を徐々に壊して行くこと、更にはそうした生活に浮き彫りにされる自身の醜さなどを見せたくないとの強い思いがあった模様です。

離別し、別々の生活が始まってみると、各々良く働き、暮らしを立て、その結果、親子は、各学年の節目ごとに、親子の再会を果たし、親御さんは、今もお寺にお参りされていらっしゃるそうです。 親様のみ心に全霊をもっておすがりすること、そして、そのみ心のままにさせていただくことが大切であると…。本当に困ったとき、そこに親様がいらっしゃると…親先生のお話しです。

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(合掌)

管理人

北風に落葉舞う中のお参り

今年の秋は暖冬でしたが、それでも11月末ともなれば、北風の季節となった模様です。今日は朝から木枯らしが木々の色付きを吹き飛ばしに来ています。色付いた紅葉やイチョウも此度の寒気にて冬支度を終えるものと…。アミちゃん一家では、お母さん、叔母ちゃんを押しのけて元気に食事を争うチビちゃんたちが微笑ましいことでした。

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親先生には11月、「閑古錐(かんこすい) : 長い年月が生み出す円熟味」と頂戴しました。閑古錐とは、長年使われて先端が丸くなった古い錐(キリ)のことだそうで、禅では長年に亘り修行を積まれた方を閑古錐と言うそうです。 その閑古錐と呼ばれた人が白隠禅師の「毒語心経」に「徳雲の閑古錐、幾たびか妙峰頂を下る、他の痴聖人を雇って、雪を負うて井を共に埋む」とあり、徳雲比丘という高僧は雪を井戸に入れて埋めようとしたとあるそうです。雪は解けてしまうので途方もない愚行ということですが、その黙々と行う心に学ぶべきとのこと。

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閑古錐と呼ばれる高僧には及ばすとも、身の丈にあったできることがあるように思うものです。温暖化で災害が多発する中、黙々と気の遠くなるような作業を続けられるボランティアの方々にも感謝の思いがいっぱいですが、私たちも与えられた日々の生業の求められるままに未来に向かって黙々と進みたいものです。ご恩に報い感謝を忘れることなく…。

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(合掌)

管理人

秋空のご恩日法要

実りの秋となりました。境内のお山も少し黄色く色付いてきています。まだ、お猿さんはお山に食べ物があるようで、今のところ柿などの被害は無いそうです。柿の他にも色々と色付き始めていて秋がそこまで来ています。驚きは、アミさん一家の春に続く、五匹の家族の誕生でした。

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親先生には10月、「遠離(おんり)…ものを逆さに見たり、無いものを有るように見たりする、そんな見方から離れること」と頂戴しました。毎日戴いて口にする「般若心経」を思い出しますと、「・・・菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。・・・」と続きます。要約すると、菩薩様は親様の知恵を完成されていて、それ故、その心にはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることもない。物事を逆さに見たり、あらぬ妄想をいだくこともない、そこには、徹底した平安がある…と。(こだわりを捨てる・般若心経/ひろ さちや著より)

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先のひろ先生の書物の中に、問答が出てきます。小さな子に「あなたの命はだれのもの?」と聞くと、「ぼくのもの」と答える。「では、魚の命は?」と聞くと、「お金で買ったからぼくのもの」と答える。「では、お金で買えば人間を食べていいの?」というとだまってしまったそうです。私たちは親様から命を預からせていただいている。魚さんはその命を差し出してくれている(布施)のだから、魚さんにも、親様にも感謝していただくことだと…。さらには、生産される方、流通される方なども含めて、皆さんの力をかりて、生かされていることにあらためて感謝したいものです。

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(合掌)

管理人

お彼岸・ご恩日

大型の台風が近づきつつある雨の日、雲の切れ間のお参りとなりました。お山には雲が懸かり、心なしか寒さも感じてしまいました。久し振り境内では、アミちゃん一家のお出迎えに喜び、大木の倒壊に憂うものでした。台風前に心配が顔を出しそうで、ともかくも、あの猛暑が嘘のような境内でした。

