一年間感謝清掃の日

ブログを書かせていただいて以来初めてのことですが、家族の体調のこともあって、親先生拝領の写真のみで思いを綴ってみることにしました。当日は、穏やかな日差しに冬のぬくもりを感じさせてくれたとのこと…。お山はすでに冬の色合いで、落ち葉は多く、お接待の「焼き芋」は直ぐに美味しく焼きあがったそうです。この頃、住まいのある島根西部では、すでに冬の雨となっておりました由、みな様の日頃のご努力に感謝申し上げるところです。この一年にも改めましてありがたくお礼申し上げたいと存じます。

  

親先生から12月は、「 命 【いのち】 (どんなものにも命があると感じられたら、それはきっとあなたが素敵なひとだから) 」といただきました。 親先生のこの一年のご法話に感謝申し上げます。

岩波仏教辞典(中村元先生他共著)では、「命」として次のようにあります。人生を苦なるものとしてとらえ、それからの脱却を目的とする仏教では、特にその初期においては、『命』ということが純粋の自然現象として取り上げられることはほとんどなかった。しかし、限られた『命』有限な人生との自覚から、それをバネとして永遠なるものに触れ、それに帰一し同化することを目指すのが宗教であるのなら、初期の仏教でもそれは説かれていたし、むしろ積極的に求むべきだとされていたといえる。煩悩の火が吹き消された状態を表す涅槃(ねはん)がそれである。涅槃は、永遠なるものへの帰一・同化によって到達しうる絶対的平安の境地を表すと解され、初期の仏教においては現証されるべきものであったが、考察が深まるにつれて、次第に抽象的・彼岸的なものへと変質して行った。

これに対して、大乗仏教では、むしろ積極的に命、無限の命ということが主張されるようになる、無量寿経で、《無量寿》(Amitayus)仏が説かれ、また法華経でいわゆる久遠実成(くおんじつじょう)の仏が述べられているのはその一例である。仏に対する考察が進むにつれて、法界(ほうかい)や法身(ほうしん)・真如(しんにょ)など超時間的な観念も現れるようになった。 無限の命ということも、それが仏についていわれている間は超越的であるが、大乗仏教も中期以降になると、輪廻転生(りんねてんしょう)するわれわれ凡夫の中にも成仏の因子たるべきものが存在し、しかもそれは生死輪廻(しょうじりんね)によってもいささかも変じることなく永遠に不変であるという。・・・以下、略・・・。

  

そして道元禅師による『正法眼蔵・生死の巻』(全訳注:増谷文雄)には、【原文】「生死の中に仏あれば生死なし」、又云く、「生死の中に仏なければ生死にまどはず」、こころは、夾山(かつさん)・定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。

もし人、生死のほかに仏をもとむれば、ながえをきたにして越(えつ)にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱(げだつ)のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。

生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらいにて、すでにさきあり、のちあり。故(かるがゆえに)、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらいにて、又さきあり。のちあり。これによりて、滅すなはち不滅という。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。

この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著(じゃく)すれば、これも仏のいのちをうしなふ也。仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏の心にいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばをもっていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あわれみふかくして、上をうやまい下をあわれみ、よろづをいとふこころなく、ねがう心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。

  

【現代語訳】

《夾山(かつさん)・定山(じょうさん)のことば》

いわく、「生死のなかに仏があれば、生死はない」、またいわく、「生死のなかに仏がなければ、生死にまようこともない」、これらは夾山・定山といわれた二人の禅師のことばである。仏道を悟り得た人たちのことばであるから、きっと徒(いたずら)にいったものではなかろう。生死をはなれたいと思う人々は、まさしくその意味するところを明らかにしるがよい。

《生死のほかに仏なし》

もし人が、生死のほかに仏をもとめたならば、それはあたかも、車の轅(ながえ)を北にむけて南の方越に赴かんとするようなものであり、あるいは、面(かお)を南にむけて北斗星をするようなものである。いよいよ生死の因をかきあつめて、ますます解脱の道を見失うばかりである。そこはただ、生死はとりもなおさず涅槃(ねはん)であると心得れば、それでもはや生死だからとて厭うべきものもなく、涅槃だからとて願うべきものもなくなる。その時はじめて生死をはなれる者となるのである。

