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当山管理人のブログです。

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遅くなりました…7月ブログ

このところ体調の良い日もあり、半年遅れではありますが、ブログを書いてみました。7月9日(日曜日)は、御行清掃の日でしたが、家内も私も体調が悪く、お休みさせていただいておりました。境内の御山では、山水が川のように流れ下る様子がはっきりと見て取れ、この頃には「記録的短時間大雨情報」も出されていたものと思われます。大雨の中、お同行様には大変ありがとうございました。衷心より、感謝申し上げるより見当たりません。なお、今月は最終日曜日に厳修されました盂蘭盆施餓鬼法要につきましても、写真をアップしてみました。見苦しくもなっているように感じつつ、お許しを願って掲載させて戴いております。

  

親先生から7月は、「無常《むじょう》 (この世にあるすべてのものは、つねに移ろいて、一時もとどまることはない。) 」と、いただきました。

お釈迦の生きておられた紀元前2千数百年のインドでは、文字文化がなかったとのこと。その中で多くの記述が伝承され、中でも中村元先生による「感與のことば」の、「第一章、無常」には、42項に亘って整理されています。以下その一部を記します。

  

(感與のことば・抜粋)

さあ聞け――すべてを知りきわめた人・救い主・慈悲ぶかい人・最後の身体をたもつ人である仙人、尊師は次のように説かれた――  (途中、省略有り) 。

諸(もろもろ)のつくられた事物は実に無常である。 生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。 

何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか?―― (世間は)このように燃え立っているのに。 汝らは暗黒に陥っていて、燈明を求めようとしない。 

朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが朝(あした)には或る人々のすがたが見られない。 

老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。――熟した果実が枝から落ちて行くように。 

熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生まれた人はいつでも死ぬおそれがある。 

山から発する川(の水)が流れ去って遷らないように、人間の寿命も過ぎ去って還らない。 

眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者にとっては生死の道のりは長い。

  

男も女も幾百万人と数多くいるが財産を貯えたあげくには、死の力に屈服する。 

いくら財産を貯えても最後には尽きてなくなってしまう。高い地位身分も終には落ちてしまう。結びついたものは終には離れてしまう。 

生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業(ごう)の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。 

悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう。

大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。 

  

この世においては、過去にいた者どもでも、未来にあらわれる者どもでも、一切の生き者は身体を捨てて逝くであろう。智ある人は、一切を捨て去ることを知って、真理に安住して、清らかな行ないをなすべきである。 

この容色は衰えはてて、病の巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまうであろう。生命は終(つい)に死に帰着する。 

「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏にはここに住もう」と、愚者はこのようにくよくよと慮(おもんばか)って、死が迫って来るのに気がつかない。 

「わたしはこれをなしとげた。これをしたならばこれをしなければならないであろう。」というふうに、あくせくしている人々を、老いと死とが粉砕する。 

それ故に、修行僧らは、つねに瞑想を楽しみ、心を安定統一して、つとめはげみ、生と老い究極を見きわめ、悪魔とその軍勢に打ち克って、生死の彼岸に達する者となれ。

(以上、感與のことば)

  

新型コロナ感染症が、格下げになってから、カウント数は、減少している模様…。しかし、油断は禁物!守りがおろそかにならぬようお互いに気を付けたいものです。この冬は、インフルエンザも大流行の兆(山陰は要注意であると…)

 そしてまた、もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。プーチン氏も苦しいのだと思います。そしてイスラエルはハマスの攻撃を受け、世界大戦の様相が益々濃くなっている。防空壕を準備する時も近いのではなないかと…。皆で名案を考えたいですね。

(合掌)

(管理人)

 

梅雨の中休み?

