むせ返る新緑の境内

先の日曜日、女房殿の遣り繰りにて久しぶりのお参りから叶いました。うれしく感謝の気持ちでいっぱいです。 64歳でパーキンソン症を発症してから、10年を遣り過ごしはしましたが、細かな不都合が多々出てくるようにもなり始めました。日頃よりみなさまには大変にお世話になっており、心よりお礼を申し上げ、これからのお掛けするであろうご迷惑の数々に先んじてお詫び申し上げるものです。 近年は、春が亡くなりつつあると感じることで、冬からいっきに夏へとジャンプしているものと強く感じることです……。境内のお山は噎せ返るような熱気を感じ、黄緑色の風のなか、まゆみ、カラー、アヤメ、遅咲きのツツジなどに目を細めて、ホッとするひと時です。しばらくの間、お行のお許しをお願いいたします。

  

親先生から5月は、「無垢徳《むくどく》 (求めれば、足りない。手放せば、足りる。) 」といただきました。 「無功徳」は、約6年前にも登場いただいています由、今回は、故・松原泰道老師の「百歳の禅語」を取り上げてみようと思います。 そして、「功徳」とは、「仏教用語」で、「善行、善い行いそのもの」をいうとあります。 布教のためインドから海路、中国を訪れた-禅の開祖-「達磨大使」、中国は「梁」の時代、梁の皇帝・「武帝」は、仏教を広め、寺を建て、僧を養い、仏像をつくり、写経をする。あらゆる善行をしてきたのだから、達磨大師がさぞ褒めてくれると期待していた……と、しかし結果、達磨大師は、武帝に対し「無功徳」と言ったとあります。 武帝の善行について、一つには、どんなに善い行いであろうと、何らかの善い報いがあるという功利的な考えがある限り、これを行ったならば何らかの善い報いがあるという期待がある、あるいは、自分のした行為を美化し、拡大化してエゴを満足させようとするような考えがある限り……、これには何らの善い報いは無いというものです。

  

それからもう一つ、「無功徳」が仏教的に矛盾しているのではないかということについては、仏教の思想には創造の神はおらず、人間の幸不幸は神によって支配されるものではないとされ……、結果は人間の行為によって決まり、「善い行い」⇒「善因善果」、「悪い行い」⇒「悪因悪果」と言うことになる。 良し悪しは別として、原因があって結果が生まれる、因果律が仏教の思想であるとして来た……、 これは釈尊が悟った仏教の根本となる考え方であり……、この「因果律」に照らすと、武帝の様々な善い行いを「無功徳」言うについては、この「因果律」を否定することになる。  今、この矛盾を解(と)かねばならないが、その解決策として、「因」と「果」の間には、空間的隔たりがあり、原因、イコール結果であるという「因即果」と成り得るという深いところまで仏教思想は進んでいるのだと……、すなわち、「因果一如」もしくは「因即果」であると……。 達磨大師は、これらの奥深い次元を抑えて、「無功徳」と言ったのだと……。つまり、「武帝よ、あなたは仏教のための様々な善行を積まれた。その善行がそのまま善い功徳となっている。それも、これ以外にないという功徳であって、更に、功徳を求める必要がない」と続けたのではないかと…、あります。

  話を発展させて、「原因」が「結果」を契機となるものとして「縁」がありますが、「因果一如」の考えでは、「縁」も「原因」とされていると……。

江戸時代に白隠という有名な禅師があり、その師匠は信州中野・飯山の人で、正受庵に住まいし、子弟の扱いの乱暴であったこと、噛んで含める厳しい教育をしていたと……。その厳しい教えは、正受禅師からだけでなく、村の人々からも口伝の形で、正受禅師にも伝えられた……。 その例が「一日暮らし」という釈尊も守ってきた生活の仕方であったと……。 禅の言葉で、「日々是好日」とも言いますが、その日が思いのとおりにはならないし、二元的には考えない。

作家の吉川英治さんは、「雨の日は、雨を愛し、晴れの日は、晴れを愛する……、」と、言う言葉を残されたと…。

同じ作家の武者小路実篤さんは、絵も好きで、サインと共に一言、添書きをされていたと……。それは「桃栗三年柿8年、達磨は九年で、俺は一生」とし、「俺は一生学び通す」と誓ったとのことです。

詩人の八木重吉さんは、「花はなぜ美しいのか……。ただ、一筋の気持ちで咲くからだと……。」

わたくしごととなりますが、「ただひとすじ…、との思いで、お行させていただきます」、

感謝申し上げます。

  

新型コロナ感染症は、ついに5類に移行されてしまいました。第九波については、よく分からなくしたというのが正しいのかもしれませんね。 最後は、自身の注意で、自身を守るしかいのでしょう……。 手洗いの励行、マスクの着用など、これまでもちょっとだけ注意深くするだけで違いが感じられるのではないでしょうか。 換気にはちょうど良い時節でもあり、頑張るところは頑張って、感謝しつつ、注意を忘れないよう心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏の日々の一日も早く戻ることを祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)

境内は春・真最中 !!