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親先生のご法話…。彼岸に入り寒いくらいで蝉の声もお休みである…と、こうした日々の移ろいも無常の世界を感じさせますと…。先生には、八月の猛暑、九月の残暑の中で、体重が3キロ減ったそうです。それは病からではなく、摂生が過ぎたとの思いであるとのこと。人の身体は、お不動様におすがりしていれば良いというものではなく、本人が不摂生をしていてはよくなることはないと…。

わたしたちは、日々、浄行をいただいておりますが、因縁というものは自分で作り上げて行くものであって、それには浄行によって悟っていただくことである…と、「おさづけ」の第五条にもあるとおり、浄行というものは奥が深く、一人ひとりのいただき方があり、「浄行とは何ぞや?」というところを、それぞれに感じながら…、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、食べられることなどに改めて有り難さを感じながら、一方では、思うようにならないこと、また、今回の千葉では、屋根が飛ばされ、壁がはがれ、停電が続くなどの被害がありましたが、そういう自然の中にあって、人間として慢心せず、有り難く自然とのお付き合いさせていただくこと…であると。

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親先生には、「悲感(ひかん)/痛みを知る。人は苦しんでやさしくなり、やさしくなって感動し、感動して成長する」と頂戴しました。私が初めて身内の不幸に出会ったのは祖父の不幸でした。長男で爺さまっ子でありましたから悲しみは格別でした。そして、父、母も他界しましたが多忙にまみれて悲しみに暮れるには至らずに済んだと記憶しております。それとは別のご縁を感じる人生の折々の出来事が、仏様とそのようにさせて戴きなさいと言っているように感じます。酒井大岳師には、「人間は苦しんでやさしくなり、やさしくなって感動し、感動して成長するものだと思う」とその著書(雲の上はいつも青空)の中でおっしゃっています。悲しみも悲しみで終わらせず、感動したいものです。そしてお同行さまと共に成長したいものと…。

(合掌)

管理人

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束の間のお参りには、嬉しい知らせ

八月は猛暑に耐えて身動き出来ず、やっと先週あたりから小雨も降り、朝晩の涼しさにホッとするこの頃です。午後のお参りとなりましたが、境内のお山は青々と瑞々しく、薫風が吹き渡って、久しく涼しさを届けてくれる、境内の広葉樹の森には巨岩が広がり、その岩肌からは、耐えることのない湧水が溢れ出し、吹き抜ける風を涼しく冷やしてくれるのでしょう。 興味を持ったのは、親先生から伺っていた、その湧水の水質検査結果です。別の健康の話で「アルカリ性の湧き水が糖尿病に効く」と漏れ聞いていましたが、お山の湧水もアルカリ性の水(水質は抜群に良い)ではありませんか・・・アルカリ水は腎臓に働いてその機能を改善するそうです。次回、親先生のお許しを戴いて、この次のお参りには必ず、お水を戴いて帰ろう・・・などと思うところです。

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親先生には、今月、「本来無一物(ほんらいむいちもつ)心を曇らせているのは自分の妄想。もともと何も無いのだと知ること」と戴いております。中国は禅の開祖達磨大師の五祖弘忍(ぐにん)禅師の弟子に「神秀(じんしゅう)」と「慧能(えのう)」という高弟がおられ、跡を継ぐための「修行の心境を偈にまとめる」試験が行われ、最も信頼の厚い神秀が「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に勤めて払拭せよ、塵埃をして惹かしむること莫れ(身体は、悟りを宿す樹のごときもの、心はもともと清浄で美しい鏡のごときもの、故に常に汚れぬように払ったり拭いたりして、煩悩の塵や埃を付けてはならない)」と、修行の大切さをうたい上げました。これを見た慧能は、不十分と批判し、その夜「菩提本(もと)樹無し、明鏡も亦(また)台にあらず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん(菩提という樹も、明鏡という心もない、菩提も無ければ煩悩も無い、本来無一物だ。塵埃のよりつくところもないから、払拭の必要もない)」と和韻し、弘忍禅師は、慧能に禅法を伝授したそうです。(禅語百選:松原泰道著より)

