小雨の中の盂蘭盆施餓鬼法要

先の日曜日は、「盂蘭盆施餓鬼法要」厳修の日でしたが、それはまた、心ひとつにしての祈りの日でもあったと思っております。島根は蒸し暑く、新型コロナウイルス感染症対策には『換気』ということでは都合よかったのですが、「BA5」という変異株は、第7波となって猛威をふるい、感染者数の新記録が連日続くこととなり、遂には、法要も、『流れ焼香』方式に変更となりましたが、信者様にはすでに御祈願の申込みされた方々が多く、ほおづき提灯は、既に、ご先祖様供養をいただいたものとなっておりました。

  

『流れ焼香方式』には関係なく、親先生を始め僧侶様方には、盂蘭盆施餓鬼秘法の真を尽くしていただくことであり、変わらず蒸し暑さを耐えておられるものと感謝申し上げることでありますが、お参りさせて戴いている信者様には、換気の風がありがたく感じた日でもありました。加えて、篤信なお同行さまの丹精込めて育てられた大輪の蓮の花が、会場を驚かせて、明るく幸せにもさせて戴きました。有難くお礼申し上げることであります。

  

当日は、時おり小雨のぱらつく天気ではありましたが、猛烈な日差しを直に受けることなくありがたいことでございました。奥之院の方角には大師山(山陰高野山)の緑深い山肌が輝き、夏の花のキスゲ、ムクゲ、カンナ、サルスベリなどが色合を競っておりました。

親先生の御法話は、『盆はうれしや 別れた人も 晴れてこの世に会いにくる』との詩から始まり、目には見えないけれどもお祖父さん・お祖母さん、父母、飼っていた動物たちなど家族として縁あるものが会いに来ていると…。新型コロナ禍で3年になるが、今年はいよいよ百万遍もできないことになったと…。これからどのように対処して行くのかと(…仏さまに…)問われていると…。 令和4年は『トラ年』であるが、2月には、ロシアのプーチンが戦争を始めた。ウクライナのスラブ民族という兄弟の命を平気で奪っていると…。 7月には、昭和29年生まれの、お逢いしたことはないが、華々しい政治の世界の人が命を断たれた。無常を感じさせられ、お祖父さんとの繋がりを感じる。25~6年遡ったころに、霊感商法とか、何とか協会とかのことで、相談を受けた記憶があると…。当事者の子ども達がその気でいて、ご両親は手の施しようが無かったとの記憶であると…。 お互い、家族を想い、相手の立場を考えることが必要であると…。

  

島根県松江市出身の中村元先生の伝えられた詩があると…。 『目のある人は、盲人のごとくであれ。 耳ある人は、聾者のごとくであれ。 知慧ある人は、愚鈍なる者のごとくであれ。 強い者は、弱い者のごとくであれ。 (中村元訳・ブッダの言葉より・テーラーガーター501)』 仏さまは、相手の気持ちになれとおっしゃっていると…。今年もご先祖さまにはよろこんでお帰りになっているとお伝えし、身も心も健やかにとお祈りさせていただきますと…。

  

新型コロナウイルス感染症は、新たな『BA5』なる変異株の感染力が強いこともありますが、社会的規制を実施していないことがあって、第7派の襲来による局面がピークを迎えています。 新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。そして、今年こそインフルエンザなみの対策で済ませることが叶うように願うものです。

(合掌)

管理人

熱中症に注意して御行清掃の日

先の日曜日、夏を控えての御行清掃の日、あれこれと日頃お世話になっていることばかり思い返し、今日こそはご恩の極々少しでもお礼したいと思いつつも、何をしても手間のかかる体になってしまい、思いのようにはなりません。それでも、皆さまに声をかけてはげまし戴いたこともあり、奥之院開基堂までお参りがかない、今日もまた感謝のことが絶えない日となってしまいました。お同行さまには、奥之院への参道に倒れたマツの古木(芯には松脂が蓄積)など伐採、白木堂をはじめ、多くの御堂の大掃除と、暑い中、熱中症とたたかいながらの作業をされており、感謝申し上げる次第です。曇り空の下でのことではありますが、蒸し暑く、何事においても、熱中症に注意しながらの作業となってしまうことでした。改めましてお礼申し上げます。

  

そして、親先生より7月は、「看脚下(履物をちゃんと揃えるくらいの余裕がなければ、生活が乱れ、人生まで乱れますよ。)」、といただきました。

その「看脚下」について、故・松原泰道老師の著「五十歳からの人生塾」に、次のような一節があります。ある時、修行を積んだ雲水が、大應(だいおう)国師(臨済宗妙心寺開祖・無相大師の師・大灯国師の師)に問います。「釈尊のご誕生については、『天上天下唯我独尊』とおっしゃったことなど史実は存じていますが、釈尊は、いま、どこにいらっしゃるのでしょうか?」と…。 この雲水は、学問の勉強でなく、生きた仏教を身に着けたいのです。仏像でなく、お釈迦様を目の前に拝みたいのです。大應国師は、雲水のひたむきな面差しを愛おしんで、静かにゆっくりと力をこめ、「看脚下『脚下(きゃっか)を看(み)よ』(照顧脚下ともいう)」と、明快にひと言で答えておられると…。 『脚下を看よ』とは、自分の足もとに気をつけよ、ということであると…。インドの修行者は歩く時、虫を踏み殺さないように、下を向いて足もとに注意すると…。このことから転じて、禅門では、自己反省から更に、自己の中に真理を求めることを言うと…。

  

この話は、同老師の禅語百選にもあり、中国・禅の開祖達磨大師から五祖・法演禅師とその三人の弟子が夜道を帰る途中、風のために灯りが消え、師は「一転語を下せ(暗夜を行くには灯火がなによりの頼り、それが今消えた、さあ、どうする?…)」と命じ、弟子たちはそれぞれの力量に応じて答え、その中で、仏果圜悟師(碧厳録の完成者)の「看脚下」が師の心に適ったとあると…。(中国・宋代の話)