ほんとうに久しぶりのお参りとなってしまいました…先の日曜日…久しぶりのお参りでした。 先ずは親先生のご配慮に感謝申し上げたいと思います。 季節は春爛漫、今年は総てが早春を一気に通り過ぎ、花々のかおりが心を高ぶらせてくれています。手遅れかと思っていた石楠花もこれから見ごろを迎える様子にて、最高潮の感動を独り占めしているとの嬉しい思いでいっぱいです。

  

親先生から4月は、「不自讃毀他戒《ふじさんきたかい》 (自分をほめて、人を見下さないこと) 」といただきました。  

【不自讃毀他戒】は2年前にも登場いただいておりますので、今回は正法眼蔵(増谷文雄・全訳注の受戒の巻を取り上げてみようと思います。 【現代語訳:(受戒の作法) また、さらに、まさに菩薩戒を受けるがよく、それが仏法に入るの順序というものであるという。 その菩薩戒を受ける作法は、久しく仏祖の奥ふかいところまで学び入ったもののかならず正伝するところであり、怠けおこたるものどものよく与り得るところではないのである。 その作法は、まずかならず、祖師を焼香礼拝して、菩薩戒を受けんことを請う。さて、その願いが聴許せられると、沐浴して身を浄め、新しいきよらかな衣服を着る、あるいは衣服を洗いきよめて、花を散じ、香をたいて、礼拝して敬をいたし、そしてその身に着ける。 それから、すべての仏像を礼拝し、また、三宝を礼拝し、長老を礼拝して、もろもろの障りを除き、身心を清浄ならしめる。その作法も、むかしから仏祖のやかたの奥ふかいところにちゃんと正伝せられている。】

…略…、 そして十戒の第七には、【原文:第七、不自讃毀他。汝従今身至仏身、此戒能持否。答云、能持。三問三答】、【現代語訳:第七、自己を讃え他人を毀(けな)さざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。 答えて云う。「よく保つ」…と。(三度問い、三度答える)…とあります。】 

  

上にいうところの十戒は、いずれも犯してはならない。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。 答えて云う。「よく保つ」…と。(三度問い、三度答える)  では、この事は、このように保つがよい。受ける者は三度礼拝する。

…略…、この受戒の作法は、まちがいもなく仏祖の正伝しきたったものである。丹霞(たんか)の天然禅師(てんねんぜんじ)や薬山の高沙弥(こうしゃみ)などもひとしく受持してきたものである。比丘戒を受けなかった祖師はあるけれども、この仏祖正伝の菩薩戒を受けなかった祖師は、いまだかってないのである。それはかならず受持するものなのである。 正法眼蔵、受戒。……とあります。

 

  

 

「梵網経」には、二種類あり、一つは初期仏教経典の「梵網六十二見経」、もう一つが中国撰述経典の「梵網経廬舎那仏説菩薩心地戒品」であると…。 「梵網経」は、上下2巻あり、上巻では、お釈迦様が廬舎那仏に代わって、このお経を説くという設定で、菩薩がなすべき四十の心の段階、(十発趣心、十長養心、十金剛心、十地) が説かれ、下巻では、「梵網戒」として、十重禁戒、四十八軽戒が説かれていると…。それは、不殺戒(ふせつかい)、不盗戒(ふとうかい)、不淫戒(ふいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不酤酒戒(ふこしゅかい)、不説過戒(ふせつかかい)、不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)、不慳戒(ふけんかい)、不瞋戒(ふしんかい)、不謗三宝戒(ふぼうさんぽうかい)、が説かれていると……。 管理人としましては、いずれ項目もとりこぼしの恐れあるに加えて、五番目の不酤酒あたりが、現実的困難を伴うものと心しております。 日々、努力させていただいておりますことと認識しているのではありますが……。

  

新型コロナ感染症は、希にゼロの日があるなど、収束にむかっているとの推測……。 3月13日からは、マスクの着用も本人の意思に任せられることになり、5月からはインフルエンザ同等に扱いも変わる模様です。 ただ、油断は禁物です。 自分のことは「人にうつさない」、「人からうつされない」とのことで、時と場所、状況を考慮して注意したいものです。  もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナのこと、平穏が戻る日を祈らずにはおられません……。

(合掌)

(管理人)

春の永代経 厳修

先々の日曜日は永代経法要厳修でありましたが、遣り繰りつかず、お参りは叶いませんでした。3月はコロナ禍とのたたかいや、不整脈との体力勝負でありましたが、何とか永らえておりますことにありがたく感謝でいっぱいです。ところで、永代経について、中村元先生外編著・「岩波仏教辞典」には、「永代読経」の略で、ご先祖などのために位牌をまつり、命日または毎月の忌日もしくは春秋の彼岸などに永代にわたって菩提寺で読経してもらうこと、とあります。そのようなことで、写真は当日撮影(令和4年版)ではないことをお詫びします。

  

親先生から3月は、「 不説過戒【ふせつかかい】 (人の過ちを非難しないこと) 」といただきました。  

【不説禍戒】は《大人の学びなおし・お経で学ぶ仏教・箕輪顕量著》によりますと、【梵網経】(梵網経廬舎那仏説菩薩心地戒品) の6番目に出てくるお話です。「梵網」とは、仏教界の神の一人「大梵天王」の網のことで、広大な網のあまたの穴に仏の教えの多様さをなぞらえているとあります。 梵網経は、上下2巻からなり、上巻では、釈尊が毘廬舎那仏に代わって『梵網経』を説くという場の設定、菩薩がおさめるべき四十の心の段階(十発趣心・十長養心・十金剛心・十地)などが説かれ、下巻では、梵網戒として、『十重禁戒・四十八軽戒』が説かれていると…。 その戒律のうち、十重禁戒は、『不殺戒(ふせつかい:殺さない)』、『不盗戒(ふとうかい:盗まない)』、『不淫戒(ふいんかい:性行為はいけない)』、『不妄語戒(ふもうごかい:嘘をつかない)』、『不酤酒戒(ふこしゅかい:飲まない)』、『不説禍戒(ふせつかかい:他人の過ちを非難しない)』、『不自讃毀他戒(ふじさんきたかい:自分を褒め他人をそしってはいけない)』、『不慳戒(ふけんかい:施しを惜しまない)』、『不瞋戒(ふしんかい:怒ってはいけない)』、『不謗三宝(ふぼうさんぽうかい:仏・法・僧をそしってはいけない)』であり、四十八軽戒は、細かな規定であるとのこと…。

