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当山管理人のブログです。

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遅くなりました…9月

溜りに溜ったアレコレを処理することが目的のようにお参りさせていただきました。暖かい秋とは言え、御山はすっかり秋の気配に包まれていて、季節の移ろいが心地よくまるで春めいているかのように心躍る高ぶりを感じていました。

親先生から9月は、「摂取不捨(せっしゅふしゃ): 仏がこの世の衆生、生きているものすべてを見捨てず、仏の世界へ救いあげる」と、いただきました。

「摂取不捨」は、「御宝前の行」として、作法にも定められ、それぞれに毎度の勤めにて熟知されていると思われることですが、その出典など再研してみたいと思うものです。 仏説観無量寿経には、次のようにあります。

  

…前略…

佛告阿難。及韋提希。此想成巳。次當更観。無量寿佛。身相光明。

【佛は、アナン及びイダイケに告げられた。この想成(そうじょう)して已(お)れば、つぎにまさに無量寿佛の身相光明(しんそうこうみょう)を観すべし。】

阿難當知。無量寿佛身。如百千萬億。夜摩天。閻浮檀金色。

【アナンまさに知るべし。無量寿佛の身は、百千万億の夜摩天(やまてん)。閻浮檀(えんぷだん)金色(こんじき)の如し。】

佛身高。六十萬億。那由他。恒河沙由旬。

【ぶっしんの高さは、六十万憶なゆたこうがしゃゆじゅんなり。】

眉間白毫。右旋婉轉。如五須彌山。

【みけんのびゃくごうは、みぎにめぐり、えんてんしている。ごしゅみせんの如し。】

佛眼如四大海水。青白分明。身諸毛孔。演出光明。如須彌山。

【佛眼は、しだいかいすいのごとく、青白ぶんみょうなり。みのもろもろの毛孔より、光明をえんしゅつする、しゅみせんの如し。】

彼佛円光。如百億。三千大千世界。於円光中。有百萬億。那由他。恒河沙化佛。

【彼の佛の円光は、百億の三千大千世界の如し。円光の中に於いて、百万億那由多恒河沙の化佛あり。】

  

 

一一化佛。亦有衆多。無數化菩薩。以為侍者。無量寿佛。一一相。有八萬四千相。隋形好。

【いちいちの化佛、また衆多あり。無數の化菩薩(けぼさつ)あり。もって侍者とする。無量寿佛に八萬四千の相あり。いちいちの相におのおの八万四千の隋形好(ずいぎょうこう)あり。】

以為侍者。無量寿佛。有八萬四千相。一一相。各有八萬四千。隋形好。

【もって侍者とする。無量寿佛に、八万四千の相あり。いちいちの相におのおの八萬四千の隋形好(すいぎょうこう)あり。】

一一好。復有八萬四千光明。徧照十方世界。念佛衆生。攝取不捨。

【いちいちのこうに復(また)八萬四千の光明あり。いちいちの光明、遍く(あまねく)十方世界を照らし、念佛のしゅじょうをば、せっしゅして、捨てたまわず。】

其光明相好。及與化佛。不可其説。但當憶想。令心眼見。

【その光明相好、及び化佛、具(つぶさ)に説(と)くべからず。ただまさに憶想して心眼をして見せしむべし。】

見此事者。即見十方。一切諸佛。以見諸佛故。名念佛三昧。

【此のことを見るものは、即(すなわ)ち十方一切の諸佛を見る。諸佛を見るをもっての故に、念佛三昧と名づく。】

作是観者。名観一切佛身。以観佛身故。亦見佛心。佛心者。大慈悲是。以無縁慈。攝諸衆生。

【この観を作(な)すをば、一切佛身を観ずと名ずく。佛身を観ずるをもっての故に、また佛心を見る。佛心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を攝(せっ)す。】

作此観者。捨身他世。生諸佛前。得無生認。是故智者。應當繋心。諦観無量寿佛。

【此の観を作(な)す者は、身を捨て他世に諸佛の前に生じ、無生忍を得ん。是の故に智者當に繋心して無量寿佛を諦観すべし。】

  