ブログのアップをどうしたものかと思案しているとき、女房殿には、明日(7月初日)お参りさせていただきましょう…と、即決。梅雨はと言えば、九州、山口辺りで大雨の模様なれど、山陰地方は其の梅雨も中休みの模様です。旧本堂辺りでは、サルの群れがはしゃいでいます。梅、ビワか何かの果実を楽しんでいるように見えます。そして今日は、「御行花替えの日」でもあり、お同行様には、感謝申し上げます。国道あたりには蒸し暑さが籠っていますが(いつも思うことですが)、本堂や信徒会館は、風の通りが違っていて、蒸し暑いとき《涼しい》ことで、みんなで、生きいきしています。花たちは、いま、紫陽花(アジサイ)、ジンジャー、木槿(ムクゲ)など長く楽しめるものが、雑草を押し分けて元気にしていました。

 

親先生から6月は、「慈悲《じひ》 (美点や欠点にこだわらない愛情) 」と、いただきました。 【慈悲】は2021年6月、「中村元先生の新仏教語源散策」を取上げさせて戴いております由、今回は「仏教名言辞典・奈良康明編著」から引用させて戴くことにしました。

【慈悲・その1: 「弘法大師 空海(平安・774~853)の言葉;続性霊集・巻第四】より「苦を見て悲(ひ)を起(おこ)すは観音(かんのん)の用心(ようじん)、危(あやう)きを視(み)て、身を忘るるは、仁人(じんじん)の務(つと)むる所(ところ)なり。」】

【現代訳: 人の苦しみを見て慈悲の心を起こすのは観音の願いであり、他人の危ういのを見て、自身の身の危ういのも忘れて人を救うのは、慈しみ深い人の務めとするところである。】

【慈悲・その2:慧能(638-713)撰 『六祖大師宝法壇経』に、「諸水衆流は却って大海に入るも、海は衆水を納れて合して一体と為す。】とあり。

【現代訳:もろもろの川の流れは最後には海洋に入りこむが、海の方は多くの川の水を受け入れて、合わせて一つの海水としてしまう。】仏教の経典の中で最も知られているものは……、と聞かれたら、多くの人は、般若心経とこたえるであろう。特に薬師寺の管長・故・高田好胤(こういん)師は、「かたよらない心」、「こだわらない心」、「とらわれない心」、「ひろく、広く、もっと広く、これが般若心経の空の心なり」と、般若心経は、空の心を説き示したお経であり、大海の衆水を納れて一体とする素晴らしい働きは、何に例えたかと言えば、【六祖壇経はこの言葉に続いて、『六祖壇経』は、この言葉に【衆生の本性般若の智もまた是(かく)の如し】と、説いていると…。私たち人間は、このような般若の智慧を生まれながらにして持っている、というのが仏教の人間観である。「衆生の本性般若の智」という表現がそのことをはっきりと示している。生まれながらにしてもっている般若の智慧に目覚めたのが、釈尊の悟りであり、釈尊は、弟子たちにもこの般若の智慧に目覚めることを説かれた。目覚めてみれば衆生も仏なのである。

 

【慈悲 その3:宗祖お上人様の語録には、お上人様がおっしゃっておられますように、「いただくまいと思っても、授かるまいと思っても、「ありがとうございます、もったいのうございます」と、その気持ちがあったならば、必ず授けられる、いただくまいと思っても、いただかずにはおられない。 そして、授かるまいと思っても、授からずにはおられなくなるそうであります。自分の位置を見極めて、その位置で自分自身が助けられて、救われて、生きているということに、感謝の念を持つことが一番大事であると…。】

今日のことは、まず諸先達さまより様々にお伺いし、または目を通させていただく、その一つ一つがありがたく、感謝申し上げるものです…。

 

新型コロナ感染症が、格下げになってから、始めての中央での専門家会合が開かれたと聞いておりますものの夏には一つのピークが現れるとの予測が報じられており、油断はならぬと思うものです。 隣の中国でも、一部地域で流行の気配があると聞きます。 やはり、油断は禁物と思っていて、注意を忘れ去ってはいけないと心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)

むせ返る新緑の境内

先の日曜日、女房殿の遣り繰りにて久しぶりのお参りから叶いました。うれしく感謝の気持ちでいっぱいです。 64歳でパーキンソン症を発症してから、10年を遣り過ごしはしましたが、細かな不都合が多々出てくるようにもなり始めました。日頃よりみなさまには大変にお世話になっており、心よりお礼を申し上げ、これからのお掛けするであろうご迷惑の数々に先んじてお詫び申し上げるものです。 近年は、春が亡くなりつつあると感じることで、冬からいっきに夏へとジャンプしているものと強く感じることです……。境内のお山は噎せ返るような熱気を感じ、黄緑色の風のなか、まゆみ、カラー、アヤメ、遅咲きのツツジなどに目を細めて、ホッとするひと時です。しばらくの間、お行のお許しをお願いいたします。