  

そして「正法眼蔵」の「受戒」の巻には、【原文】「第六、不説出家菩薩罪過。汝従今身 至 仏身、此戒能持 否。答云、能持。」のように述べられており、その【現代語訳】(増谷文雄・全訳注)には、その受戒の作法として、「第六に、出家の菩薩の罪過を責めぬこと。汝は、今の身より仏の身に至るまで、よくこの戒を保つや、否や。答えて云う。よく保と…。(これを三度問い、三度答える。)・・・と、あります。

  

また、宗祖覚恵お上人様語録 『心のともしび』には、『そしる身になるな!』とありました。「そしられても、そしる身になっちゃいかんばい。泣かされても、泣かす身になっちいかん。嘘つかれても、だまされても、嘘を言う身、人をだます身になっちゃいかんぞ。人から笑われても、人を笑う身になってはいかん。」と、常々おっしゃっておられたとのこと。 どんなにそしってもぬかにくぎ。どんなにけなしても、豆腐にかすがいと言いますか、にこにこしていらっしゃる。腹立ちもどうもしなさらない。かえって、ありがとうございますと、お礼をしておられる。・・・とありました。 「かみしめ」ありがたくいただきました。

  

新型コロナ感染症は、我が家も感染してしまいましたが、近隣の方々にご迷惑を掛けることもなく、無事に収束にむかっております。 3月13日からは、マスクの着用も本人の意思に任せられることになり、5月からはインフルエンザ同等に扱いも変わる模様、ただし、油断は禁物と思っていて、注意を忘れ去ってはいけないと心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にありますウクライナのこと、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)

めぶきの季節

この日曜日、天気も回復し、急遽、お参りさせていただきました。このところ慌ただしく、落ち着くことも必須、境内は既に杉花粉の黄緑色に染まりつつあり、親先生のお話では朝夕拭き取りしておられるとか…、大変な季節のひとつ、黙々と耐えて遣り過ごすことと…。そしてお山は、木々の新芽でしょうか、やや赤味を帯びて見えます。お堂の周囲には、馬酔木、梅、など白い花が目立ち、そこから山腹に向かって、今は、沈丁花、自生のやぶ椿など楽しめました。この日は花替えのお行をされたとのこと、お同行さまには、ありがたく感謝申し上げるものです。

  

親先生から2月は、「 惺惺着【せいせいじゃく】 (心を静かに保て) 」といただきました。  

この禅語は、『無門関』第十二則に出てくる話…。『無門閑』は中国、宋の禅僧・無門慧開(ムモンエカイ)和尚(1183-1260)による公案(禅の修行者に課せられる一種の試験問題)集、四十八則のひとつであると…。

――瑞巌(ズイガン)の彦(ゲン)和尚、毎日自(ミズカ)らを主人公(シュジンコウ)と喚(ヨ)び、  復(マ)た自ら応諾す。乃(スナワ)ち云(イワ)く、「惺惺着(セイセイジャク)、喏(ダク)。他時異日(タジイジツ)、人の瞞(マン)を受くること莫(ナ)かれ、喏。喏。」――

  

――秋月龍珉著・『無門関を読む』には、次のようにあります。――

【原文】瑞厳彦和尚、毎日自喚、「主人公」、復自応諾。乃云、「惺惺着。喏。他時異日、莫受人瞞。喏喏」。  無門曰… 瑞巌老子、自買自売、弄出許多神頭鬼面。

何故、聻。一箇喚底、一箇応底、一箇惺惺底、一箇不受人瞞底。認着依前還不是。若也傚他、総是野狐見解。    頌曰… 学道之人不識真、只為従前認識神。無量劫来生死本、痴人喚作本来人。

【現代語訳】「第十二則「瑞巌、主人公を喚ぶ。」  

「瑞巌(ズイガン)の彦和尚、毎日自(ミズカ)ら「主人公」と喚(ヨ)び、復(マ)た自ら応諾(オウダク)す。乃(スナワ)ち云く、「惺(セイ)惺(セイ)着(ジャク)、喏(ダク)。他時異日(タジイジツ、人の瞞(マン)を受くること莫(ナ)かれ。喏(ダク)喏(ダク)。

 無門曰…

瑞巌老子、自(ミズカ)ら買い自ら売って、許多(ソコバク)の神頭鬼面(シンズキメン)を弄出す。何が故ぞ。聻(ニイ)。一箇の喚ぶ底(テイ)、一箇応ずる底、一箇の惺惺底、一箇の人の瞞を受けざる底、認着(ニンジャク)すれば依前として還(マ)た不是(フゼ)。若也(モシ)他(カ)れに傚(ナラ)わば、総(ス)べて是れ野狐の見解(ケンゲ)ならん。

 頌(ジュ)に曰く…(六義の一つで宗廟にて神徳を賛美した楽歌)

学道の人(ヒト)の真(マコト)を識(シ)らざるは、只だ従前より識神を認むるが為なり。無量劫来生死(ゴウライショウジ)の本(モト)、痴人(チジン)を喚んで本来人と作(ナ)す…と。

  