観無量寿佛者。従一相好入。但観眉間白毫。極令明了。

【無量寿佛を観する者は、ひとつの相好より入り、ただし眉間から白毫を観して極めて明了ならしめること。】

見眉間白毫者。八萬四千相好。自然當現。見無量寿佛者。

【みけんの白毫を見たもの、八万四千の相好、自然に當に現すべし。無量寿佛者を見る。】

即見十方。無量諸佛。得見無量諸佛故。諸佛現前授記。是為徧観。

【すなわち十方無量の諸佛を見る、諸佛現前に授記し、是を編観と為す。】

一切色身想。名第九観。作此観者。名為正観。若他観者。名為邪観。

【また一切色身想とし、第9観となづく。此の観をなす者は名づけて正観とし、若し他観するときは邪観と名づける。】

・・・後略・・・  

  

   近所の駆けつけお医者様によりますと、新型コロナ感染症は、グーッと減少している模様です。それに比べて、インフルエンザの大流行が始まりつつあるとのこと…。先に、インフルエンザの予防接種、余力があれば、コロナ対策とした方がよさそうです。

 もうひとつの懸念、それは、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。そして再びパレスチナ(ハマス)とイスラエル、次期世界大戦の様相が見え隠れして…不気味…。

(合掌)

(管理人)

 

 

遅くなりました…8月ブログ

今日は久しぶりのお参りで、体調が完全ではないものの心が逸ることの嬉しさで満ちているように感じられています。9月も半ばとなると酷暑の夏も落ち着きを取り戻し、比較的過ごしやすくなりつつあります。何時ものことですが、こころ和みます。難病を戴いてからおよそ10年、昨年末より徐々に不調個所の増加が気になることでしたが、リハビリの努力が良いはたらきをしてくれています。そして皆様のご支援が元気のみなもとであり、心より感謝し、有難くお礼申し上げるものです。 

ところで通所携行品の五木寛之氏の「百歳人生を生きるヒント」には、以下のようにありました。一つには、世界で初めての「核のゴミの最終処分」について、既に世界に先駆けて着手していること。二つには、「超高齢者社会の先駆け」として、既に世界の先頭にあるということ…。高齢者として健全に生きるための社会システムや思想や哲学を、どう築き上げて行けるかということ…。 世界から期待される国として50歳過ぎたらボーッしてはいられない…、「Japan as No.1」と言われた時代を彷彿とさせたいもの…。時代は、温暖化、水素社会、生成AIなど課題山積、一方では、70代「黄金期」学びの楽しさに目覚める時代」、80代「自分ファースト」嫌われる勇気を持つ時代」、90代「妄想のとき」郷愁世界に遊ぶ時代」であると…。戦後生まれの70歳代として、これからを頑張ろうと、思うところ…。

  

親先生から8月は、「同事《どうじ》 (自他の隔たりをなくし、つながりの中で生きること。) 」と、いただきました。

道元禅師の「正法眼蔵」・「菩提薩埵四摂法」に――以下のようにあります。

【原文】同事というは、不違(ふい)なり。自(じ)にも不違なり。他(た)にも不違なり。まず、このようにあります。

【解釈】同事(人・事物に同和す)の行というのはどのようなものに対しても平等の心で接し、特別なものを作らないということである。それは自分においても他人においてもことさらなる扱いをしないことである。

【解説】これは菩薩の大事な行として説かれる同事行について示した一節である。平等という言葉は、別に平凡と言い換えてもよい。平凡ほど私たちにとって大事な生き方は無い。但しそれは自己への厳しさや、努力・向上心に倦いた日和見(ひよりみ)的な現状維持の意味ではない。宗教はつねにこの平凡の一事の肝要さを教え、先人たちもまたそれを説き、みずからの生活を律し、「愚の如く、魯の如し」(中国唐代の禅者、洞山の語)という生き方に徹した。日本の大愚良寛もまたこの例に属する。日常の人生において、私たちは往々にしてみずからを特別扱いにすることを欲し、他にもそのことを要求してはばからない。

  

「特別」は、往々にして優越感を生み、それは権威主義を助長する。逆にまたそれは劣等感や悲劇の主人公を気取る別の意味での権威主義を生み、世を拗(すね)るものとなる。利己心に発するものであるがゆえに、利己心に発する「特別」は宗教にとっても、また私たちの人生においても警戒すべきものはないと言っていい。私たちは、それぞれがつねに抜群であろうことを欲して汲々(きゅうきゅう)たる人生の日送りをなしている。それは努力精進に見えて、実は名利に馳走しているだけの場合が多い。その証拠には、互いに支え合いの中で生き、生活していながら、そのことについては全く無自覚で、周囲への思いやりもなく、己のみの欲求の充足に突っ走っている現実がそれを物語っている。これも自他への深い洞察を欠いた一種の暴走族と言っていい。

  

