大晦日前のお参り

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12月は、体調不良にてお参り叶わず、2週間余りの入院を経て、少し戻った体力に頼み込んでの大晦日前のお参りでした。お山はすっかり冬の装いでしたが、山茶花や水仙などが咲き、春を予感させる境内の趣きでした。

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今月の親先生のお言葉は、「一日一生(今日の一日は、一生の一日でなく、日々がわが一生)」でしたが、今回ほどに身に迫って強く思うことは未だなかったことと感じたものでした。今月初め、持病の不整脈が不安定なので岡山の有名病院に紹介いただいたのですが、診察の結果は、「心不全です。即入院。」というものでした。生れて初めての入院でした…晴天の霹靂といいますか、これからは少なくとも日々を大切に生きなくてはならないと反省ともつかぬ思いがあり、終活メモにも手を付けた次第です。

道元禅師の修証義の始めに出てくるわたしの好きな言葉があります。「生(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、ただ生死すなわち涅槃と心得て、生死としていとうべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし、この時初めて生死を離るる分(ぶん)あり、ただ一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。」また、続く言葉として「光陰可惜(こういんおしむべし)」、「無常迅速(むじょうじんそく)」、「時不人待(ときひとをまたず)」とあります。

生れたからには、いつかは死ぬのですが、せめてもその時期が近くなればなるほどに、日々を大切に生きたいものと感じるのです。そして思うことは、焦ることなく、悔いを残さず、毎日を精一杯生きることと。今月の出来事は、一日一生の大切さを再認識させてくれるものでした。感謝。

(追:新年の準備万端の信徒会館)

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合掌

(管理人)

 

秋の装いのお山でした

このところ暇なはずなのに多忙にしていて、曇り空のもとではありましたが、お参りさせていただきました。それでも、久しく写真を撮らせていただいていますと、心から清々しさを戴くことができます。感謝です。

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境内は、やっと秋めいてきたというところでしょうか・・・。ただ、かえでは良く色付いているのに、もみじは未だ緑濃いなどさまざまです。来月には、雪の中の境内が待っていそうな気配がしています。

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親先生からの今月は、「人間万事塞翁が馬《にんげんばんじさいおうがうま》(人生における幸不幸は予測しがたい)」といただきました。故事辞典によりますと、中国、前漢時代の「淮南子《えなんじ》」という哲学書(「淮南《わいなん》の王で劉安《りゅうあん》という人が編纂させた)にある話だそうです。

塞(砦・塞《とりで》の近くに住む翁(老人)が馬の話。その塞翁が飼っていた馬が逃げ出した時、塞翁は、人々の慰めを聞いても、「これは幸せになる徴だ」と言ったと。それからしばらくして、その馬は、立派な駿馬を連れて戻ってきたが、そのことについてお祝いを言う人々に対して、「これは禍になるだろう」と言ったと。これも、塞翁の息子がその駿馬から落馬して、足を怪我して、そのとおりになった。一年後、隣国との戦が始まり、多くの若者が戦死したが、塞翁の息子は、落馬の怪我で戦に行けず、難を逃れたという。幸不幸は、予測し難いと。

今年も年末ジャンボを買おうかと考えはしましたが、当たると、禍の種になるとの教えのようです。やはり黙々と今日の幸に感謝しつつお行させていただくことでしょうか。

(合掌)

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管理人

夏日のなかにも秋の気配

 

あっという間に10月も半ばとなってしまいました。久し振りのお参りがなんとも嬉しく感じていました。今年は夏日が未だ残っていて大変です。それでも境内は着実に秋の気配が濃くなっていました。

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ツワブキが咲き乱れ、柿の実は甘く熟すのを猿や烏など待ち焦がれているようでした。しかし、暖かいのでしょう。紅葉も銀杏も緑濃いままでした。境内には菊やコスモスなど花々が絶えることなく、いつも心安らかにさせていただきます。感謝。

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親先生には今月は「看脚下(足元を見つめなさい)」といただきしまた。禅寺の山門には「看脚下」あるいは「照顧脚下」と書かれた扁額が掛っているとのこと。その意味するところは「脚もとをよく見て用心しなさい」転じて、本来の自己に立ち戻ってから入室しなさいということだと。