―― 高橋浩著・『禅の知恵ものしり辞典』では、「瑞厳の師彦和尚は、毎日、自分のことを主人公と喚び、また自ら応諾す。すなわち云く、惺惺着。他時異日、そして、自分に向かって『心静かに保っているか』と問いかけ、自分で「ハイ」と答えている。――ここで、喚びかけている自分は、『日常の自己』、 答える自分は『本来の自己』、または『真実の自己』であると…。毎朝、いつもの自分から、心の奥のもう一人の自分へ喚びかけ、『惺惺着…。』と再確認、『心静かにできているか、ボーっとして騙されるな』と…、再び自身に問い直す。 日々の気付きに感謝し、そしてまた『惺惺着』をお導きいただいた親先生に感謝申し上げるものです。 『惺惺着』…日々傍らに置きたい禅語ではないかと…。

  

新型コロナは、2桁台の日が出てくるようになり、減少傾向にありますが、死者数が比較的多く、また、後遺症も重篤な人が多いなど、第5類への移行について、諸手を挙げての賛成には、蟠(ワダカマ)りの残るものではないかと。 経済中心の方向を考えておられるように感じておりますが、くれぐれも慎重な対応をお願いしたいものです。集会などへの参加では、手抜きすることのないように、基本を守って、マスク、手洗い、換気、距離を空けるなど、みんなで臨機応変に頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実にワクチン対策したいものです。 新型コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

春風を感じて初護摩供祈願祭

先の日曜日は新春初護摩供祈願祭が厳修されました。当日は当初、冬の嵐、大雪の予想でしたが予報外れといいますか、季節外れの暖かさとなり、番狂わせのことともなりました。新型コロナ禍ということで、流れ護摩方式に変更となり、13:20開始のところを、正午から13:30までと変更されたものでした。会場の本堂・護摩壇周辺には郵送によって届けられたであろう大量の護摩木・添木がうず高く積まれ、護摩供御祈願を待つばかりでした。この場で御済度いただくとともに今年は「六地蔵尊御百度行場」にお世話になることとなりました。

  

親先生から1月は、「 柔和忍辱 【にゅうわにんにく】 (やわらかい心で周りに接すれば衝突を和らげることができる。) 」といただきました。 

奈良康明 編著 仏教名言辞典には、次のようにあります。【中国・隋・天台智顗(テンダイチギ538~597) 魔訶止観 巻四上】「如来の衣とは、柔和、忍辱の心是なり」『如来衣者、柔和忍辱心是』 《解説》仏教徒は、袈裟を着ける。如来の衣とは、この袈裟のことである。私たちはそれぞれの仕事に適した服を着る。例えば戦国時代の武将は戦には、鎧と兜で身を包む。仏は袈裟を着けた。仏の教団に加入するときは、頭を剃り袈裟を着けることが規則である。渋柿色に染めた大衣を袈裟懸けに着るのである。このような僧形は、柔和な心、忍辱の心の表現にほかならない。柔和とは、感性豊かな柔軟な心である。忍辱とは、屈辱にも堪忍して大願に生きること、辱めにも耐えるという意味である。(…以下、略……。)

  

また、妙法蓮華経法師品第十には、以下のようにあります。(前の部分…略……。)『薬王。若善男子。善女子。如来滅後。欲為四衆。説是法華経者。云河応説。是善男子。善女人。入如来室。着如来衣。坐如来座。爾乃応為四衆。応説斯経。如来室者。一切衆生中。大慈悲心是。如来衣者。柔和忍辱心是。一切法空是。安住是中。然後以不懈怠心。為諸菩薩。及四衆。広説是法華経。』 《訳文》薬王(薬王菩薩)、若し善男子、善女子あって、如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何してか説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入り如来の衣を着、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是なり。如来の衣とは柔和忍辱の心是なり。如来の座とは一切法空是なり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。『薬王。我於余国。遣化人。為其集聴法衆。』《訳文》薬王、我余国に於いて、化人を遣わして其れが為に聴法の衆を集め、『亦遣化。比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。聴其説法。是諸化人。聞法信受。隋順不逆。』《訳文》亦化の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして其の説法を聴かしめん。『若説法者。在空閑処。我時広遣。天龍鬼神。乾闥婆。阿修羅等。聴其説法。』《訳文》若し説法者空間の処に在らば、我時に広く天・龍・鬼神・乾闥婆・阿修羅等を遣わして其の説法を聴かしめん。・・・・・・(中、略)・・・

『若人説此経。応入如来室。著於如来衣。而坐如来座。処衆無畏所。広為分別説。大慈悲為室。柔和忍辱衣。諸法空為座。処此為説法。若説此経時。有人悪口罵。加刀杖瓦石。念仏故応忍。』《訳文》若し此の経を説かば、如来の室に入り、如来の衣を着て、而も如来の座に坐して、衆に処して悪びれる所なく、広く為に分別し説くべし、大慈悲を室とし、柔和忍辱を衣とし、諸法空を座とす、此れに処して為に法を説くべし、若し此の経を説かんとする時、人にあって悪口し罵り、刀杖瓦石を加わうるとも、仏を念ずるが故に忍ぶべし。・・・・・・以下、略・・・・・・

  

私事ですが、松原老師の「道元」、読みつつあります。「法華経には譬え話ばかりで思想がない」と言われるが、それは読み方の違いであると言っておられます。「柔和忍辱」の考え方は、法華経が起源であろうとも、「やわらかく、気持ちからやわらかく、お互いに心掛けましょう。そしてグッと我慢しましょう。言いたいことはお互いさまにあるのですが……。」 せめて「コロナ禍」の間だけでもと…、決心してみませんか。

