遅くなりました…令和5年10月のブログ

遅くなりました。立て続けとなりますが、10月、11月、12月と、親先生のお話から、いただくこととします。親先生から10月は、「行住坐臥(ぎょうじゅうざが): 威儀(いぎ)を改(あらた)むれば、心も随(したが)って、転(てん)ずるなり。」と、いただきました。これは、中国(唐)・牛頭法融撰・「絶観論」に出てくる問答である…と。(仏教名言辞典・奈良康則著)

  

【原文・漢】「縁門起問曰、若不存身見、云何行住坐臥也、答曰、但行住坐臥、何須立身見」

【原文・和文】「縁門(しんもん)起(た)ちて問(と)うて曰(いわ)く、「若(も)し身見(しんけん)を存(そん)せずして云何(いかん)が行住坐臥(ぎょうじゅうざが)するや」。答(こた)えて曰(いわ)く、「但(ただ)行住坐臥(ぎょうじゅうざが)するのみ、何(なん)ぞ身見の立つるを須(もち)いん」。

【解説】 禅門の中でも曹洞禅は、「威儀(いぎ)即(そく)仏法(ぶっぽう)、作法(さほう)是(これ)宗旨(しゅうし)」をその宗風としている。威儀といい、作法といい、ともに私たちの行為、行動を指し、この行為、行動がそのまま仏法であり、宗旨であるというのは、曹洞禅の宗風がいかに日常生活の一挙手一投足を大切にしているかを如実に示している。この行為・行動を別の言葉で表現したのが行住坐臥である…と。行というのは動くこと、住というのは立ち止まること、坐というのはすわること、臥というのはよこたわることであるが、私たちは、通常、この四つの行為のいずれかをしているわけだから、私たちの生活すべてはこの行住坐臥の四つに集約される。

しかもこの行住坐臥の四つの行為が、それぞれに重要な意義と価値を有するところから、この四つのそれぞれは、威儀の言葉をつけて四威儀とよばれている。

  

ところで、この行住坐臥の四威儀が、一つの基本的立場で貫かれるならば、その人生は着実なものとなるはずである。例えば、日本で起こり、今では世界的なスポーツにまで発展した柔道の精神を歌った「柔(やわら)」という歌があるが、そこでは、この行住坐臥のすべてが柔一筋で貫かれることが理想とされ、「行くも、止まるも、坐るも、臥すも、柔一筋、柔一筋…、」とうたわれているごとくである。

ここで、この行住坐臥の四威儀を一貫する基本的立場を何に求めたらよいか、が問題にされている。弟子の縁門の考えは、私たちの行動すべては、自分という考えが基本になるべきではないか、自分を意識せずに、どうして行動することができようか、というものである。しかし、この考え方に対して、先生の入理(にゅうり)は、自分という考えが表に出たのでは行動そのものが、エゴで歪められてしまい、行為の純粋性が失われてしまう。だからこそ、私たちは、自分という考えなどきっぱりと捨てきって、ただひたすらに歩き、立ち止まり、坐り、よこたわるだけを心がけるべきだ、というのである。

道元の説く坐禅のありようは、「只管打坐」と言われるが、この「只管」がここでいう「ただひたすら」にあたる。したがって、「只管打坐」は、「ただひたすらに坐る」ことであるが、それは簡単なことのようで、実は大変むずかしい。坐ることによって、何かを得ようとする気持ちが起こるからである…と。

  

話を現在に転じると、新型コロナは、グーッと減少している模様…。 島根県など気が付いたら手遅れとならないように、インフルエンザの予防接種、余力があれば、コロナ対策とした方がよさそうです。

もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。それにしても人間って、智慧がないですね…、日本にも秋と春が無くなろうとしている現実を感じないのでしょうか? 狭い地球で、争っている時では無い…。  パレスチナ(ハマス)とイスラエル、次期世界大戦の様相が見え隠れして…不気味です…。

(合掌)

(管理人)

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