《生と死について》

そもそも、生と死のありようは、生から死に移るのだと思うのは、まったくの誤りである。生と死はそれがすでに一時(ひととき)のありようであって、そこにもちゃんと初めがあり、また終わりがある。だからして、仏法においては、生はすなわち不生(ふしょう)であるという。滅もまた、それがすでに一時のありようであって、そこにもまた初めがあり、終わりがある。だからして、滅はすなわち不滅であるという。つまり、生という時には、生よりほかにはなんにもないのであり、滅というときには、滅よりほかにはなにもないのである。だからして、生がきたならば、それはただの生のみであり、滅がくれば、それはもう滅のみであって、ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである。厭うこともなく、また願うこともないがよろしい。

《生死は仏の御いのち》

この生死はとりもなおさず仏の御いのちである。これを厭い捨てようとするならば、それはとりもなおさず仏の御いのちを失うこととなるであろう。だからとて、そこに止まって生死に執着(しゅうちゃく)すれば、それもまた仏の御いのちを失うこととなる。仏のありようにこだわっているからである。厭うこともなく、慕うこともないようになって、その時はじめて仏の心に入ることができるのである。だが、その境地は、ただ心をもって量ってみたり、あるいはことばをもっていってみたのでは入ることはできない。ただ、わが身もわが心もすっかり忘れはなち、すべてを仏の家に投げいれてしまって、仏の方からはたらきかけていただいて、それにそのまま随ってゆく、その時はじめて、力もいれず、心をもついやすことなくして、いつしか生死をはなれ、仏と成っているのである。思うに、仏となるには、ごくたやすい道がある。それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと。そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとを厭う心もなく、またねがう心もなく、つまり、心に思うこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。そしてそのほかに仏をもとめてはならない。

  

新型コロナは、このところ島根でも連日1000人を超える日が続いており、第8派に到っているものと推測されます。市からは、5回目のワクチン案内が届き、すでに5回目を完了したところですが、やはり、手抜きすることのないように、良く基本を守って、マスく、手洗い、換気、距離を空けるなど、みんなで頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実に対策したいものです。コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

あっという間の霜月

最近は誠に多忙、特に新型コロナ禍以来そんなふうに感じてしまいます。「オンライン」で確認…とか、仕事は「テレワーク」で…とか、ライフワークバランスがどうとか、忙しなく「横文字」が飛び交っています。一休さま、一茶師の時代が懐かしくなります。そんなことで境内のお山も秋の気配の素早いことに驚くことでした。黄色く色づいた銀杏の大木に、しばらくは息を飲んで見上げておりました。さすがに花たちの時は終わり、実生の季節へと移りつつあります。また、先のお参りの折の吊し柿があめ色に染まりもうひと冷えの到来を待っていました。異常気象の時代には警戒を要することに違いなく、来月始めには、寒波が待ち構えているとか、寒さ対策にも万全でありたいものです。

  

親先生から11月は、「只管打座【しかんたざ】 (無心になって一つのことに打ち込めば、自然と道はひらける) 」といただきました。 

岩波仏教辞典(中村元先生他共著)には、次のようにあります。(祇管打坐とも書く)、『只管』は宋代以降の口語で、『ひたすらに』の意、ただひたすら坐禅すること、全身心をあげて坐り抜くこと以外に仏法の体得はない、打坐即仏法という道元禅の特質を現した語、とある。・・・中略。・・・「参禅とは身心脱落なり、祇管打坐にして始めて得」とある。(『正法眼蔵(三昧王三昧)』

その『正法眼蔵・三昧王三昧』(寛元二年(1244年)越前吉田県吉峰寺にて示衆された)には、以下のようにあります。 ・・・一部略・・・。【原文】先師古仏(こぶつ)云く、「参禅者(は)、心身(しんしん)脱落(だつらく)也、祇管打坐(しかんたざ)して、始めて得(え)ん。不要、焼香(しょうこう)、礼拝(らいはい)、念仏、修懺(しゅさん)、看経(かんきん)を」あきらかに仏祖の眼睛(がんぜい)を快出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師のひとりなり、震旦国(しんたんこく)に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれるいまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任(ほうにん)するあらんや。しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落(しんじんだつらく)の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。既得恁麼(きとくいんも)ならん、仏祖の行解相応なり。この念想観を保任すべし、この心意識を参究すべし。・・・一部略・・・

  