  

新型コロナウイルス感染症は、新たな『BA5』なる変異種が格別の感染力であるとも聞くところであって、月末に開催の『盂蘭盆施餓鬼法要』については、新規感染者数が数百人という現状が減少傾向に転じない場合には、第7派の襲来を予想した対策に移行して行くこととされるやも知れません。その場合には、『ながれ焼香』方式で行い、百万遍供養などの人が密になりやすい事態を避けることで検討中とのこと…。新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

またしても急遽のお参り

先の日曜日、またしても急遽のお参りとなりました。突然の事と言いながら、毎度、毎度の突然のことであり、もはや「毎度のこと」にほかならぬと思う次第…、新緑の境内は、お同行さまの草刈り御行 (いつもありがとうございます) にて「くよし」の煙が青くたなびくなか、親先生にもご挨拶が叶い、ありがたいことです。そしてまた、本堂の裏山には、親子の「サル」の群れがあって、賑やかすぎるくらいでした。先日のNHKスペシャル (島根県三郷町のお話し) の「獣害転じて福となす」を思い起こします。

  

親先生より6月は、「不退転(後戻りできないという気持ちでがんばる。)」、といただきました。)

岩波仏教辞典(中村元先生他・編)によると、「不退転」とは「無退」とも訳し、修行において、退歩しないことを言い、「阿鞞跋致(あぴばっち)」と音写する…と。修行者がある程度の階位にまで達すると、もう二度と欲に染まり、迷いに苦しめられる状態に後戻りすることがなくなった堅固な心の状態を言う…と。 将来、仏陀になることが約束されて決して迷いの世界に転落することがない菩薩の心のあり方を言う…と、あります。

  

そして、仏説無量寿経、四十八願のうち、例えば四十七願には、世自在王仏が法蔵菩薩(未来の阿弥陀仏)の求めに応じ、二百一十億の仏がたの国々のすべてを目の当たりにお見せになり、また、法蔵菩薩は優れた願を起し五劫の長い間思いを巡らして浄土をうるわしく整える清らかな行を選び取られ、世自在王仏の求めに応じ、すべての人々に、次のような願を説き述べられた。――(原文で)…『設我得仏(せつがとくぶ)、他方国土諸菩薩衆(たほうこくどしょぼさっしゅ)、聞我名字(もんがみょうじ)、不即得至不退転者(ふそくとくしふたいてんしゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく) とあり、―― (現代文で)…もし私が仏となった時、他方の国土の諸々の菩薩たちが、私の名を聞いて、すぐに悟りへと至って、退くことがない、ということがないならば、私は正しい悟りを得ることはしません。――』と、訳されています。

また、仏説無量寿経・四十八願のうち、最後の四十八願には、――(原文で)…『設我得仏(せつがとくぶ)、他方国土諸菩薩衆(たほうこくどしょぼさっしゅ)紋、聞我名字(もんがみょうじ)、不即得至第一第二第三法忍(ふそくとくしだいいちだいにだいさんほうにん)、於諸仏法(おしょぶっぽう)、不能即得(ふのうそくとく)、不退転者(ふたいてんしゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく) とあり、 ―― (現代文で)…もし私が仏となった時、他方の国土の諸々の菩薩たちが、私の名を聞いて第一音響忍、第二柔順忍、第三無生法忍の三忍へと速やかに到達し、諸々の仏法の位において退くことがない、ということができないならば、私は正しい悟りを得ることはしません――』」と、訳されています。

  

そして、無量寿経の最後の部分には、『釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。「如来がお出ましになった世に生まれることは難しくその如来に会うことも難しい。ましてこの教えを聞き信じて保ち続けることは最も難しい事であってこれより難しい事は他にない。そうであるから、私はこのように仏となり、様々なさとりへの道を示し、遂にこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただ、これを信じて教えのままに修行するがよい。」 釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、皆この上ないさとりを求める心を起した。

 一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得て、二十二億の天女や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、様々な功徳を積んでその身に備え、やがて仏となるべき身となったのである。その時、天も地も様々に打ち震え、大いなる光明は広く全ての国々を照らし、実に様々な音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。釈尊がこの教えを説き終わられると、弥勒菩薩をはじめ、様々な世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集う全てのものは、その尊い教えを承って誰一人として心から喜ばない者はなかった。』と、あります。  『不退転』とは、修行される菩薩の方々の決意であり、その名を冠した位であること…と。仏さまの世界は、遠い遠い先にあるらしいとのこと…もっと驚くことには、『劫』とは、一つの宇宙が始まって消滅するまでの時間らしい…。または、四十里四方の岩を天女が3年に一度舞い降りて衣の袖で払い、岩がすり減って無くなるまでの時間とも…。インド哲学の広大な宇宙観に、驚くばかりです。また、その時代、文字文化が無く、お釈迦様入滅後約1000年もの間、8万4千部もの法が口伝に依って伝承されたとあり、さらなる驚きです。

  

新型コロナウイルス感染症は、いよいよ減少傾向ですが、その先は油断大敵のように感じます。ワクチン接種が進んでいますが、他方では熱中症のこともあり、マスクを外すことも考えられているもようです。しかし、オミクロン株の後遺症は、重篤なものであるとのこと、クラスターが発生しそうな規模の集会には参加しないか若しくは徹底した対策が必要ではないでしょうか…。やはり、普段からの努力が不可欠、マスク、手洗い・消毒、密にならないなど基本を守りつつ、適切な換気対策の上でのマスク中止など、工夫したいものです。 新型コロナウイルス禍の撲滅、一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