  

新型コロナは、このところ島根でも連日1000人を超える日が続いており、死者数が多いことも心配なところ、すでに第8派に到っているものと推測されます。市からは、5回目のワクチン案内が届き、すでに5回目を完了したところですが、やはり、ここは、手抜きすることのないように、良く基本を守って、マスク、手洗い、換気、距離を空けるなど、みんなで頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実に対策したいものです。コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

一年間感謝清掃の日

ブログを書かせていただいて以来初めてのことですが、家族の体調のこともあって、親先生拝領の写真のみで思いを綴ってみることにしました。当日は、穏やかな日差しに冬のぬくもりを感じさせてくれたとのこと…。お山はすでに冬の色合いで、落ち葉は多く、お接待の「焼き芋」は直ぐに美味しく焼きあがったそうです。この頃、住まいのある島根西部では、すでに冬の雨となっておりました由、みな様の日頃のご努力に感謝申し上げるところです。この一年にも改めましてありがたくお礼申し上げたいと存じます。

  

親先生から12月は、「 命 【いのち】 (どんなものにも命があると感じられたら、それはきっとあなたが素敵なひとだから) 」といただきました。 親先生のこの一年のご法話に感謝申し上げます。

岩波仏教辞典(中村元先生他共著)では、「命」として次のようにあります。人生を苦なるものとしてとらえ、それからの脱却を目的とする仏教では、特にその初期においては、『命』ということが純粋の自然現象として取り上げられることはほとんどなかった。しかし、限られた『命』有限な人生との自覚から、それをバネとして永遠なるものに触れ、それに帰一し同化することを目指すのが宗教であるのなら、初期の仏教でもそれは説かれていたし、むしろ積極的に求むべきだとされていたといえる。煩悩の火が吹き消された状態を表す涅槃(ねはん)がそれである。涅槃は、永遠なるものへの帰一・同化によって到達しうる絶対的平安の境地を表すと解され、初期の仏教においては現証されるべきものであったが、考察が深まるにつれて、次第に抽象的・彼岸的なものへと変質して行った。

これに対して、大乗仏教では、むしろ積極的に命、無限の命ということが主張されるようになる、無量寿経で、《無量寿》(Amitayus)仏が説かれ、また法華経でいわゆる久遠実成(くおんじつじょう)の仏が述べられているのはその一例である。仏に対する考察が進むにつれて、法界(ほうかい)や法身(ほうしん)・真如(しんにょ)など超時間的な観念も現れるようになった。 無限の命ということも、それが仏についていわれている間は超越的であるが、大乗仏教も中期以降になると、輪廻転生(りんねてんしょう)するわれわれ凡夫の中にも成仏の因子たるべきものが存在し、しかもそれは生死輪廻(しょうじりんね)によってもいささかも変じることなく永遠に不変であるという。・・・以下、略・・・。

  

そして道元禅師による『正法眼蔵・生死の巻』(全訳注:増谷文雄)には、【原文】「生死の中に仏あれば生死なし」、又云く、「生死の中に仏なければ生死にまどはず」、こころは、夾山(かつさん)・定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。

もし人、生死のほかに仏をもとむれば、ながえをきたにして越(えつ)にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱(げだつ)のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。

生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらいにて、すでにさきあり、のちあり。故(かるがゆえに)、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらいにて、又さきあり。のちあり。これによりて、滅すなはち不滅という。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。

この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著(じゃく)すれば、これも仏のいのちをうしなふ也。仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏の心にいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばをもっていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あわれみふかくして、上をうやまい下をあわれみ、よろづをいとふこころなく、ねがう心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。

  

【現代語訳】

《夾山(かつさん)・定山(じょうさん)のことば》

いわく、「生死のなかに仏があれば、生死はない」、またいわく、「生死のなかに仏がなければ、生死にまようこともない」、これらは夾山・定山といわれた二人の禅師のことばである。仏道を悟り得た人たちのことばであるから、きっと徒(いたずら)にいったものではなかろう。生死をはなれたいと思う人々は、まさしくその意味するところを明らかにしるがよい。

《生死のほかに仏なし》

もし人が、生死のほかに仏をもとめたならば、それはあたかも、車の轅(ながえ)を北にむけて南の方越に赴かんとするようなものであり、あるいは、面(かお)を南にむけて北斗星をするようなものである。いよいよ生死の因をかきあつめて、ますます解脱の道を見失うばかりである。そこはただ、生死はとりもなおさず涅槃(ねはん)であると心得れば、それでもはや生死だからとて厭うべきものもなく、涅槃だからとて願うべきものもなくなる。その時はじめて生死をはなれる者となるのである。

《生と死について》

そもそも、生と死のありようは、生から死に移るのだと思うのは、まったくの誤りである。生と死はそれがすでに一時(ひととき)のありようであって、そこにもちゃんと初めがあり、また終わりがある。だからして、仏法においては、生はすなわち不生(ふしょう)であるという。滅もまた、それがすでに一時のありようであって、そこにもまた初めがあり、終わりがある。だからして、滅はすなわち不滅であるという。つまり、生という時には、生よりほかにはなんにもないのであり、滅というときには、滅よりほかにはなにもないのである。だからして、生がきたならば、それはただの生のみであり、滅がくれば、それはもう滅のみであって、ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである。厭うこともなく、また願うこともないがよろしい。