【現代語訳】《如浄古仏のことば》 先師なる如浄古仏は仰せられた。「参禅とは、心身(しんじん)脱落(だつらく)である。ただひたすらに打坐(たざ)して、はじめて得ることができるのであって、焼香(しょうこう)も、礼拝(らいはい)も、念仏も、修懺(しゅさん)も、看経(かんきん)もいらない。」 思うに、仏祖の眼睛(がんぜい)を抉(えぐ)り出してきて、その眼睛のなかにぴたりと打坐しているというような人物は、この四、五百年このかた、ただこの先師なる如浄古仏のみである。だから、この中国にも、この先師と肩をならべるような人物はまことにすくない。打坐することが仏法であること、仏法とは打座することであることを、はっきりと知っているものはまことにすくない。たとい、打坐これ仏法なることを体験で知っていても、なお、打坐とはどういうことであるかを知っているものはない。ましてや、仏法とはどういうものであるかをよく把握しているものがあろうか。ということであるから、心の打坐ということがあるが、それは身の打坐とおなじではないし、また、身の打坐ということもあるが、それは心の打坐とおなじではない。さらいえば、身心脱落の打坐ということがあるが、それをそうだと思えば、それはもう身心脱落の打坐ではではなくなってしまう。ただよくそこまで至ったとき、その時、仏祖としての行と解とがぴたりと一枚になるというものである。では、その心境をよくよく把握するがよく、また、その考え方をよくよく思いめぐらしてみるがよい。・・・一部略・・・

  

宗祖お上人さまは、「苗木の手入れは子供の教育と同じこと。よく手入れをして育てた木は、家を建てる材木にも、人を渡す船にもなる」と、諭しておられます。 仏性とは、一切衆生が生まれながらに持つとされている仏になれる性質のことで自性清浄心ともいわれるそうです。しかし、妄想、煩悩によって、あたかも月が雲に隠れるように、仏性が雲らされているのが私たち凡夫の姿です。仏性を育て上げ、開顕する、すなわち、「胸を開く」ためには、ご成就をいただき、仏さまとの現当二世のご縁結びを授けていただき、『おさづけ』に基づいて正しい身語正道を歩むことが大切、とあります。(宗祖覚恵上人語録「心のともしび」より)

  

新型コロナは、私共の島根でも、この2日間、連日800人を超える新規発症者が確認されていて、第8波のピークとも疑われていると聞きます。経済支援に舵を切った公共の支援には希望がなくなりつつあります。新型コロナ対策は、基本を守り、ワクチン接種をインフルエンザも含めて実施するなど確実に対策したいものです。コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

御花替え行に感謝しつつお参り

今月は、今まで思い巡らすことなど全く無かった女房殿の入院(ちょっとした手術)という大イベントがあり、ドタバタの連続で、あっという間に、月末となっていました。 境内のお山は、僅か1カ月で秋らしくなり、空は高く澄みわたり、山肌の赤く染まりつつあるを見て、思わず微笑んでしまうことでした。今日は御行花替えの日で、お同行様にはありがたく心より感謝申し上げます。さらに、サルたちの置き土産の柿の実を吊るし柿にされたとか、信徒会館にも秋が溢れていました。

  

親先生から10月は、「行雲流水 (雲や水のように、そのとき、その場を無心に生きる) 」といただきました。 岩波仏教辞典(中村元先生他共著)には、『行雲流水』として、『【宋史】蘇軾伝に「文を作るは行雲流水の如く、初めより定質無し」とあり、行く雲や流れる水のような大自然のおのずからなる無心無作の働きをいうと…。転じて、一処に滞ることなく自由無礙なる達道の人、およびその境涯を指していうと…。また、略して『雲水』ともいい、一処不住に諸方に師を求めて参学行脚する修行僧とその心境を指すとあります。

  

故松原泰道師の著・『道元』には、曹洞宗の沢木興道師(~1965年)について紹介があり、一年のうち三百日は旅に過ごし、生涯寺を持たず、「宿なし興道」、「乞食興道」と呼ばれていたと…。17歳で志して出家し永平寺に入り、雑務に使われつつも雲水の坐禅する姿に深く感動し、「門前の小僧、習わぬ経を読む」そのままに見よう見まねで坐禅を組み、たまたまそこへ、いつも興道(幼少の名は才吉)をアゴで使っている婆さんが入ってきたのですが、この時ばかりはびっくりして、そこにつくばい、坐禅している才吉少年に手をあわせて「ほとけさまを拝むようにていねいに」拝んだと…。 道元は、それを『坐仏』というと…。『坐仏』とは、坐禅のすがたがそのまま仏であるということ…。道元禅師は「まことにしるべし、初心の坐禅は最初の坐禅なり。最初の坐禅は最初の坐仏なり」と…。