お留守の間のお参りでした

親先生はお留守でしたが、ボランティァ作業やどうしても御祈願をお願いしたいことなどあり、どうしてもお参りさせていただくこととしました。久し振りの境内は、「もうすぐ夏」の装いで、やや薄い緑と黒々した濃い緑、ほっとするような、溜息のでるお山です。カキツバタ、白いカラー、躑躅などが目にとまります。1月に初護摩をいただいてからあっという間6カ月でした。

  

親先生より5月は、「知足(今あるものに目を向ければ満足のいく生活がある)」、といただきました。)

「知足」について、まず、仏教名言辞典(奈良康明編)には、次のようにあります。「知足(ちそく)の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽(あんらく)なりとす。不知足(ふちそく)の者(もの)は天堂(てんどう)に処(しょ)すと雖(いえど)も亦(また)意(こころ)にかなわず。不知足(ふちそく)の者(もの)は富(と)めりと雖(いえど)も而(しか)も貧(まず)し」と…。

(原文)「知足之人、雖臥地上、猶爲安楽、不知足者、雖處天堂、亦不稱意。不知足者、雖富而貧。」(仏遺教経・後秦の鳩摩羅什訳)

(解説)  「足るを知る人は地上に寝るような境遇であっても幸せな人であり、足ることを知らない人は、天上界の宮殿のような立派なところに住んでも満足できない。足るを知らない人は、いかに財産があっても心は貧しいものだ」と…。    この文には、前段があり、「若し、諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。」と説かれ、足るを知るということは、人生を幸せに生きるうえで最も大切なことであることが示され、これに続いて、知足の人と不知足の人との心の違いや生活態度が対比して説かれている。…中略…「不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の憐憫するところとなる」と説かれているように、いくら富があっても満足しないものは、金銭上の不満だけでなくて、五欲つまり食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲、の奴隷となり、それらの欲望にひきずられて、貧しくとも足るを知る人から逆に憐れみを受けることとなると…。

  

また、故松原泰道師の「禅語百選」には、「知足」につき、釈尊が亡くなる時の最後の説法「遺教経」に『八大人覚』と説かれており、(注:ここで『大人』は、仏道修行者をいう)  彼らが固く守って修行すべき八項目とは、「少欲(多くの利を求めない)」、「寂静(静かな処に住す)」、「精進(進んで努力して退かない)」、「不忘念(法を守り忘れない)」、「禅定(心を乱さない)」、「修智慧(智慧を修める)」、「認識(正しく考える)」の七つに「知足」を加えたもの。それぞれ独立した必修項目であると共に、それを修めることによって、最後の「知足」を身につけることになると…。

また、同松原泰道師の一冊には、松江藩主で茶人の松平不昧公につき、「茶の本意は知足をもととする。茶道は分々に足ることを知るという方便なり。足ることを知れば、茶を立てて不足こそ楽しみとなれ」と、茶によって「知足」を行じて知恵を身につけよ」と示しておられるともありました…。

  

宗祖上人様の語録「心のともしび」にも色々とありました。そのひとつに、「不平不満をのけて、ありがとうございますという感謝の一念を持って、孜々(しし)として(熱心に励む様子)精進して行くならば必ず授けてくださる。いただくまいと思うても、向こうから授けてくださる…とありました。日々支えられて生きております。ただ、ただ、感謝ばかりです。

   

新型コロナウイルス感染症は、これから上手く付き合って行くことになりそうです。マスクの外し方(外して良い場所)など、提案される模様であり、4回目のワクチンと共に、この夏の暮らし方に方向が示されることになりそうです。それでもやはり、手洗い・消毒・密にならないなど基本を守って、ワクチンを行き渡らせることで、後遺症の心配を無くしたい、コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

境内はもえぎ色

今月も多忙につき、急遽のお参りとなりました。先の彼岸永代経から1か月も経っていないのに、お山は黄緑色、まさに「萌木色」です。先週は、夏日もありました。そして快適な温かさ、今から夏の暑さを予感させるお参りとなりました。そして、お同行さまには、新緑の中にあって、草刈り、剪定など、忙しくしておられ、いつもながら、感謝の気持ちいっぱいです。休耕田には黄色い菜の花が一面に咲き誇り、モミジの花にミツバチが飛び交う様は、楽園を思わせてくれます。

  

親先生より 4月は、「般若(誰の中にも「仏の心」がある。正しい生き方は、すでに仏の心が知っている)」と、いただきました。  「般若」は、よく耳にします「般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)」に出てくる「般若」です。松江市出身の故・中村元先生は、仏教語源散策の中で、次のように説いておられます。般若と言うと恐ろしい形相をした鬼女の面を連想する人が多いが、奈良の般若坊という面打ちが始めたということらしいと…。般若は、サンスクリット語で、「プラジュニャー」、その俗語で「パンニャー」、〝悟りを得る真実の智慧〟〝全てを全体的に把握する智慧を意味すると…。…(中略)…菩薩の修行法として、六種の波羅蜜(完成)があげられている。それが六波羅蜜であって、「六種の完成」とは、(1)布施(ダーナ)の完成、(2)持戒(シーラ)の完成、(3)忍辱(クシャーンティ)の完成、(4)精進(ヴィーリヤ)の完成、(5)禅定(ディヤーナ)の完成、(6)智慧(プラジュニャー)の完成であると…。すなわち、第六番目の智慧の完成が般若波羅蜜(プラジュニャー・パラミダー)である。般若波羅蜜とは、完全にして最高の智慧であり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五波羅蜜は方便(手段)としての実践活動にほかならない。対して般若波羅蜜は、直接悟りに結び付く別格の波羅蜜で、他の布施などの五波羅蜜を成立させる根源的な叡智である…と。般若経という膨大な大乗経典があると…。玄奘三蔵訳の『大般若波羅蜜多経』(大般若)六百巻のように諸経典を集大成した一大業書もあれば、『般若波羅蜜多心経』(般若心経)のように小部の者もあり、一律に論じられないが、いずれも菩薩の修行法としての般若波羅蜜を口を極めて褒め讃えていると。釈尊といえども過去世に般若波羅蜜を修行して仏陀となられたと…。