南北朝時代の禅僧、孤峰覚明(こほうかくみょう)は、「いかなるかこれ祖師西来の意(禅の祖、達磨大師が西方インドから中国に渡来した真意は何か)」と問われ、「照顧脚下」と答えたと。達磨大師が伝えに来たのは禅の真髄であり、おのれの脚下を見よ、その真髄の真ん中にいるではないかと言っていると。

そこまでは無くとも、足元を見直すことは大切、日々、他人の批判はいくらでも出来ることですが、自分はどうか? 看脚下・・・自分の行動を見つめ直すことを大切にしたいものです。

合  掌

(管理人)

 

久し振りの秋晴れ

台風が次々と来襲し長く鬱陶しい日が続きましたが、久し振りの抜けるような青空のもと、お参りさせていただきました。

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澄み切った青空は秋晴れを想わせ、境内のお山もまた秋の気配でした。参道には、彼岸花がまるで暦が分っているかのような正確さであちこちと真っ赤に咲き誇っていました。真っ白いジンジャーも印象的でした。夏の名残の花たちもまだまだ元気でした。

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今月の親先生からは、「三衣一鉢(さんねいっぱつ)」(一所不住・仏道修養)といただきました。お行させていただく上での心構えと。

お坊さまの修行には、三衣(お袈裟)と托鉢用の鉢があればよいとされたそうであります。お坊さまのお導きにより在家にありながら仏さまにおすがりさせていただくことのありがたさを噛みしめるところです。

「六波羅密経」には、仏門に入るには、素怛纜(そたらん:お経のこと)、毘奈耶(ひなーや:規律のこと)、阿達磨(あびだるま:対法論の書のこと)、般若波羅蜜多(はんにゃはらみった:智慧(経典)のこと)、そして、陀羅尼(だらに:密教経典)の五つの教えがあると(如来さまが)人々を教化されたと、あるそうです。

その内四つまでは、出家や高貴な人でないと受け入れられないものでしたが、陀羅尼の門は、仏教を誹謗し、重罪を犯したり、仏性のない凡夫でも済度されるものであり、発菩提心真言(おんぼうじしったぼだはだやみ)をとなえるとき、既にして、出家と同じ門の入り口にあると。

ひとえにおすがりし、親先生のお導きにより、一心に真言念誦させていただきつつ、在家ではあっても彼の門を目指すお同行さまに続きたいものと。そのためにも、日々清貧の心掛けを忘れぬようにしたいものです、

合掌

(管理人)

 

涼風の中のご恩日法要

久しぶりにお参りさせていただきました。ご恩日法要の位牌堂は、北向きの涼風が吹き渡り、下界の猛暑を忘れさせてくれました。西日本は日照り続きですが、ここでは「清水」という地名のとおり雪解けを思わせる冷水が巨大な岩塊群の下から絶えることなく湧き出していて、涼しさの助けになっているものと。そして夏の花たちも元気でいて楽しませてくれます・・・。

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そして毎度絶妙な味付の美味しいお斎をいただきました。いつも感謝です。少し時間があったので、湧水の配水施設の手入れをされるというお同行さまとご一緒させていただきました。手足まといになると予想されましたが、岩塊海の上の涼しさを味あわさせていただきました。感謝です。

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今月の親先生には、「無功徳(求めれば足りず、手放せば足りる)」といただきました。これは、禅宗の開祖・達磨大師の問答だということ(景徳傳燈録)だそうです。大師は、お釈迦様より28代目の高僧で、六世紀中国の梁王朝に渡ったとき、武帝に招かれ、尋ねられました。「わたしは、仏教を理解し、多くの寺を建て、経を写し、僧を養成してきた、どのような功徳があるのでしょうか?」と。しかし、大師は、一言、「無功徳」と言われたのみであったと。武帝の善根が見帰りを期待しての行為であったことが真の功徳ではないとされたのだと。

