桜 満開

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桜がまさに満開の日、境内のお山も若葉の緑が眩しいなか、お参りさせていただきました。あちらこちらに桜が咲きほこり、雪やなぎの白、レンギョウの黄金色など、花いっぱいの季節が到来していました。そして紅葉までも小さな花を咲かせていました。

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親先生には、「空(すべては移り変わりゆくもの)」といただきました。ものの本によりますと、「空」は梵語で「シューニャ」、漢訳では「無」とも訳され、語源は「膨張、成長」だそうです。「般若経」の縁起思想によれば、「これ有れば彼あり、これ生ずれば彼生ず」とあり、すべてが縁であり、相対的なものでしかないと。絶対的な存在など無くすべては「空」であると。曹洞宗渡會正純師によりますと、例えば、縁あって結婚するということがなければ、その指に指輪などなかったとか、あの時雨が降らなければあの店には入らなかった・・・など、縁があったからであり、世の中のことは一切が「空」であると。すべてのものは実体は無く「空」であり、それはまたご縁を紡ぐ「空」でもあると。

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お参りさせていただくご縁を頂戴し、美しい花々を拝見できるについても改めて感謝するばかりですが、ただ、一方では、あれもこれもの欲心ばかりが先立つ昨今ではなかったか懺悔の心が忘れ去られようとしていたことに思い到らせていただくこともありました。反省しながらも、それでも心和ませていただけることに改めて感謝するものです。心のありようをひととき見つめ直し、術後のことも気持ちを切り替えて更に頑張らねばと思い直す一日でした。

(合掌)

管理人

春季お彼岸 永代経法要

 

去る日曜日、早朝の寒さが嘘のようで、全く寒さを感じさせない、暑いくらいのお彼岸の一日、春季彼岸永代経法要が厳修され、お参りさせていただきました。境内のお山の遠景は変わらぬもののつくしんぼがそっと顔を出し、梅は散り始める花模様、沈丁花が香りを撒き散らし、馬酔木の真っ白な花が咲き誇り、菜の花が春を伝えていました。

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そんな境内では、既にお同行さまにて、幟、ふきながしなど諸準備万端整っていて、ご参拝の方々にはおおかたの春の良き日のお彼岸を全身にて感じ取られていたものと思われました。

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法要にあたり、親先生のご法話を頂戴しました。お彼岸は、私たちの命を繋いでいただいたご先祖さまのご恩に報いることであると。ご先祖さまに報いご本尊さまにひとえにおすがりすることの大切さについて、あるお同行さまのご体験のお話しがありました。内容まではご披露できませんが、ご先祖さまを大切にしましょうとのお話であり、これぞ現世利益であろうと思ったものでした。親先生のお話しに涙されているお同行さまも大勢いらっしゃったことが忘れられません。

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そんな親先生の3月のお言葉は、「道(どう)、(今、ここを大切に道を切り開く)」とあります。わたしの場合、長い人生の大半は中途半端に既に費やしてしまい、もはや道も消えつつあるのかもしれません。このブログもそうですが、この歳になってやっと写仏だの、写経だのと慌てる様を戒めたく思う一日でありました。

(合掌)

管理人

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立教柴燈大護摩祈願祭参拝~大本山~

先の週末は、親先生はじめお同行さま方々のお力添えをいただいて立教柴燈大護摩祈願祭にお参りさせていただきました。初めての大本山は、深い緑の山なみに溶け込むように在り、その全容は雲の彼方にあるとも思われる広大なものでした。護摩祈願祭は、参拝の人で混み合っていて写真も巧く撮れないほどでしたが、幸い護摩を焚く煙の程よく流れる位置に居てまずは感謝でした。

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この2月、親先生からは「行雲流水(こううんりゅうすい/雲や水のように、そのとき、その場を無心に生きる)」といただきました。このことにつき思い浮かびますのはなぜか大本山ホームページの写真にあります、厳しい修行を続けられるご先達様方の雲水姿です。自然のなすがままに修行し、一切の物事に執着しない悟りの境涯を言うのだそうです。そして、自己に執着しない姿・・・無心・無我・無念無想なのであると。

中国禅の六祖・慧能禅師は、「この法門は、先人以来、第一に「無念」を立てて宗旨とし、「無想」を本体とし、「無住」を根本とする。「無想」とは形において相を離れるのであり、「無念」とは念(おも)うて念(おも)わないことであると言われたと。(六祖壇経)ただ、ぼんやりする訳ではなく、自我が無くしているものの何も思わないわけでもなく、自我や執着によるとらわれが無いなかで自然に思うのだそうです。

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武田信玄の禅の師、快川禅師は、「安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水を須いず)・滅却心頭火自涼(心頭滅却すれば火もおのずから涼し)」と言って、攻め来る信長軍を前に悠然と身を焼いたとか。これは私ごとですが、月始め、心臓不整脈の手術を受け、その手術痕の痛さに看護師さんを煩わせたりで「心頭滅却すれば・・・涼し」とは程遠い状態でした。昔の人々は、驚くほどに身心剛健だったのだと、無念無想をも超えた領域に到達されるもた易いものであったのだと、つくづく感心しているところです。