  

親先生から5月は、「無垢徳《むくどく》 (求めれば、足りない。手放せば、足りる。) 」といただきました。 「無功徳」は、約6年前にも登場いただいています由、今回は、故・松原泰道老師の「百歳の禅語」を取り上げてみようと思います。 そして、「功徳」とは、「仏教用語」で、「善行、善い行いそのもの」をいうとあります。 布教のためインドから海路、中国を訪れた-禅の開祖-「達磨大使」、中国は「梁」の時代、梁の皇帝・「武帝」は、仏教を広め、寺を建て、僧を養い、仏像をつくり、写経をする。あらゆる善行をしてきたのだから、達磨大師がさぞ褒めてくれると期待していた……と、しかし結果、達磨大師は、武帝に対し「無功徳」と言ったとあります。 武帝の善行について、一つには、どんなに善い行いであろうと、何らかの善い報いがあるという功利的な考えがある限り、これを行ったならば何らかの善い報いがあるという期待がある、あるいは、自分のした行為を美化し、拡大化してエゴを満足させようとするような考えがある限り……、これには何らの善い報いは無いというものです。

  

それからもう一つ、「無功徳」が仏教的に矛盾しているのではないかということについては、仏教の思想には創造の神はおらず、人間の幸不幸は神によって支配されるものではないとされ……、結果は人間の行為によって決まり、「善い行い」⇒「善因善果」、「悪い行い」⇒「悪因悪果」と言うことになる。 良し悪しは別として、原因があって結果が生まれる、因果律が仏教の思想であるとして来た……、 これは釈尊が悟った仏教の根本となる考え方であり……、この「因果律」に照らすと、武帝の様々な善い行いを「無功徳」言うについては、この「因果律」を否定することになる。  今、この矛盾を解(と)かねばならないが、その解決策として、「因」と「果」の間には、空間的隔たりがあり、原因、イコール結果であるという「因即果」と成り得るという深いところまで仏教思想は進んでいるのだと……、すなわち、「因果一如」もしくは「因即果」であると……。 達磨大師は、これらの奥深い次元を抑えて、「無功徳」と言ったのだと……。つまり、「武帝よ、あなたは仏教のための様々な善行を積まれた。その善行がそのまま善い功徳となっている。それも、これ以外にないという功徳であって、更に、功徳を求める必要がない」と続けたのではないかと…、あります。

  話を発展させて、「原因」が「結果」を契機となるものとして「縁」がありますが、「因果一如」の考えでは、「縁」も「原因」とされていると……。

江戸時代に白隠という有名な禅師があり、その師匠は信州中野・飯山の人で、正受庵に住まいし、子弟の扱いの乱暴であったこと、噛んで含める厳しい教育をしていたと……。その厳しい教えは、正受禅師からだけでなく、村の人々からも口伝の形で、正受禅師にも伝えられた……。 その例が「一日暮らし」という釈尊も守ってきた生活の仕方であったと……。 禅の言葉で、「日々是好日」とも言いますが、その日が思いのとおりにはならないし、二元的には考えない。

作家の吉川英治さんは、「雨の日は、雨を愛し、晴れの日は、晴れを愛する……、」と、言う言葉を残されたと…。

同じ作家の武者小路実篤さんは、絵も好きで、サインと共に一言、添書きをされていたと……。それは「桃栗三年柿8年、達磨は九年で、俺は一生」とし、「俺は一生学び通す」と誓ったとのことです。

詩人の八木重吉さんは、「花はなぜ美しいのか……。ただ、一筋の気持ちで咲くからだと……。」

わたくしごととなりますが、「ただひとすじ…、との思いで、お行させていただきます」、

感謝申し上げます。

  

新型コロナ感染症は、ついに5類に移行されてしまいました。第九波については、よく分からなくしたというのが正しいのかもしれませんね。 最後は、自身の注意で、自身を守るしかいのでしょう……。 手洗いの励行、マスクの着用など、これまでもちょっとだけ注意深くするだけで違いが感じられるのではないでしょうか。 換気にはちょうど良い時節でもあり、頑張るところは頑張って、感謝しつつ、注意を忘れないよう心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏の日々の一日も早く戻ることを祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)

境内は春・真最中 !!