  

また、日本画(草絵作家)故・芘田圭子氏(大阪出身・1949年真言宗善通寺派大本山隋心院にて得度)の『心経百話』には、次のようにあります。――第三話 般若…… 般若は仏の智慧であります。 何度か繰り返すうちに覚えてください。 仏の智慧とはどんな智慧でありましょうか。 本当の仏の智慧を探してみましょう。 見つかるかどうか私の方法で探してみましょう。 何日か前、小さい小さい浅い緑豆のような一粒が土からのぞきました。 その小さい粒は少しづつ膨らんで口を開きました。 私たちに口があるようにその小さい粒にも口があったのです。 それは草の芽でありました。 私たちの口に歯があるようにその小さい粒にも葉が見え出したのです。 それは草の芽でありました。 その芽の歯は葉でありました。 そうです。口や歯だけでなくその葉の芽は私たちにある目のように草の芽として伸びはじめたのです。 いまに私たちに鼻があるように草にも花という華がるのが分る日がきますね。 それは日本さくら草です。 花だけではありません。 樹も、石も、苔もみんなみんな。 みんな生き生きしています。 いまここにあるもの、ここだけでなく、そこにあるもの、それが般若なのです。それがそのままに。――

  

そして、あとがきとして、――日の出を見て、日本もインドも同じ仏さまを拝んでいるのだなと思うと…。それは、お釈迦さまも、真言の大日如来もインドからお迎えしているからであると…。ところで、世界で一番古い宗教…ゾロアスター教のご本尊は「マズダ」というと…。「マズダ」とは、アフラ・マズラ、即ち智慧と光のことであり、般若(仏)と日輪のことになると…。キリスト教(旧教)の唯一神エホバは、「ヤハウエ」のことであり、すなわち「雷さま」のことであると…。シナイ山に住まいし、閃光をもって岩に十戒を刻んでモーゼに示したと…。イスラム教では、天のお告げコーランと旧約聖書を使っていると…。恵みを与えてくださる日輪、悪を退けてくださる雷さま。世界中が同じ神仏を頂いているのであって、同じ親から生まれた子供のようなもの…、人類も宗教もどうして仲良くできないのかと…。  さいごに、ウクライナの皆さまが、心安らかに暮らせる日を願ってやみません。

新型コロナウイルス感染症は、第7波に入った模様であると県知事さまの話がありましたが、同館であります。オミクロン株も、BA2、XEと、変異しつつあり、感染が益々早くなっていると…。爆発的流行があるような予感がしています。やはり、基本が大切ではないでしょうか。 手洗い・消毒・密にならないなど基本を守り、ワクチンを行き渡らせることで、後遺症の軽減化を確実にしてから、次の策を進めたいものと…。新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。まずは、この一年を無事に乗り切りたいものです。

(合掌)

管理人

肌寒い中の永代経法要

先の日曜日・春のお彼岸中日は、殊のほか寒い日でした。先週までの陽気が嘘のようなどんよりとした、風の冷たい一日。昨年は仏旗の背景に桃色の淡い花を咲かせた桜も、今年は蕾が膨らんではいるものの花は見られないものでした。黄水仙、沈丁花が満開ではありましたがレンギョウなども昨年と際立つ違いにて花の準備に忙しい様子でした。お山の景色も未だ真冬を思わせる今年のお彼岸でありました。今年の冬の寒さが思い起こされることとなりました。

  

親先生より 3月は、「慈眼 (観音様のあたたかい眼。相手を思いやる愛のまなざし。)」、といただきました。「お経で学ぶ仏教」(東京大学大学院教授 蓑輪顕量・著)には、観音経として、次のように「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(「お経で学ぶ仏教」より抜粋)」があり、その中に「…具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」という一節が出てきます。 この…「慈眼視衆生」…など、観音経として人気がありよく流布しているそうです。普門品が人気の理由は、人々の願いに応えるような利益をたくさん説いていること。例えば、水や火の災害、羅刹や鬼などの脅威、刀や杖で害されること、枷や鎖で拘束されること、旅の途中で盗賊に襲われることなど、数々の災難に遭った際、観音菩薩の名前を唱えれば、たちどころにその難から逃れられると説いていると…。「普門品」には観音菩薩の衆生済度の様々が細かく列挙されており、現世利益を求める人々に広く受け入れられたと…。

  

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五 (みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんだいにじゅうご)……(観音経)

( 原文 )   真観清浄観(しんかんしょうじょうかん) 広大智慧観(こうだいちえかん) 悲観及慈観(ひかんきゅうじかん) 常願常瞻仰(じょうがんじょうせんごう) 無垢清浄光(むくしょうじょうこう) 慧日破諸闇(えにちはしょあん) 能伏災風火(のうふくさいふうか) 普明照世間(ふみょうしょうせけん) 悲体戒雷震(ひたいかいらいしん) 慈意妙大雲(じいみょうだいうん) 澍甘露法雨(じゅかんろほうう) 滅除煩悩焔(めつじょぼんのうえん) 妙音観世音(みょうおんかんぜおん) 梵音海潮音(ぼんのんかいちょうおん) 勝彼世間音(しょうひせけんのん) 是故須常念(ぜこしゅじょうねん) 念念勿生疑(ねんねんもっしょうぎ) 観世音浄聖(かんぜおんじょうしょう) 於苦悩死厄(おくのうしやく) 能為作依怙(のういさえこ) 具一切功徳(ぐいっさいくどく) 慈眼視衆生(じげんししゅじょう) 福聚海無量(ふくじゅかいむりょう) 是故応頂礼(ぜこおうちょうらい)