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慧能禅師は、南方に下り南宗禅を、神秀禅師は、北方にて北宗禅を開かれたそうですが、南を頓悟といい、北を漸悟と言って、北はぼちぼち進めるそうです。わたしなど、毎日が失敗の積み重ねでもあれば、北の進め方を真似ることしか出来ないように思うのですが・・・・・。

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(合掌)

管理人

猛暑のなか、熱中症に注意しつつ、盂蘭盆施餓鬼法要

寒い…とも言っていた数日前のことが嘘のような、連日が猛暑日…、そんな中での盂蘭盆施餓鬼法要の日です。準備に当たられた方々にはさぞや大変なご苦労をされたものと感謝申し上げるところです。今年の盂蘭盆施餓鬼は、暑さとのたたかいでもありましたが、お参りされる方々も多く、本堂に入り切れない大勢のお同行さまが濡れ縁の板張りにてお行される姿を拝見し、親先生のお人柄を思い、改めてうれしく感謝することでした。

親先生のご法話は、まずは遠方からお同行さまの紹介でした。兵庫県、山口県、九州などの遠方からお参りされているとか、無事に帰りつくまでがお参りとのこと、気をつけてお願いしたいところです。

今日は、「おさずけ読本」が配布されました。本宗の「信心の原点」が分かりやすく書かれている、日常の生活信条をまとめたものであると…。「十善戒を守りて…」とありますが「十善戒」は、「不殺生」虫も殺す、「不悪口」、悪口も言う、ご先祖さまのためにと思うが、とても守れない。それでも現世において、一番入口が中山不動尊の教えであると…。また、我々は日々の仕事をいただいている、日々の糧をいただいている、そういう中で浄行という言葉で説いておられます。思い通りに行かないこともある、辛いこともある、そのとき、どうするか、御座文の中に「善巧方便めぐらして」とありますが、仏さまの知恵の一端に気付かさせていただくことのあれこれが読本の中に分かりやすく書かれているとのことです。

盂蘭盆施餓鬼は、ご先祖さまに感謝する日ですが、私たちが生まれるには、多くのご先祖様のお陰(死が)あるものです。私たちは死があるからこそ本当に生きる道をきくものです、と…。師主知識、善知識に叶った本当の生きる道を進むことであると…。

(合掌)

(管理人)

 

雨上りの御行清掃

今日のお行、大雨を覚悟していましたが、境内のお山から雲がゆっくりと立ち昇り、曇り空ながら雨が上がってくれました。梅雨末期のこの頃は大雨でも仕方ない時節ですが、今年は違っています。まずもって暑くないのです。そして雨も殆んど降らないのでした。 清掃、そして「くよし」には最適な御行日和でした。日頃お世話になった参道などの、落ち葉を拾い、雑草を払い、可能の限りを尽くされるお同行さまでした。今年は、夏らしくない梅雨が続いておりますが、境内には初夏の花たちが雨に濡れて格別の美しさを楽しませてくれていました。

親先生から7月は、「非思量(ひしりょう)~身と息を整えれば心も整う~」といただいています。 「ほっとする禅語(渡曾正純著)」には、道元禅師が「正法眼蔵・晋勧座禅儀」の中で中国・唐の薬山惟儼(やくざんいげん)禅師の「景徳伝灯録」の次の言葉を引用し、…兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これぞ非思量なり。これぞ挫禅の法術なりと説いたとあります。 まず身を整え、そして呼吸を整える、自然に心が整う・・・と。今日の御行いただきましたお同行さまには、無心に作業されておられました。ともかくも感謝です。

 

 

 

      合掌

   (管理人)

 