平凡であれということは、怠情の勧めではない。己ぐるみの万人・万法(一切存在)を貫く共通普遍のいのちの事実に視点を置いた生き方の勧めである。このとき、努力・精進の意味が、前とまったく違った意味を持ち、行動となって現れてくる。脚下を照顧する歩みと、脚下を顧みずに天上ばかりに気を取られての歩みとの違いである。己のみの特別席を求めるエリート意識ほど鼻持ちならぬものはない。互いに席を譲り合いながら人生を旅し、しかもそのようなあい和同する歩みの中で、おのおのの分を尽くし、それぞれのかけがえのないいのちのひと時ひと時を琢磨しながら生きてゆく、そういう大らかな、ゆったりとした生き方を生きるべく努力したいものである。古人(前出・洞山)は、このような大らかにして自由無礙「主中の主」と並告げていると…。

  

近所の駆けつけお医者様によりますと、新型コロナ感染症は、グーッと減少している模様です。それに比べて、インフルエンザの大流行が始まりつつあるとのこと…。先に、インフルエンザの予防接種、余力があれば、コロナ対策とした方がよさそうです。

もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。そして再びパレスチナ(ハマス)とイスラエル、次期世界大戦の様相が見え隠れして…不気味…。

(合掌)

(管理人)

遅くなりました…7月ブログ

このところ体調の良い日もあり、半年遅れではありますが、ブログを書いてみました。7月9日(日曜日)は、御行清掃の日でしたが、家内も私も体調が悪く、お休みさせていただいておりました。境内の御山では、山水が川のように流れ下る様子がはっきりと見て取れ、この頃には「記録的短時間大雨情報」も出されていたものと思われます。大雨の中、お同行様には大変ありがとうございました。衷心より、感謝申し上げるより見当たりません。なお、今月は最終日曜日に厳修されました盂蘭盆施餓鬼法要につきましても、写真をアップしてみました。見苦しくもなっているように感じつつ、お許しを願って掲載させて戴いております。

  

親先生から7月は、「無常《むじょう》 (この世にあるすべてのものは、つねに移ろいて、一時もとどまることはない。) 」と、いただきました。

お釈迦の生きておられた紀元前2千数百年のインドでは、文字文化がなかったとのこと。その中で多くの記述が伝承され、中でも中村元先生による「感與のことば」の、「第一章、無常」には、42項に亘って整理されています。以下その一部を記します。

  

(感與のことば・抜粋)

さあ聞け――すべてを知りきわめた人・救い主・慈悲ぶかい人・最後の身体をたもつ人である仙人、尊師は次のように説かれた――  (途中、省略有り) 。

諸(もろもろ)のつくられた事物は実に無常である。 生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。 

何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか?―― (世間は)このように燃え立っているのに。 汝らは暗黒に陥っていて、燈明を求めようとしない。 

朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが朝(あした)には或る人々のすがたが見られない。 

老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。――熟した果実が枝から落ちて行くように。 

熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生まれた人はいつでも死ぬおそれがある。 

山から発する川(の水)が流れ去って遷らないように、人間の寿命も過ぎ去って還らない。 

眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者にとっては生死の道のりは長い。

  

男も女も幾百万人と数多くいるが財産を貯えたあげくには、死の力に屈服する。 

いくら財産を貯えても最後には尽きてなくなってしまう。高い地位身分も終には落ちてしまう。結びついたものは終には離れてしまう。 

生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業(ごう)の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。 

悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう。

大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。 

  

この世においては、過去にいた者どもでも、未来にあらわれる者どもでも、一切の生き者は身体を捨てて逝くであろう。智ある人は、一切を捨て去ることを知って、真理に安住して、清らかな行ないをなすべきである。 

この容色は衰えはてて、病の巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまうであろう。生命は終(つい)に死に帰着する。 

「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏にはここに住もう」と、愚者はこのようにくよくよと慮(おもんばか)って、死が迫って来るのに気がつかない。 

「わたしはこれをなしとげた。これをしたならばこれをしなければならないであろう。」というふうに、あくせくしている人々を、老いと死とが粉砕する。 

それ故に、修行僧らは、つねに瞑想を楽しみ、心を安定統一して、つとめはげみ、生と老い究極を見きわめ、悪魔とその軍勢に打ち克って、生死の彼岸に達する者となれ。

(以上、感與のことば)

  

新型コロナ感染症が、格下げになってから、カウント数は、減少している模様…。しかし、油断は禁物!守りがおろそかにならぬようお互いに気を付けたいものです。この冬は、インフルエンザも大流行の兆(山陰は要注意であると…)

 そしてまた、もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。プーチン氏も苦しいのだと思います。そしてイスラエルはハマスの攻撃を受け、世界大戦の様相が益々濃くなっている。防空壕を準備する時も近いのではなないかと…。皆で名案を考えたいですね。

(合掌)

(管理人)

 

梅雨の中休み?