  

そしてもうひとつ、中村元先生の「新仏教語源散策」には、『行雲流水』として、行乞流転(ぎょうこるてん)の生涯と言われた種田山頭火の句を紹介しておられます。

 ・分け入っても 分け入っても 青い山   ・ぬいても ぬいても 草の執着をぬく

一介の乞食僧となって諸国を行脚する毎日は、生やさしい日々ではなかった。夏の炎天下にも、冬の雪降りしきるなかでも、歩を進めなければならなかった。

 ・炎天を いただいて 乞い歩く   ・生死の中の 雪ふりしきる

 ・どうしようもないわたしが 歩いている   ・しぐるるや 死なないでいる

大正14年、44歳のとき、曹洞宗に出家して、永平寺に詣でた。そのときの句…。

 ・水音の たえずして 御仏とあり   ・てふてふ ひらひら いらかをこえた

 ・法堂(はつとう)あけはなつ 明けはなれている

『行雲流水』は、移り変わる四季のように、定めなく移り変わって止まらないことをたとえて言っていると…。

  

新型コロナは、第7派が終息に向かいつつある模様ですが、海外からの受け入れを始め、経済に舵を切ったわけで、これからの冬季のインフルエンザと共に行わねばならない難しい舵取りを如何にさばくことが出来るかに掛かっていると思っています。まずはみんなで、良く基本を守って、周囲の人たちと共に頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共に新型コロナも確実に対策したいもの、コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

 

 

彼岸すぎて秋の気配

明日はご恩日法要という午後、不都合があると分かり、又しても急なお参りとなってしまいました。異常気象であっても、境内のお山のケヤキなどはすでに色づき始め、過ぎ去った夏の蒸し暑さを、爽やかに変えてくれています。定番の彼岸花、ピンク色の山紫陽花、ジンジャー、百日紅など、最後の力を振り絞っているように感じたものです。

  

親先生から9月は、「自浄其意 (自らその意を浄くする) 」といただきました。 七仏通戒偈として『岩波仏教辞典(中村元先生他共著)』にあり、過去七仏が共通して保ったと言われる偈で、仏教思想を一偈に要約したものとみなされていると…。 漢訳で「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」【法句経183】というと…。 

  道元禅師による『正法眼蔵(増谷文雄氏・全訳注)』には、唐代・杭州の刺史・白居易と、杭州の鳥窠といわれた道林禅師との問答が述べられています。 道元禅師のそれは、宇治県の興聖宝林寺にて、延応二年(1240年) 八月十五日・中秋の名月の夕に示されたものとあり、 (原文)『古仏云(こぶついわく)、諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)。 これ七仏祖宗の通戒として、前仏より後仏に正伝(しょうでん)す、後仏は前仏に相嗣(そうし)せり』と・・・中略。  (現代語訳)『古仏いわく、もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を奉行して、みずからその意を浄(きよ)む、これもろもろの仏の教えなりと…。これは七仏に通ずる教誡(きょうかい)として、前仏より後仏へと正伝し、後仏は前仏より相嗣ぎていたものである』と・・・中略。

  

親先生には先の平成7年(1996年)、親仏さまより、信徒会館、庫裡建設にあたり、不動明王をいただいて「自浄其意」をお授けいただいたと…。もとより、これら建設は、宗教法人たる当山としての範疇にあったものでしたが、親仏さまの「自浄其意」は「甘えることなく自らを浄くせよ、これぞ衆生済度の道と心得よ」とのお導きをいただき、宗教法人としてあるべき土地(境内を含む)と庫裡を切り離し、自宅としての手続きを一般信徒と同様に行われたと…。その結果は、庫裡への課税、高金利の住宅ローンの返済が待ち受けていたと…。しかしながら、親先生には、返済のお行(務め)として「自浄其意」に思いを致しつつ信徒同行して寄り添うことが叶ったとのこと…。特別の思い出のあるお言葉として優しく聞こえてきます。

  