( 現代訳 )   真に清らかに世を眺め 広大な知恵で観察し 慈悲のまなこを持つ者を 常に願って仰ぎ見よ 無垢で清らかに輝ける 智慧の太陽は闇を裂き 災いの風や火を消して 普く世間を照らし出す 憐れみとしての戒めは 雷のごとく鳴り響き 妙なる慈悲の御心は まるで大きな雲のように 教えの雨を降りそそぎ 煩悩の火を消してゆく観世音菩薩の不思議な声は 清らかの海の潮の音 この世で一番よい声を いつも心に念じなさい 疑う心を捨てなさい 苦しみや死に悩む時 観音菩薩は寄る辺となり すべての功徳を身に備え 憐れみの目で皆を見る 福徳の海は果てしない 押し頂いて礼拝せよ

  

地球の反対側では、21世紀の現代に信じ難い戦争という悲劇が起こっています。それも同じ民族同士の戦いであると…。繰り返される戦いの惨禍を歴史に学んでいるはずの人々が、何故なのかと思ってしまいます。一日も早く停戦してほしいと願うのみ…。それから、ゆっくり交渉すればいいと…。

  

新型コロナウイルス感染症は、第6波がピークを過ぎつつあるも、様子を見る状況でしょうか。 しかし、BA2なる、新たな感染力の強い強敵が、オミクロン株に置き換わりつつあるとのこと…。次の爆発的流行があるような予感がしています。やはり、基本が大切ではないでしょうか。 手洗い・消毒・密にならないなど基本を守り、ワクチンを行き渡らせることで、インフルエンザ並みにしたいものです(勝手な願いですが……)。 新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。そして、まずは今年一年、無事に乗り切りたいものです。

(合掌)

管理人

立春となるも待遠しい春

思い立ったらお参り…と、急遽、昨日午後からの行動開始となりました。境内(お山全体)は、すっかり冬色に染まっていますが、水子地蔵さまの周辺には、沈丁花など、春を待つ蕾が今にも弾けそうでした。蝋梅は終わり近いのですが、一方、気の早い梅が少しばかり花をつけていました。目を引いたのは大敵の「杉の花粉」を発見したときでした。今年は花粉を飛ばす雄花がやや少ないように見えましたが、お山全体では途方もない数であり、やはり心配は尽きません。加えて、コロナ禍の下では、間違った扱いにも注意が必要ではないかと…。

  

親先生より 2月は、「一笑多福(一つの笑いで多くの人に幸せを)」、といただきました。

そこで笑いについての話しを集めてみました。今回は、青山俊董禅師(愛知専門尼僧堂堂長、正法寺・無量寺住職)の「日めくり法話・悲しみはあした花咲く」から引用させて頂きました。お話しというのは「春の章(第6話)」にあり、念願の会社に就職されたものの、毎日、お茶、電話、コピーといった雑用ばかりという、ある知人のお嬢さまへの返書から始まる…「笑いもお布施」というもの…。その返書には、お釈迦様の言葉「うづたかき華堆(はな)より、かずかずの華の鬘(かざり)を作りえん、かくのごとく、ここに生まれたるものの、なしとげうべき、善きことは多し《法句経53》」を贈り、日々、部屋に一輪の花を忘れぬよう書き添えられたと…。花一輪あるだけで、嬉しくなり、明るくなるものと…。その人が居るだけで、花が咲いたように明るくなる、楽しくなる人がいると…。その笑顔に接しているだけで苦しみが癒される…、あなたの笑顔で、あなたの「お疲れさま」のねぎらいの一言で、安らぎと喜びを感じてもらえたら素晴らしいこと…と。(中略)……

  

800年前の中国に、廓庵(かくあん)禅師という方がおられ、人の修行あり方を10段階の牛飼いに例えて「十牛図(じゅうぎゅうず)」として説かれたと…。その絵の十番目には、笑顔の布袋さまが大きな袋をかつぎ、ハダシで子供と遊ぶ図柄、そこには、「土を抹(まつ)し、灰を塗(ぬ)って、笑い顋(あぎと)に満つ、真仙神秘(しんせんしんぴ)の訣(けつ)を用いず、直(じき)に枯木(こぼく)して、花を放(はな)って開かしむ」との書き込みがあったと。—―泥んこになり灰だらけになって、人々と全く同じ姿になりきり、いつどこにあっても温かい微笑が、顔いっぱい、体いっぱいにあふれ、神通力だの霊能だのと、怪しげな手段を用いず、ただ共に居るというだけで、人々の心に花を咲かせてあるくと…。日本の昔話『花さかじいさん』の心はこれであったと…。(中略)……

道元禅師は、「ただまさにやわらかなる容顔をもて、一切に向かうべし」とおおせられ、お釈迦さまは、「和顔施,愛語施」という言葉で語っておられると…。朝、昼、夜といただく食事にもその食材は体ごと供養、つまりは捨身(しゃしん)の供養をしてもらっている、それぞれの役を全うしたとき、布施しているといえることであり、私たちは、布施の中に生きていると…。政治家はおのれを捨てて人々の幸せのために命をかけ、医者は医師の使命に、教育者は教育に、父は父の座、母は母としての使命に命をかける時、本当の布施ができたと言えると…。

お地蔵さまにお参りする時のご真言は、「オン、カカ カビサンマエイ ソワカ」、「カカ」は「呵呵大笑」の「呵呵」で、「ハッ、ハッ」という笑い声を表し、「カビサンマエイ」は「莞爾(かんじ)」と訳し、微笑を表すと…。すべての人のありようを花に例え、その花とは常に今ここにあって微笑をたやさないことなのだと…、心に銘記した毎日でありたいものと思うこととあります。