自身の行いが果報を期待して行うと、その果報に不足のこころが生まれてしまうと。何か良いこと行うとき、相手に感謝されることを求めなくても・・・少しだけ、心が安らかになったらそれでよい・・・足りていると思いなさいと。 難題ですが、ともかくもお行させていただければと思うばかりです。

合掌

(管理人)

 

 

盂蘭盆施餓鬼法要そして結願百万遍法要

昨日、盂蘭盆施餓鬼法要が、そして結願百万遍法要が厳修されました。穏やかな一日ではありましたが、やはり夏らしい暑い一日でした。親先生始め昨晩から精霊迎えされている皆様にはほんとうにおありがとうございます。

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そのお山は今日も花いっぱいで・・その咲き誇っている盛りを撮らせていただくのがわたしの楽しみでもあります。

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いつものことですが、今日も、美味しいお斎を頂戴しました。昔どおりの漆器が配膳されていて、真心を込めて調理いただいている皆様に感謝することでした。器も味覚の一部、やはり、コンビニ風では、幻滅ではないかと思うのはわたしだけでしようか?

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親先生のご法話は、以前にも話したことですが、と前置きされて、ご先祖様のご縁についてのお話しがありました。ご先祖様とのご縁を思うと、自分が生を受けるためには一体どのくらいのご先祖様にお世話になっているのか・・・1代前で両親、2代前で祖父母、そして、10代前で千人余、20代前で百万人余、30代前では10億人余となると、その一人が欠けてもあなたは生まれなかったと・・・。また、30代前というと、20歳で出産するとして、600年前、ちょっと遠すぎる話かもしれませんが・・・。

その昔(785年)平安京を開かれた桓武天皇は、「春秋の義、祖は子をもって貴し。これすなわち礼経の垂典、帝王の恒範」(中国の古典である春秋には、ご先祖様はその子孫の行いによって地位が高くなる場合があると記されている。これは、古代の聖人が示した心霊との契約であり、このことは今も変わりない)と言っていると。

ご先祖様への感謝・崇拝・読経・納経、お行されている方々への供養など子孫がお礼することで、ご先祖様の霊界での地位が向上すると。  すなわち、子孫の繁栄にもつながっていくと・・・。

ともあれ先ずは、この身をいただいたご先祖様に感謝したいものです。

合掌

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(管理人)

 

 

御行の日

早朝から投票を済ませ、久し振りのお参り……まずは、夏の花々が出迎えてくれますことに心がなごみます。

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今日は御行させていただく日、暑い一日とはなりましたが幸い雨は一休みしてくれて、日陰に入ればそよ風があまりにも心地よいものでした。

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お同行さまには、奥之院や位牌堂、お瀧場など大掃除され、男性方には資材の運搬整理など力仕事に汗しておられました。非力な私はといえば、枯草の焦がしや先週の集中豪雨痕修理用の石集めで何とも申し訳のないことでした。

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7月の親先生のおことばは、「無心(現実をありのままに受け入れ、ありのままから足したり引いたりしないこと)」とされています。

禅の名言集(綾瀬凜太郎著)によると、中国禅の第六祖、慧能大師の六祖壇経には、「わたしのこの法門には、先人以来、第一に《無念》を立てて宗旨とし、《夢想》を本体とし、《無住》を根本とする。《夢想》とは相(かたち)において相を離れるのであり、《無念》とは念(おも)うて念わないことである」とありました。

人は、自我があるために何かに執着し、とらわれる。しかし、それでは、無心にはなれないと。無心とは、念うて念わない。その思いにとらわれないまま、自然に念うことでそうです。

今日は、石運びで、一輪車を必死で押している時、いつもの右足の痛み(パーキンソンの足)をまったく感じていませんでした。これぞ、無心なのかと思ってはみたものの、先ずは、親先生をはじめお同行さまのお蔭様にて、心地よい汗をいただいていることに感謝すべきものと・・・。

合掌

(管理人)

 

お不動様と燕

 

梅雨の晴れ間に久方のお参りをさせていただきました。今日は花代えの御行の日であり、お同行様には暑いなか大変にご苦労様でございます。そのお行に感謝しながら、境内に入るとアジサイが咲き乱れていました。