《生死は仏の御いのち》

この生死はとりもなおさず仏の御いのちである。これを厭い捨てようとするならば、それはとりもなおさず仏の御いのちを失うこととなるであろう。だからとて、そこに止まって生死に執着(しゅうちゃく)すれば、それもまた仏の御いのちを失うこととなる。仏のありようにこだわっているからである。厭うこともなく、慕うこともないようになって、その時はじめて仏の心に入ることができるのである。だが、その境地は、ただ心をもって量ってみたり、あるいはことばをもっていってみたのでは入ることはできない。ただ、わが身もわが心もすっかり忘れはなち、すべてを仏の家に投げいれてしまって、仏の方からはたらきかけていただいて、それにそのまま随ってゆく、その時はじめて、力もいれず、心をもついやすことなくして、いつしか生死をはなれ、仏と成っているのである。思うに、仏となるには、ごくたやすい道がある。それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと。そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとを厭う心もなく、またねがう心もなく、つまり、心に思うこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。そしてそのほかに仏をもとめてはならない。

  

新型コロナは、このところ島根でも連日1000人を超える日が続いており、第8派に到っているものと推測されます。市からは、5回目のワクチン案内が届き、すでに5回目を完了したところですが、やはり、手抜きすることのないように、良く基本を守って、マスく、手洗い、換気、距離を空けるなど、みんなで頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実に対策したいものです。コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

あっという間の霜月

最近は誠に多忙、特に新型コロナ禍以来そんなふうに感じてしまいます。「オンライン」で確認…とか、仕事は「テレワーク」で…とか、ライフワークバランスがどうとか、忙しなく「横文字」が飛び交っています。一休さま、一茶師の時代が懐かしくなります。そんなことで境内のお山も秋の気配の素早いことに驚くことでした。黄色く色づいた銀杏の大木に、しばらくは息を飲んで見上げておりました。さすがに花たちの時は終わり、実生の季節へと移りつつあります。また、先のお参りの折の吊し柿があめ色に染まりもうひと冷えの到来を待っていました。異常気象の時代には警戒を要することに違いなく、来月始めには、寒波が待ち構えているとか、寒さ対策にも万全でありたいものです。

  

親先生から11月は、「只管打座【しかんたざ】 (無心になって一つのことに打ち込めば、自然と道はひらける) 」といただきました。 

岩波仏教辞典(中村元先生他共著)には、次のようにあります。(祇管打坐とも書く)、『只管』は宋代以降の口語で、『ひたすらに』の意、ただひたすら坐禅すること、全身心をあげて坐り抜くこと以外に仏法の体得はない、打坐即仏法という道元禅の特質を現した語、とある。・・・中略。・・・「参禅とは身心脱落なり、祇管打坐にして始めて得」とある。(『正法眼蔵(三昧王三昧)』

その『正法眼蔵・三昧王三昧』(寛元二年(1244年)越前吉田県吉峰寺にて示衆された)には、以下のようにあります。 ・・・一部略・・・。【原文】先師古仏(こぶつ)云く、「参禅者(は)、心身(しんしん)脱落(だつらく)也、祇管打坐(しかんたざ)して、始めて得(え)ん。不要、焼香(しょうこう)、礼拝(らいはい)、念仏、修懺(しゅさん)、看経(かんきん)を」あきらかに仏祖の眼睛(がんぜい)を快出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師のひとりなり、震旦国(しんたんこく)に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれるいまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任(ほうにん)するあらんや。しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落(しんじんだつらく)の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。既得恁麼(きとくいんも)ならん、仏祖の行解相応なり。この念想観を保任すべし、この心意識を参究すべし。・・・一部略・・・

  

【現代語訳】《如浄古仏のことば》 先師なる如浄古仏は仰せられた。「参禅とは、心身(しんじん)脱落(だつらく)である。ただひたすらに打坐(たざ)して、はじめて得ることができるのであって、焼香(しょうこう)も、礼拝(らいはい)も、念仏も、修懺(しゅさん)も、看経(かんきん)もいらない。」 思うに、仏祖の眼睛(がんぜい)を抉(えぐ)り出してきて、その眼睛のなかにぴたりと打坐しているというような人物は、この四、五百年このかた、ただこの先師なる如浄古仏のみである。だから、この中国にも、この先師と肩をならべるような人物はまことにすくない。打坐することが仏法であること、仏法とは打座することであることを、はっきりと知っているものはまことにすくない。たとい、打坐これ仏法なることを体験で知っていても、なお、打坐とはどういうことであるかを知っているものはない。ましてや、仏法とはどういうものであるかをよく把握しているものがあろうか。ということであるから、心の打坐ということがあるが、それは身の打坐とおなじではないし、また、身の打坐ということもあるが、それは心の打坐とおなじではない。さらいえば、身心脱落の打坐ということがあるが、それをそうだと思えば、それはもう身心脱落の打坐ではではなくなってしまう。ただよくそこまで至ったとき、その時、仏祖としての行と解とがぴたりと一枚になるというものである。では、その心境をよくよく把握するがよく、また、その考え方をよくよく思いめぐらしてみるがよい。・・・一部略・・・

  

宗祖お上人さまは、「苗木の手入れは子供の教育と同じこと。よく手入れをして育てた木は、家を建てる材木にも、人を渡す船にもなる」と、諭しておられます。 仏性とは、一切衆生が生まれながらに持つとされている仏になれる性質のことで自性清浄心ともいわれるそうです。しかし、妄想、煩悩によって、あたかも月が雲に隠れるように、仏性が雲らされているのが私たち凡夫の姿です。仏性を育て上げ、開顕する、すなわち、「胸を開く」ためには、ご成就をいただき、仏さまとの現当二世のご縁結びを授けていただき、『おさづけ』に基づいて正しい身語正道を歩むことが大切、とあります。(宗祖覚恵上人語録「心のともしび」より)