ほんとうに久しぶりのお参りとなってしまいました…先の日曜日…久しぶりのお参りでした。 先ずは親先生のご配慮に感謝申し上げたいと思います。 季節は春爛漫、今年は総てが早春を一気に通り過ぎ、花々のかおりが心を高ぶらせてくれています。手遅れかと思っていた石楠花もこれから見ごろを迎える様子にて、最高潮の感動を独り占めしているとの嬉しい思いでいっぱいです。

  

親先生から4月は、「不自讃毀他戒《ふじさんきたかい》 (自分をほめて、人を見下さないこと) 」といただきました。  

【不自讃毀他戒】は2年前にも登場いただいておりますので、今回は正法眼蔵(増谷文雄・全訳注の受戒の巻を取り上げてみようと思います。 【現代語訳:(受戒の作法) また、さらに、まさに菩薩戒を受けるがよく、それが仏法に入るの順序というものであるという。 その菩薩戒を受ける作法は、久しく仏祖の奥ふかいところまで学び入ったもののかならず正伝するところであり、怠けおこたるものどものよく与り得るところではないのである。 その作法は、まずかならず、祖師を焼香礼拝して、菩薩戒を受けんことを請う。さて、その願いが聴許せられると、沐浴して身を浄め、新しいきよらかな衣服を着る、あるいは衣服を洗いきよめて、花を散じ、香をたいて、礼拝して敬をいたし、そしてその身に着ける。 それから、すべての仏像を礼拝し、また、三宝を礼拝し、長老を礼拝して、もろもろの障りを除き、身心を清浄ならしめる。その作法も、むかしから仏祖のやかたの奥ふかいところにちゃんと正伝せられている。】

…略…、 そして十戒の第七には、【原文:第七、不自讃毀他。汝従今身至仏身、此戒能持否。答云、能持。三問三答】、【現代語訳:第七、自己を讃え他人を毀(けな)さざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。 答えて云う。「よく保つ」…と。(三度問い、三度答える)…とあります。】 

  

上にいうところの十戒は、いずれも犯してはならない。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。 答えて云う。「よく保つ」…と。(三度問い、三度答える)  では、この事は、このように保つがよい。受ける者は三度礼拝する。

…略…、この受戒の作法は、まちがいもなく仏祖の正伝しきたったものである。丹霞(たんか)の天然禅師(てんねんぜんじ)や薬山の高沙弥(こうしゃみ)などもひとしく受持してきたものである。比丘戒を受けなかった祖師はあるけれども、この仏祖正伝の菩薩戒を受けなかった祖師は、いまだかってないのである。それはかならず受持するものなのである。 正法眼蔵、受戒。……とあります。

 

  

 

「梵網経」には、二種類あり、一つは初期仏教経典の「梵網六十二見経」、もう一つが中国撰述経典の「梵網経廬舎那仏説菩薩心地戒品」であると…。 「梵網経」は、上下2巻あり、上巻では、お釈迦様が廬舎那仏に代わって、このお経を説くという設定で、菩薩がなすべき四十の心の段階、(十発趣心、十長養心、十金剛心、十地) が説かれ、下巻では、「梵網戒」として、十重禁戒、四十八軽戒が説かれていると…。それは、不殺戒(ふせつかい)、不盗戒(ふとうかい)、不淫戒(ふいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不酤酒戒(ふこしゅかい)、不説過戒(ふせつかかい)、不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)、不慳戒(ふけんかい)、不瞋戒(ふしんかい)、不謗三宝戒(ふぼうさんぽうかい)、が説かれていると……。 管理人としましては、いずれ項目もとりこぼしの恐れあるに加えて、五番目の不酤酒あたりが、現実的困難を伴うものと心しております。 日々、努力させていただいておりますことと認識しているのではありますが……。

  

新型コロナ感染症は、希にゼロの日があるなど、収束にむかっているとの推測……。 3月13日からは、マスクの着用も本人の意思に任せられることになり、5月からはインフルエンザ同等に扱いも変わる模様です。 ただ、油断は禁物です。 自分のことは「人にうつさない」、「人からうつされない」とのことで、時と場所、状況を考慮して注意したいものです。  もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナのこと、平穏が戻る日を祈らずにはおられません……。

(合掌)

(管理人)