手術成功について心よりみ仏さまに感謝させていただく日々、また、施術いただいた先生はもちろん新技術を開発戴いた諸先生、関係者の皆さまを始めお世話になっている有縁の皆様方のご恩に、そして何より家族のみんなに感謝するものです。今後はご恩報謝のため、親先生のお導きのもとお行させていただきたく精進したいものと存じます。その先には、心頭滅却は困難であるとして、無念無想に一歩でも近くなり得る努力をかさねたいとの思いを持つものです。

(合掌)

管理人

大寒の晴れ間にご恩日法要

大雪に見舞われた数日が嘘のような晴れ間が広がっていました。ご恩日法要にお参りさせていただくに冴え切った空気が身を引き締めてくれます。境内の木々はまさに春の準備中でしょうか、一年で一番の静かな色彩をもって眠った振りを表しているのではないかと感じたものでした。

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今日のお斎です。いろいろな野菜たっぷりの豚汁(?)と、バイキング式の副菜類でした。いつものとおり美味しさは格別でした。そしてまたお接待があり、とうてい食べきれないのでした。いつも感謝です。

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親先生からは、1月、「一笑多福(いっしょうたふく:一つの笑いで多くの人を幸せに)」といただきました。わたし自身のためにも、いつも笑顔でいたいと、そして笑いのある集いに加われるようにしたいと思うものですが、話してみれば何ということもないのに無口であったり、苦虫が這い回ったような表情であったり、さらには長年の悪癖が苔むしたような顔かたちであったりしているのではないかとの反省です。笑いは脳内にセロトニンという幸せホルモンを分泌するものだと科学的にも立証されているとか。不安で辛いときこそ、笑顔をつくる習慣が必要だとか。口角を意識的にあげて数十秒間ニヤニヤするのだそうです。(人混みの中ではしないほうが良いようです。気持ち悪い人になってしまいます。)全豪オープンテニスで錦織圭選手の初戦で闘い敗退したアンドレイ・クズネツォフという選手がいましたが、サーブの構えやレシーブ待ちのときニッコリ笑う人で、何ともいえない気持ちにされました。

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わたし事ですが来月早々に心臓の手術を控えるとやはりお不動さまにおすがりする以外にないと思うようになるものです。「衆生聞其名号 信心歓喜乃至 一念至心回向」とありますように、み仏を信じおすがりし、信行一如にて利他行を行させていただくことにつきるものと信じ、そしていずれ何時かに は泣き咽ぶほどの歓びが、信じることの歓びが、招来するものとの願いでいっぱいです。

合掌

(管理人)

 

雪の新春初護摩供祈願祭

 

この冬一番の冷え込みで境内は真白く雪化粧し、新年の張りつめた空気の中、新春初護摩供祈願祭が厳修されました。駐車場までの雪掻きなど準備に当たられたお同行さまにはいつものことながら感謝でいっぱいです。

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親先生よりのご法話の中では大本山・八坂管長先生の年頭おさづけが「信心徳積(しんじんせきとく)」とご披露されました。私たちに慈悲の手を差し伸べてくださるみ仏さまには、深いご恩をいただいております。そのご恩を思うとき、わが身の至らなさ、浅ましさを気づかされる毎日です。それは、懺悔しても懺悔し尽くし切れないものであり、そのご恩に報いるためにも、何か少しでも人様のためにさせていただきたい、ご奉仕させていただきたいという気持ちが湧き起こり、実践する姿であるとのことです。

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徳積みは、人知れず行う陰徳が最も格が高いとか、人様の邪魔をするような「不徳」には絶対手出ししないこと、不徳を避けることは「消極的な徳積み」であるとして、悪魔の囁きに注意が必要とか。また、世の中には「浄化」の考え方もあると、精神的、肉体的苦痛を耐え凌ぐなど修行積むと得られると考えられているようですが、それは素人には至難のこと、ご先祖様を含む罪穢の浄化につながるとは思いつゝも、親先生におすがりすることになりそうです。

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昔、インドの祇園精舎では、お釈迦さまに感謝を表すため、その路々に灯明を掲げる風習があったそうです。その町に貧しい老女が住んでいて、彼女も一生に一度は灯明を揚げてみたいと思い、食事にも事欠く生活から少しずつ貯えして、長年の夢であった灯明をともしました。しかし、その晩に限って風が強く、ほとんどの灯明が消えてしまいましたが、なぜか、その老女の灯明だけが消されることもなく、最後まで、路を照ら続けたとのこと。貧者の一灯というそうです。

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いま現在を受け入れて、少しずつ徳積みの努力をすれば、み仏さまも必ずやお力添えくださると信じて、まずは一日ずつ頑張りたいものです。今年のお行の場は「観音堂」といただきました。昨年から写仏の手習いで「聖観世音菩薩さま」をお手本とさせて戴いていましたのでうれしい限りでした。まずは感謝を忘れず僅かでもご恩に報いるべく、行させていただくこと、少しでも何かのお役に立てればと思うものです。

合掌

(管理人)