ブログのアップをどうしたものかと思案しているとき、女房殿には、明日(7月初日)お参りさせていただきましょう…と、即決。梅雨はと言えば、九州、山口辺りで大雨の模様なれど、山陰地方は其の梅雨も中休みの模様です。旧本堂辺りでは、サルの群れがはしゃいでいます。梅、ビワか何かの果実を楽しんでいるように見えます。そして今日は、「御行花替えの日」でもあり、お同行様には、感謝申し上げます。国道あたりには蒸し暑さが籠っていますが(いつも思うことですが)、本堂や信徒会館は、風の通りが違っていて、蒸し暑いとき《涼しい》ことで、みんなで、生きいきしています。花たちは、いま、紫陽花(アジサイ)、ジンジャー、木槿(ムクゲ)など長く楽しめるものが、雑草を押し分けて元気にしていました。

 

親先生から6月は、「慈悲《じひ》 (美点や欠点にこだわらない愛情) 」と、いただきました。 【慈悲】は2021年6月、「中村元先生の新仏教語源散策」を取上げさせて戴いております由、今回は「仏教名言辞典・奈良康明編著」から引用させて戴くことにしました。

【慈悲・その1: 「弘法大師 空海(平安・774~853)の言葉;続性霊集・巻第四】より「苦を見て悲(ひ)を起(おこ)すは観音(かんのん)の用心(ようじん)、危(あやう)きを視(み)て、身を忘るるは、仁人(じんじん)の務(つと)むる所(ところ)なり。」】

【現代訳: 人の苦しみを見て慈悲の心を起こすのは観音の願いであり、他人の危ういのを見て、自身の身の危ういのも忘れて人を救うのは、慈しみ深い人の務めとするところである。】

【慈悲・その2:慧能(638-713)撰 『六祖大師宝法壇経』に、「諸水衆流は却って大海に入るも、海は衆水を納れて合して一体と為す。】とあり。

【現代訳:もろもろの川の流れは最後には海洋に入りこむが、海の方は多くの川の水を受け入れて、合わせて一つの海水としてしまう。】仏教の経典の中で最も知られているものは……、と聞かれたら、多くの人は、般若心経とこたえるであろう。特に薬師寺の管長・故・高田好胤(こういん)師は、「かたよらない心」、「こだわらない心」、「とらわれない心」、「ひろく、広く、もっと広く、これが般若心経の空の心なり」と、般若心経は、空の心を説き示したお経であり、大海の衆水を納れて一体とする素晴らしい働きは、何に例えたかと言えば、【六祖壇経はこの言葉に続いて、『六祖壇経』は、この言葉に【衆生の本性般若の智もまた是(かく)の如し】と、説いていると…。私たち人間は、このような般若の智慧を生まれながらにして持っている、というのが仏教の人間観である。「衆生の本性般若の智」という表現がそのことをはっきりと示している。生まれながらにしてもっている般若の智慧に目覚めたのが、釈尊の悟りであり、釈尊は、弟子たちにもこの般若の智慧に目覚めることを説かれた。目覚めてみれば衆生も仏なのである。

 

【慈悲 その3:宗祖お上人様の語録には、お上人様がおっしゃっておられますように、「いただくまいと思っても、授かるまいと思っても、「ありがとうございます、もったいのうございます」と、その気持ちがあったならば、必ず授けられる、いただくまいと思っても、いただかずにはおられない。 そして、授かるまいと思っても、授からずにはおられなくなるそうであります。自分の位置を見極めて、その位置で自分自身が助けられて、救われて、生きているということに、感謝の念を持つことが一番大事であると…。】

今日のことは、まず諸先達さまより様々にお伺いし、または目を通させていただく、その一つ一つがありがたく、感謝申し上げるものです…。

 

新型コロナ感染症が、格下げになってから、始めての中央での専門家会合が開かれたと聞いておりますものの夏には一つのピークが現れるとの予測が報じられており、油断はならぬと思うものです。 隣の中国でも、一部地域で流行の気配があると聞きます。 やはり、油断は禁物と思っていて、注意を忘れ去ってはいけないと心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)