  

そして、同「日めくり法話:良寛戒語の章・「酒に酔いて理(理屈)を言う」には、「笑いには自然発生的なものと、作られた笑いの2つの流れがあると…。嘲笑(ちょうしょう)、蔑笑(べっしょう)、失笑、苦笑、爆笑、哄笑(こうしょう)、大笑、諂笑(てんしょう)、微笑…。日本語には笑いを表現するたくさんの言葉があることに気付くとあります。愛情教育の実践で多くの人々に慕われた故・八ツ塚実先生は、「笑いの質にこだわろう」と呼びかけておられると…。笑いの質というと、微笑は深くあたたかくやさしいもので、母のほほえみ、仏のほほえみに相通じるものであると…。

微笑ひとつ、和顔施で、皆さまが幸せを感じられたら嬉しいかぎりではないかと…。ただし、あまりニヤニヤしてばかりいると、気味悪くも見えてしまうのではと…。和顔施とは、よく修行された結果として自然に溢れ出る微笑なのであろうと…思うことです。

  

新型コロナウイルス感染症は、新規感染者数が急増、「オミクロン株」の爆発的感染がやや低下傾向を見せつつありますが、油断は禁物です。幼児、高齢者、病中の人など重症化の危険のある人を如何に守るか問われています。また社会機能の維持に、エッセンシャルワーカーの人々を感染から守ることも急務。一方では、抗体検査、PCR検査などの検査キットの不足が問題となったり、亡くなられた方々の中に爆発的感染によって、必要な治療が受けられず、「無念死」された方が死亡者の40%近くもあると聞いており、お国の、行政の、と言える事態ではないかと…。個々の私たちが出来ることは、3密を避ける、マスク、手指消毒、こま目な換気などと、今まで以上に努力が必要ではないでしょうか。ひとり一人が日常の中で改善をして行きたいもの…。新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願い、コロナ禍撃退に皆で協力して頑張りたいものです。

(合掌)

管理人

2022年 新春初護摩供祈願祭

新年あけましておめでとうございます。先の日曜日は、「新春初護摩供祈願祭」厳修されました。ブログをと思いましたもののパソコンが不調でダマし騙されつつの作業となり、Windows10と対峙して3日も要することとなり、皆さまには只々お詫び申し上げる次第です。今年は、新型コロナ、特にオミクロン株が猛威を振う中、本堂内で全員が集まるやり方を止め、各人の間隔を空けて流れ方式での護摩供祈願祭が行われました。参拝される方々の間隔はご家族であっても、2メートル近く空いていたと思いました。また、ご祈願の護摩木は、殆どが郵送であった模様で、当日の参拝者が大幅に少なく出来ていました。境内(お山)は、木立も、空の雲も、どんよりと寒々しい色に染まっていました。それでも季節を映して蝋梅、水仙、椿、クチナシの実などが楽しませてくれました。

  

親先生より 1月は、「一日一生(今日の一日は、一生の一日ではなく、日々がわが一生)」、といただきました。 (註:「一日一生」は、これまで3回ほどありましたので、今回は、故松原泰道老師の「百歳の禅語」の逸話を紹介させていただくことにしました。)

江戸時代の禅僧、白隠禅師を厳しく育てられた師匠の話、その師匠は信州中野・飯山の人で、正授庵という小庵に住んでいたことから正受老人と呼ばれ、村の人々にさまざまな法を説いたと…。その一方では、地元に先祖代々口伝されてきたことを学ぶこともあったと…。その中に、「一日暮らし」というものがあり、それは「今日一日」、この一日一日を取り返しのつかない時間として生きて行くとの考え方であると…。

辛いことも「今日一日」と思えば耐えられ、楽しいことも「今日一日限り」と思えば現を抜かすこともないと…、「自分の全生涯が今日の一日」であると考えると…。この「一日暮らし」は、釈尊の言葉にも出てくると…。それは「今日なすべきことを明日に延ばさず、確かに行っていくことがよき一日を生きる道であると…。時には雨の日も風の日もあるが、それは悪い日で、晴天の日は吉日と言う二元的なことではないと…。仏教では、物事を比べることが苦しみの原因とされていて、「今日がよい天気だったらなぁ、とか、病気の時に「健康だったらなぁ」と現実と違うことを考えると、そこに比較が生まれ、悩みの元になると…。

  

作家の吉川英二さんは、「雨の日は雨を愛し、晴れの日は晴を愛する」という言葉を遺されたと…。物事を比べず、その時を大切にして、その時なすべきことをなしていくことが、生きる上で大切であると…。

また、武者小路実篤さんは、絵が好きで、絵を描いては、サインと共に一言書かれていたと…。その一言で最も多かった言葉が「桃栗三年柿八年、達磨は九年で、俺は一生」であったと…。最初の「桃栗三年柿八年」は、「種を蒔いてすぐに実るものではないこと…、物事の完成には相応の時間が必要と…。」、また、「達磨は九年間、壁に向かって坐禅された」と…。そして実篤さんは、「俺は一生、学び通す」と言っていると…。これらは、「明日を思い浮かべず」、「今日なすべきことを、きちんと今日行っていくこと」が、よき人生を築くことに通じるとの考えであると…。

私事ですが、先週お寺さまのカレンダー(年間計画)を頂戴しました。親先生には、常に先々のことに心をわずらわしておられるのではないかと思い、その一つ一つに集中して対処されていると思っております。ブログひとつを書かせていただくについても、今の一瞬に全力で…と、思う次第…。

  