  

新型コロナは、私共の島根でも、この2日間、連日800人を超える新規発症者が確認されていて、第8波のピークとも疑われていると聞きます。経済支援に舵を切った公共の支援には希望がなくなりつつあります。新型コロナ対策は、基本を守り、ワクチン接種をインフルエンザも含めて実施するなど確実に対策したいものです。コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

御花替え行に感謝しつつお参り

今月は、今まで思い巡らすことなど全く無かった女房殿の入院(ちょっとした手術)という大イベントがあり、ドタバタの連続で、あっという間に、月末となっていました。 境内のお山は、僅か1カ月で秋らしくなり、空は高く澄みわたり、山肌の赤く染まりつつあるを見て、思わず微笑んでしまうことでした。今日は御行花替えの日で、お同行様にはありがたく心より感謝申し上げます。さらに、サルたちの置き土産の柿の実を吊るし柿にされたとか、信徒会館にも秋が溢れていました。

  

親先生から10月は、「行雲流水 (雲や水のように、そのとき、その場を無心に生きる) 」といただきました。 岩波仏教辞典(中村元先生他共著)には、『行雲流水』として、『【宋史】蘇軾伝に「文を作るは行雲流水の如く、初めより定質無し」とあり、行く雲や流れる水のような大自然のおのずからなる無心無作の働きをいうと…。転じて、一処に滞ることなく自由無礙なる達道の人、およびその境涯を指していうと…。また、略して『雲水』ともいい、一処不住に諸方に師を求めて参学行脚する修行僧とその心境を指すとあります。

  

故松原泰道師の著・『道元』には、曹洞宗の沢木興道師(~1965年)について紹介があり、一年のうち三百日は旅に過ごし、生涯寺を持たず、「宿なし興道」、「乞食興道」と呼ばれていたと…。17歳で志して出家し永平寺に入り、雑務に使われつつも雲水の坐禅する姿に深く感動し、「門前の小僧、習わぬ経を読む」そのままに見よう見まねで坐禅を組み、たまたまそこへ、いつも興道(幼少の名は才吉)をアゴで使っている婆さんが入ってきたのですが、この時ばかりはびっくりして、そこにつくばい、坐禅している才吉少年に手をあわせて「ほとけさまを拝むようにていねいに」拝んだと…。 道元は、それを『坐仏』というと…。『坐仏』とは、坐禅のすがたがそのまま仏であるということ…。道元禅師は「まことにしるべし、初心の坐禅は最初の坐禅なり。最初の坐禅は最初の坐仏なり」と…。

  

そしてもうひとつ、中村元先生の「新仏教語源散策」には、『行雲流水』として、行乞流転(ぎょうこるてん)の生涯と言われた種田山頭火の句を紹介しておられます。

 ・分け入っても 分け入っても 青い山   ・ぬいても ぬいても 草の執着をぬく

一介の乞食僧となって諸国を行脚する毎日は、生やさしい日々ではなかった。夏の炎天下にも、冬の雪降りしきるなかでも、歩を進めなければならなかった。

 ・炎天を いただいて 乞い歩く   ・生死の中の 雪ふりしきる

 ・どうしようもないわたしが 歩いている   ・しぐるるや 死なないでいる

大正14年、44歳のとき、曹洞宗に出家して、永平寺に詣でた。そのときの句…。

 ・水音の たえずして 御仏とあり   ・てふてふ ひらひら いらかをこえた

 ・法堂(はつとう)あけはなつ 明けはなれている

『行雲流水』は、移り変わる四季のように、定めなく移り変わって止まらないことをたとえて言っていると…。

  

新型コロナは、第7派が終息に向かいつつある模様ですが、海外からの受け入れを始め、経済に舵を切ったわけで、これからの冬季のインフルエンザと共に行わねばならない難しい舵取りを如何にさばくことが出来るかに掛かっていると思っています。まずはみんなで、良く基本を守って、周囲の人たちと共に頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共に新型コロナも確実に対策したいもの、コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

 

 

彼岸すぎて秋の気配

明日はご恩日法要という午後、不都合があると分かり、又しても急なお参りとなってしまいました。異常気象であっても、境内のお山のケヤキなどはすでに色づき始め、過ぎ去った夏の蒸し暑さを、爽やかに変えてくれています。定番の彼岸花、ピンク色の山紫陽花、ジンジャー、百日紅など、最後の力を振り絞っているように感じたものです。

  

親先生から9月は、「自浄其意 (自らその意を浄くする) 」といただきました。 七仏通戒偈として『岩波仏教辞典(中村元先生他共著)』にあり、過去七仏が共通して保ったと言われる偈で、仏教思想を一偈に要約したものとみなされていると…。 漢訳で「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」【法句経183】というと…。 

  道元禅師による『正法眼蔵(増谷文雄氏・全訳注)』には、唐代・杭州の刺史・白居易と、杭州の鳥窠といわれた道林禅師との問答が述べられています。 道元禅師のそれは、宇治県の興聖宝林寺にて、延応二年(1240年) 八月十五日・中秋の名月の夕に示されたものとあり、 (原文)『古仏云(こぶついわく)、諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)。 これ七仏祖宗の通戒として、前仏より後仏に正伝(しょうでん)す、後仏は前仏に相嗣(そうし)せり』と・・・中略。  (現代語訳)『古仏いわく、もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を奉行して、みずからその意を浄(きよ)む、これもろもろの仏の教えなりと…。これは七仏に通ずる教誡(きょうかい)として、前仏より後仏へと正伝し、後仏は前仏より相嗣ぎていたものである』と・・・中略。

