花粉にまみれてお参り

全身で暖冬を実感する日曜日でした。季節はスギ花粉の真っ最中で、本堂濡れ縁は黄色く染まっており、既に発症している身としては思わず身震いすることでした。 一方では、梅は満開、沈丁花、椿、馬酔木などが開花して早春を告げていました。そして、驚いたことに桜まで咲き始めていて・・・。

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今日のお参りは、親先生よりいただいた先日の立教柴燈護摩祈願祭での施茶薬師如来様と「峰梅釜」の間の高札〝茶のこころ〟についてのお話しでした。その高札の内容です。(注釈は管理人の知識の範囲内での追記です。)

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「茶のこころ」

〝葉隠(注1)〟に「茶の湯の本意は六根を清くするためなり。目に掛物、生花を見、鼻に香をかぎ、耳に湯音を聴き、口に茶を味ひ、手足格を正し五根清浄なり」とある。

端正にかつ堅固に配置された灰、その中に造形された川、その上を水になぞらえた白墨が流暢に注いでいる。自分の立場を心得ているかのごとき管(注2)、ぎっちょ(注3)が心憎い程種火の勢いを和して敬っている。この五つの調べが風炉であり利休をして「釜の湯音は松風なり」と言わしめた。床の間を一見する。うしろめたそうな容姿の一輪の茶花の感動は押さえきれぬものがある。雨にうたれ、風に耐え、大地と共に太陽の光に希望を託して、かすかな生命力を昇天させんとする大自然の草花をそこに見る。時と場所と機会に応じてとり換える香、掛け軸もこれ全て大自然の秩序と和するためなり。

密教に五大を説く。地、水、火、風、空の五大は法界の実相、仏徳の顕現なり。求道の人は五大を行じ、五大を具す。峰梅釜は、この理をふまえ口を五つに分かって、仏徳を一服の茶にもる心を表す。これは、深く人間界、自然界を徹見し、自然の調和を見極めた叡智から生れた。

物事の本性を見極めれば、そこに滞ることのない、大生命の躍動が見える。

沢庵禅師の曰く、例えば本心は水の如く一所にとどまらず、妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗われ申さず候、氷を解かして水となし何処へも流れるようにして手足も何も洗ふべしと。自然に和した姿、水の如く執着を離れてこそ仏道にも通ずる。真の茶のこころはここに置いてこそ成就します。

注1:葉隠:江戸時代中期、肥前佐賀鍋島藩士山本常朝の口述を、同藩士田代陣基が筆録したもの。武士心得帳、全11巻。

注2:管:管炭(くだすみ)のこと。風炉で着火に使用する半分の太さの炭。

注3:ぎっちょ:風炉で着火に使用する太さ長さともに半分の大きさの炭。

 

大本山のこと、 当日の立教柴燈護摩の会場は、人、人の波でしたので、施茶薬師さまにお参りするのがやっとのことでした。次回こそは、お茶をいただき、大自然を見つめてみたいものと思うものです。心が氷りつき始めてはいないか、執着していないか、見つめ直してみる機会をいただいたことにも感謝するものです。

 

(合掌)

管理人

 

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