新型コロナウイルス感染症は、いよいよ第6波が到来しそうですね。沖縄、広島、山口が「まん延防止等重点措置」を申請、東京、大阪などでも特別措置が検討されている模様です。都市圏では危険の域にあると見たいです。オミクロン株の爆発的流行が間近にありますが、重傷者が少ないことが安心材料でしょうか。まずは、皆さんの努力が不可欠です。マスク、手洗い・消毒、密にならないなど基本を守りましょう。 新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。そして、今年一年兎も角も無事に乗り切りたいものです。

(合掌)

管理人

一年間御礼清掃の暖かい冬の日

風もなく暖かい…今にも泣き出しそうな空模様、お山には後光の輝いて、あたりを幻想の世界に誘っているような気配に満ちていました。先月末から僅か10日日余り、秋の季節の移ろいは、釣瓶落しに似て、秋と冬とを往来し、コロナ禍を一段と混乱させたいと願っていると…奥之院開基堂などでのお行をされた方々には、年々杉の枯れ枝の多いことが目につくとのことでした。温暖化の影響か、突風の吹き方が昔と違っているのやもしれません。山向こうで、野猿を追い払う、花火のパンパンという音が響いて、食べ残っている柿などの明日を想起させてくれます。銀杏はすっかり落葉しましたが、今年は未だ暖かく、紅葉は心残りであると葉を残し、沈丁花の蕾は準備万端にして、水仙、南天、万両などこれから天下と張り切っていました。そして、奥の院までの長い参道や多くの御堂について修理などされましたお同行様に心より感謝申し上げるものです。六地蔵お百度行場、水子地蔵さま、位牌堂周辺、参道などすっかり綺麗になり、皆さまの想いが込められた一年間御礼清掃の日でした。

  

親先生より、12月は、「面授(生身の人と人との『出会い』を大事にすること)」といただききました。

「岩波仏教辞典(中村元他・編)」には、『師が弟子に面と向かって口伝えに法門上の教養を伝えること。面授口訣とも言い、禅宗では、面授嗣法という。〝仏法の要義は師から弟子へ誤りなく伝えられねばならないが、そのため、師は弟子の資質を見極め面々対峙して口づてに法門の深旨を伝える』と、あります。 また、面授につき、「口伝(くでん)」、口授(くじゅ)、口訣(くけつ)」とも言うとあります。筆録することをよしとしない法門の秘法・作法などの奥義(おうぎ)を、伝持に耐えられると思われる少数の弟子を選び、師より口ずから相伝することを言う。転じて、師の口より直接伝授された奥義・秘儀のたぐいをも言う。特に密教では、秘密の口伝が尊重され、「十二口伝」を数える。密教相伝3種の本経・儀軌(ぎき)・口伝中の最後の訣(奥義・秘伝)は口伝による。したがって、筆録文書中にも符号や脱落・乱文を用いて口伝の余地を残させた一連の書物がある。……口伝は、インド以来、教えの聖性保持のための不立文字(ふりゅうもんじ)に発するわけで、各宗に宗要義の口伝法門がある。…と、あります。

  

『空海の風景・下(司馬遼太郎・著)』には、空海から最澄に宛てた文に『しばらく、三種あり、一つには、聞くべきの理趣、二つには見るべきの理趣、三つには念ずべきの理趣なり。もし、聞くべきの理趣を求むれば、聞くべきは即ち汝が声密(せいみつ)これなり。汝が口中の言説これなり。見るべきは色(しき)なり。汝が四大等、すなわちこれなり。念ずべきは、汝が一念の心中に、本来、つぶさに有り。更に他の心中に索(もと)むるを須(もち)いざれ。 必ず三昧耶を慎むべし。三昧耶を越すれば、すなわち伝者も受者も倶(とも)に益なし。 我もし非法にして伝えば、すなわち将来求法(ぐほう)の人、何に由ってか求道の意を知るを得ん。非法の伝受、これを盗法と名(なづ)く。すなわちこれ、仏を欺(あざむ)く。また秘蔵の奥旨は文を得ることを貴しとせず。ただ、以心伝心にあり。文はこれ糟粕(そうはく)、文はこれ瓦礫(がれき)なり。糟粕瓦礫を受くれば、すなわち粋実至実を失う。』などとあり。 最澄の『理趣釈経』借経すなわち「筆授」の申し出に、「面授」でないものは「盗法」と言っている。真言密教は、面授でなければ、伝わらないのだと思うところ…。

  

宗祖お上人様の語録「心のともしび」には、『(御開山様は)、「現在のご信心、仏教は理に走り、学に陥り、形に流れておる」ということを、よくおっしゃっておりました。』と、あります。――時がたち、人が変わるにつれて、形に流れ、学に陥り、ついに、その真実の<おじひ>のおみのりが忘れられてしまったのが、現在のありさまです。「われ大僧正なり、学者なり」という人はおるけれども、実際にそり理を行うことができない。したがって、衆生が助かることがない。そういう時代です。身語正は飾りではありません。伊達ではございません。我が身の真実、まことをもってぶつけていく信心でございます。体験のご信心でございます。体得の信心でございます…と、あります。 

私事ではありますが、自身にも多々病あるも、ありがたくも悪化が抑えられていること、近親の兄弟などには、このところ数度に亘り、病気平癒のご祈願をいただき、これらが快気に至っていることなど、有難く感謝申し上げることばかりであります。偏に親先生におすがりしてのことであります。衷心より感謝申し上げることであります。

  

新型コロナウイルス感染症は、日々新規感染者数が激減し嬉しいことではありますが、最近では、南アフリカに始まると言われます「オミクロン株」という変異株の新種が、ワクチンが効かないタイプではないかとの疑いがあるとのこと、第6波の脅威が目前に迫りつつあるやもしれません。関係者の方々には、体力の回復を急いでいただくと共に、体制の強化・改善をお願いしたいものです。新薬やワクチンの開発、水際対策、感染防止対策など、様々な対処が必要であり、先手の措置が必要と感じてしまいます。経済も好転しなければならず、皆の努力が不可欠です。マスク、手洗い、密にならないなど基本を守りましょう。 新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。そして、今年一年の無事を深く感謝するものです。