  

親先生には先の平成7年(1996年)、親仏さまより、信徒会館、庫裡建設にあたり、不動明王をいただいて「自浄其意」をお授けいただいたと…。もとより、これら建設は、宗教法人たる当山としての範疇にあったものでしたが、親仏さまの「自浄其意」は「甘えることなく自らを浄くせよ、これぞ衆生済度の道と心得よ」とのお導きをいただき、宗教法人としてあるべき土地(境内を含む)と庫裡を切り離し、自宅としての手続きを一般信徒と同様に行われたと…。その結果は、庫裡への課税、高金利の住宅ローンの返済が待ち受けていたと…。しかしながら、親先生には、返済のお行(務め)として「自浄其意」に思いを致しつつ信徒同行して寄り添うことが叶ったとのこと…。特別の思い出のあるお言葉として優しく聞こえてきます。

  

白居易と道林禅師との問答は、あまり仏教に詳しくない居易に「如何なるものか、仏法の大意?」と問われて、道林禅師いわく「諸悪莫作・修繕奉行・自浄其意、是諸仏教」と答えたと…。居易のいわく「そんなことなら三歳の童子にだって言えよう」と…。道林禅師の返していわく「たとえ三歳の童子に言い得ようとも、八十の翁でも行じられまい」と…。 善いことをするための努力は、無駄にはならないものと…。

  

新型コロナは、ついに全体数の掌握を諦めることになりました。つい、忙しさにかまけて、手抜きすることのないように、良く基本を守って、コロナ禍対策を皆さまと共に頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実に対策したいものです。そしてコロナ禍の根絶を皆さまと共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

 

 

秋風爽やかにご恩日法要

先の日曜日は、お不動様ご縁にて、ご恩日法要でした。ただ、前日あたりから秋の気配が満ち溢れ、お山(境内)は吹き渡る風で涼やかになり、ホッと、案度の声がきこえそうでありました。日当はといえば、勿論、残暑といいますか猛暑で、暑いことですが、日陰の爽快なことに驚きの声を漏らすことでした、お山の深緑はまだまだ深く、百日紅やムクゲなど夏の花も相変わらず咲き競っています。 そして、親先生から8月は、「同事(どうじ)《相手の立場に立つということ》」と、いただきました。道元禅師による『正法眼蔵』の『菩提薩埵四摂法』として『布施』、『愛語』、『利行』、『同事』が簡潔美を節々とまとめ上げていると感じるものでした。

  

《原文》一者(は)、布施。二者(は)、愛語。三者(は)、利行。四者(は)、同事。 その布施というは、不貪(ふとん)なり。不貪というは、むさぼらざるなり。むさぼらざるというは、よのなかにいうへつらはざるなり。・・・中略・・・。 《現代語訳》ひとつには、布施。ふたつには、愛語。みっつには、利行。よっつには、同事。その布施というのは、不貪、すなわちむさぼらざることである。むさぼらないというのは、世の中にいう諂(へつら)いのこころなきことである。・・・中略・・・。

《原文》愛語(あいご)というは、衆生をみるにまず慈愛(じあい)の心をおこし、顧愛(こあい)言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。・・・中略・・・。 《現代語訳》愛語というのは、衆生をみていつくしみ愛する心をおこし、心にかけて愛のことばを語ることである。およそ荒々しいことばはつつしむことである。・・・中略・・・。

《原文》利行(りぎょう)というは、貴賤の衆生(しゅじょう)におきて、利益(りやく)の善巧めぐらすなり。たとえば、遠近の前途をまぼりて、利他の方便をいとなむ。・・・中略・・・ 《現代語訳》利行というのは、貴きと賤しきをえらばず、人々のために利益となるように手立てをめぐらすことである。

《原文》同事(どうじ)というは、不違(ふい)なり。自にも不違なり。他にも不違なり。たとえば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。人界(にんかい)に同ずるをもてしりぬ。同余界なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。・・・中略・・・。 《現代語訳》同事というのは、違(たが)わざることである。自己にもそむかず、他者にもたがわず、たとえば、人間界にあらわれた如来は、人間界の住みびとにまったく同じたもうたごとくである。人間界にあれば人間界に同じたもうたのであるから、如来はまた余(ほか)の世界にあれば、その世界に同じたまうであろうと知られる。つまり、同事ということを知るとき、自も他もまったく一如なのである。・・・中略・・・。

  

宗祖お上人様の語録『心のともしび』にも「自他一如」の御教えがあります。お上人様には、「自分と他人との間に何のへだてがありましょうか」と、教えくださっています。日頃、言葉を用いて生活している私たちには、すべて物事を分けて考える習慣がついてしまっていると…。 しかし、分別することは、時に執着や偏見を生み、煩悩のもとにもなると…。 自分と他人の区別のように、分別の世界を超えた、つながりの世界から物事をとらえる智慧のことを「無分別智(般若)」というと…。 この無分別智を身につけることが、般若波羅蜜の実践であり、仏様のような心に近づいていく菩薩の修行であるとお教えいただいております。

  

新型コロナ感染症は、第7波が蔓延しつつあり、近所でもクラスターの発生が聞こえてくるようになりつつあります。どうか、無理をせず、基本の対策を徹底していただきたいと願っております。来年こそは、インフルエンザ程度の暮らしができるように強く祈願したいものです。

( 合掌 )

(管理人)