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ヤマユリが咲いたとのことで、まずは写真に収めたいとお山に登らせていただきました。そこには、ユリも見事でしたが、ヤマアジサイが群生し、心なごませてくれました。

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今日はまた、円明不動さまの左肩の部分でツバメが子育てしているとのことで、早速、様子を見せていただきますと、親鳥が巣籠りの最中でした。お不動さまに守られて良い場所を見つけたものと感心することです。

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今月の親先生は、「自浄其意(じじょうごい)」(自らその意(こころ)を浄くする)とされています。これは、「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」という仏教の普遍の真理を示す四行の偈文に示されていて、

・諸悪莫作(しょあくまくさ)《悪いことをしない》

・衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)《良いことをしなさい》

・自浄其意(じじょうごい)《自身で常に心を浄くする》

・是諸仏教(ぜしょぶっきょう)《これが仏教の教えです》

……とのこと。

なお、七仏とは、お釈迦様以前の六仏【・毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くながむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)】に、お釈迦様を含めていうとのこと。

昔、中国の詩人白居易と道林和尚との問答では、この偈文、「八十になっても行じ難い」とされています。せめて、気持ちだけでも、少しでも、心根を浄くありたいものと反省させられます。

あらためて、暑い中の花代えの御行をされてるご同行さまに感謝申し上げたいものです。そして僅かではあっても行させていただきくことに感謝するものです。

合掌

(管理人)

皐月晴れのご恩日法要

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時の時の経つのは誠に早いもので、つい先日まで寒さに耐えていたものが、もう真夏を思わせる強い日差しを浴びています。今日は、ご恩日法要、その位牌堂までの参道には、初夏の花が咲き乱れ、心から癒されます。

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アヤメ、ショウブ、アジサイ、ハルジオン、ツユクサ、マンネングサなどなど、たくさんの花々からお浄めいただいているような気持でした。

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今日のお斎も、格別でした。色々といただきましたが、旬の「飛び魚」のすり身のお吸い物と、ソボロ丼の味が忘れられませんでした。いつもありがとうございます。

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今月は、親先生には、「放下著(ほうげじゃく)」といただきました。「何もかも捨てなさい!と、そして身も心も軽く自由になるには棄てることであると」されています。

これは、唐の時代の話であるとのこと。厳陽(がんよう)という修行者が趙州(じょうしゅう)和尚に訪ねて、「一物不将来(いちもつふしょうらい)のとき(なにもかも捨て去り何も持っていないとき)は、如何にすべきか?」と聞くと、和尚様は、「放下著-捨ててしまえ」と言われた。厳陽が「私はすでに捨てきって何も無い無一物の境界です。これ以上何を捨てるのですか?」と聞くと、和尚様は、「それでは、その無一物と誇示したい心を担いで帰れ」と答えられたとのこと。和尚様に訊ねる厳陽の心には、捨てきって無一物になったことを誇示しようとする心が捨てられていなかったと言うお話でした。

悩み多い日々であることを省みて、何にとらわれているのか、謙虚に心して問い直してみたいと思うものです。 感謝

合掌

(管理人)

 

感謝の一日

晴天のもと、久々のお参りでした。境内は、もう躑躅の季節、また一方ではみどり若葉を天高く伸ばす紅葉も今が花盛りらしく蜜集めのハチ達が沢山飛び回っていました。お山は緑に覆われ、身体中にお山の緑を浴びて若返らせて戴いたものでした。加えて、今日は、嬉しいことがありました。一週間前から、心の臓の頻脈が続き、お医者さまからも「薬の限界です。治まりません」と言われていたものが、親先生のお済度を戴いて、いつの間にか治まっていたのでした。これぞ、お不動様の御加護、感謝しても感謝しても尽きない思いでした。

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親先生の今月のおことばは、「一期一会」(今この時とは、もう二度と出会えない)と。今日の喜びは決して忘れず大切にしたいものですし、今日の素晴らしい出会いも、もう二度と会えないかも知れないと大切に接する心がけでありたいものです。

今日という日はとくに嬉しい一日でした。お救い戴いたことに、深く、深く感謝申し上げるものです。

 

合掌

(管理人)