寒い位の梅雨時期

今年も異常気象の模様です。6月に入ってからも梅雨入りはお預けで、春先に逆戻りしたような寒々しい毎日が続いております。我が家の燕たちは、それでも第一組が巣立って行き、第二組の巣作りが始まっているなど、季節の遷り変りは休むことなく進んでいます。紫陽花、杜若、躑躅、山百合など、初夏の花たちが出番を迎えています。境内のお山は、緑のいよいよ深く雄大に見守って戴いているよろこびに包まれます。

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親先生には、ご法話の中で、「乞食(こつじき)」について触れられ、ご自身も若い頃、托鉢の経験があるとのこと、乞食は施しを受けることではあるが、すべてがそのようではない、罵声を浴び、罵しられ、水をかけられるなどの苦い対応を迫られるのも心を養う修行であると。 中村元先生の語源辞典には、「乞食」について、古来インドでは、晩年に達した人はあらゆる執着を捨てて各地を遍歴することが理想とされていたと。この時期は「遊行期」とよばれ、そういう人は乞食のみによって生活を支えたことから「比丘」と呼ばれたと。それが仏教にも取り入れられ、仏教の比丘も在家の人々から施食を受けたと。これが乞食で、生命を支えるだけの最小限の食事とされ、しかも、午前中のみ許されたと。釈尊も鉢を手に乞食に出たのであろうと。後世、中国で、托鉢と呼ばれるようになったなどとあります。

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また、親先生から6月は、「滋眼(じげん)~褒めて伸ばす、叱って伸ばす、慈しみの籠った目、慈悲のまなこ~」といただいています。慈悲の心をもって衆生を見守る仏・菩薩の眼であると。それは、子供を見守り育てる母の眼でありたいもの、現在の子育て難時代、地域に暮らす人々にも求められている見守る眼ではないかと。今年、全米テニス、全豪テニスを優勝した大阪なおみさんは、サーシャ・バインさんというコーチと連携して対処し、試合中に徹底して我慢するというメンタル面での成功が奏功したのではないかという論評でしたが、コーチもまた、慈眼の持ち主だったのではないかと思うのは飛躍し過ぎでしょうか。ご縁をいただく方々にも慈しむ心(眼)を忘れぬよう努力したいものです。

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(合掌)

管理

「令和」初めてのご恩日

皐月のお山は新緑に輝いて「令和」の時代をたたえているように感じます。遠く近く鳥たちがさえずり、若葉を揺らす涼風がたまらなく頬に心地よいものでした。若草に身を沈めてまどろみたい心境・・・。

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親先生には、「令和」の由来について紹介され、また境内のさわやかさを五感まかせて感じ取りたいと。般若心経には「無眼耳鼻舌身意…」とあると説かれ、境内に溶け込んで自然を感じ取ってほしいと。また、ご恩日は百万遍のご念珠をとおしてご先祖様、宗祖上人様、お不動様始め諸々のご縁を感じてほしいと。

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そして親先生には、「閑不徹(かんふてつ):心の中、心は常に無心で閑かに、あるがまま、あるがまま」との今月の禅語をいただいています。中国南宋の虚堂智寓禅師の句(虚堂録)で、「雲在嶺頭閑不徹 水流礀下大忙生」(雲は嶺頭(りょうとう)にありて閑不徹(かんふてつ)、水は礀下(がんか)を流れて大忙生(だいぼうしょう)」とのこと。雲は嶺の上遥か静かに浮かび動かず、水は谷川をざわざわと忙しく流れ続ける。静と動、どちらも無心であると。 ここで水は、忙しく仕事をこなしつつも余裕の心境でしょうか、対して雲は、アッという間に仕事をこなして更に余裕の人でしょうか。何れにしてもゆとりある仕事であっても慎重に最善を尽くし、また急ぎ多量の仕事にもよく対処したいもの。忙中閑ありで日々ありたいものでしょうか。

(合掌)

管理人