(合掌)

管理人

 

紅葉の中 ご恩日のお参り

久し振りのご恩日のお参りは、快晴の秋の空、赤や黄の紅葉が美しく、身も心も清められる感覚が嬉しい境内にうっとりさせていただくものでした。最近では、猿の群れが柿など食べ荒らすのみならず、石造の仏さままでもイタズラする子ザルがいるそうです。親先生には、なんとか、共存の方法を見つけたいとのことでした。「それでしたら、近くの美郷町の『雅ねえ』さん(テレビにも出られて有名人ではありますが)に相談してみられてはいかが」と、後になって思うことでした。もう一つ、親先生には、本堂の石垣の下に毛氈を敷き、大傘を立て掛け、秋の風情を楽しんでおられました。

  

親先生より11月は、「大心(大いなる心で相手の心を受け止め、こだわりや、偏りなく、空のごとく、海のごとく)」といただきました。

道元禅師による『典座教訓』に、次のようにあります。「謂(いわ)ゆる大心とは、其の心を大山(だいせん)にし、其の心を大海にし、偏(へん)することなく、党(とう)すること無きの心なり。両(りょう)を提(ひっさ)げて軽(かろ)しと為(な)さず、鈎(きん)を扛(あ)げて重しとすべからず。春声に引かれて、春沢(しゅんたく)に游ばず。秋色を見ると雖(いえど)も、更に秋心無し。四運(しうん)を一景(いっけい)に競(きそ)い、銖両(しゅりょう)を一目(いちもく)に視(み)る。是の一節に於いて大の字を書すべし。大の字を知るべし、大の字を学すべし。」と。

[概説]「大心」とは、『典座教訓』の中で、『大きな山のようにどっしりと構え、大きな海のように広々とさせて、一方に偏よったり、固執したりすることの無い心であると。 また、一両を軽いとか、一銖を重いとか、大袈裟に言わず、春を告げる鳥の声にも春に浮かれて遊ばず、秋の色づく紅葉を見ても侘しさを覚えず、春夏秋冬の成り行きを一景に読み取り、一銖、一両の目方も一目に視る。ここにおいて大の字を書くと良い。大の字を知るのがよい、大の字を学ぶのがよい』であると。

  

『典座教訓・すずやかに生きる(青山俊董・著)』には、逸話の紹介があります。著者の尼僧さまがご懇意のある社長から「会社が多額の負債で倒産する」との相談を受けたそうです。その社長からは「あまり辛いので仏さまの手の中に逃げようと思ったり、逃げるのは卑怯と思ったり…」と言う言葉が口から出てきて…。 尼僧さまは、即座に、「それは心得が違う。仏さまは、逃げるなと、仰せになる。姿勢を正して受けて立てと、仰せになる。『坐禅の姿勢で…』とは、どういうことか。キョロキョロ背比べするな、あせって前のめりになるな、調子がいいからといい気になるな、駄目になったからといって意気消沈するな、苦しいといって逃げ出すな、我が荷物を積極的に姿勢を正して受けて立つというのが仏教の教えです。」と。『泥多ければ仏大なり』というが、仏をつくる素材である泥という‶負債〟はいただいたものの、どうやって仏を作り上げるか。全身心を仏の家に投げ入れ、虚心に仏の教えを聞きつつ、いただいた場を道場とし、授かった仕事を具体的修行の材料として、ひたすら行ずるよりほかにないと。 その社長は、涙しつつ「生まれ変わってやりなおします」と言い、頭を剃って、絡子(らくす)を着て出直しますと。

その社長は、文字通り捨て身で、体当たりでぶつかってゆき、正直に話し、お詫びし、お願いもして歩き、おどろくほど多くの方々からご協力をいただくことができたと。 尼僧さまは『頭を剃り、絡子を掛けて出直したこと。つまり凡夫の社長が死に切り、捨て切ることができたお陰で、乗り切ることができた。捨て切ったとき始めてそこに仏の働きが現れ、丸ごと抱きかかえられていたことに気付くのである』と、説かれたそうです。

  

お上人様の語録『心のともしび』にも、これとよく似た話しが出てきます。『おまかせの信心』です。 お上人様最後のお言葉は、『身語正のご信心というものは、<おじひ>というものは学問じゃないぞ。学問に頼っても駄目よ。知恵に頼っても駄目よ。あの方は偉い方だ。博士だ。大僧正だ。管長さんだ。偉い方だ。人に頼っても、本当の<おじひ>のおみのりはいただくことはできんぞ。人に頼るな。学問に頼るな。瀧場の仏様に、お不動様に、お地蔵様でもよか。観音様でもよか。お薬師様でも、文殊様でもよか。自分の好きな、ほおっと思う仏様に、ぶつかっていけ。仏さまを信じろ。仏にぶつかっていけ。そうすれば朗然(ろおぜん)として胸は開けて、授かることができるぞ』とあり、最後のお言葉となったとのこと。 身心すべてをゆだねておすがりするということであると。

新型コロナウイルス感染症は、日々新規感染者数が減少し、嬉しいことですが、最近では、南アフリカ株という変異株の新種が、ワクチンが効かないタイプではないかとの疑いがあるとのこと、第6波の脅威が目前に迫りつつあるやもしれません。この機に関係者の方々には、体力の回復と共に、体制の強化・改善をお願いしたいものです。新薬やワクチンの開発、水際対策など、様々な改善が必要と感じてしまいます。 新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人