白居易と道林禅師との問答は、あまり仏教に詳しくない居易に「如何なるものか、仏法の大意?」と問われて、道林禅師いわく「諸悪莫作・修繕奉行・自浄其意、是諸仏教」と答えたと…。居易のいわく「そんなことなら三歳の童子にだって言えよう」と…。道林禅師の返していわく「たとえ三歳の童子に言い得ようとも、八十の翁でも行じられまい」と…。 善いことをするための努力は、無駄にはならないものと…。

  

新型コロナは、ついに全体数の掌握を諦めることになりました。つい、忙しさにかまけて、手抜きすることのないように、良く基本を守って、コロナ禍対策を皆さまと共に頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実に対策したいものです。そしてコロナ禍の根絶を皆さまと共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

 

 

秋風爽やかにご恩日法要

先の日曜日は、お不動様ご縁にて、ご恩日法要でした。ただ、前日あたりから秋の気配が満ち溢れ、お山(境内)は吹き渡る風で涼やかになり、ホッと、案度の声がきこえそうでありました。日当はといえば、勿論、残暑といいますか猛暑で、暑いことですが、日陰の爽快なことに驚きの声を漏らすことでした、お山の深緑はまだまだ深く、百日紅やムクゲなど夏の花も相変わらず咲き競っています。 そして、親先生から8月は、「同事(どうじ)《相手の立場に立つということ》」と、いただきました。道元禅師による『正法眼蔵』の『菩提薩埵四摂法』として『布施』、『愛語』、『利行』、『同事』が簡潔美を節々とまとめ上げていると感じるものでした。

  

《原文》一者(は)、布施。二者(は)、愛語。三者(は)、利行。四者(は)、同事。 その布施というは、不貪(ふとん)なり。不貪というは、むさぼらざるなり。むさぼらざるというは、よのなかにいうへつらはざるなり。・・・中略・・・。 《現代語訳》ひとつには、布施。ふたつには、愛語。みっつには、利行。よっつには、同事。その布施というのは、不貪、すなわちむさぼらざることである。むさぼらないというのは、世の中にいう諂(へつら)いのこころなきことである。・・・中略・・・。

《原文》愛語(あいご)というは、衆生をみるにまず慈愛(じあい)の心をおこし、顧愛(こあい)言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。・・・中略・・・。 《現代語訳》愛語というのは、衆生をみていつくしみ愛する心をおこし、心にかけて愛のことばを語ることである。およそ荒々しいことばはつつしむことである。・・・中略・・・。

《原文》利行(りぎょう)というは、貴賤の衆生(しゅじょう)におきて、利益(りやく)の善巧めぐらすなり。たとえば、遠近の前途をまぼりて、利他の方便をいとなむ。・・・中略・・・ 《現代語訳》利行というのは、貴きと賤しきをえらばず、人々のために利益となるように手立てをめぐらすことである。

《原文》同事(どうじ)というは、不違(ふい)なり。自にも不違なり。他にも不違なり。たとえば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。人界(にんかい)に同ずるをもてしりぬ。同余界なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。・・・中略・・・。 《現代語訳》同事というのは、違(たが)わざることである。自己にもそむかず、他者にもたがわず、たとえば、人間界にあらわれた如来は、人間界の住みびとにまったく同じたもうたごとくである。人間界にあれば人間界に同じたもうたのであるから、如来はまた余(ほか)の世界にあれば、その世界に同じたまうであろうと知られる。つまり、同事ということを知るとき、自も他もまったく一如なのである。・・・中略・・・。

  

宗祖お上人様の語録『心のともしび』にも「自他一如」の御教えがあります。お上人様には、「自分と他人との間に何のへだてがありましょうか」と、教えくださっています。日頃、言葉を用いて生活している私たちには、すべて物事を分けて考える習慣がついてしまっていると…。 しかし、分別することは、時に執着や偏見を生み、煩悩のもとにもなると…。 自分と他人の区別のように、分別の世界を超えた、つながりの世界から物事をとらえる智慧のことを「無分別智(般若)」というと…。 この無分別智を身につけることが、般若波羅蜜の実践であり、仏様のような心に近づいていく菩薩の修行であるとお教えいただいております。

  

新型コロナ感染症は、第7波が蔓延しつつあり、近所でもクラスターの発生が聞こえてくるようになりつつあります。どうか、無理をせず、基本の対策を徹底していただきたいと願っております。来年こそは、インフルエンザ程度の暮らしができるように強く祈願したいものです。

( 合掌 )

(管理人)

 

小雨の中の盂蘭盆施餓鬼法要

先の日曜日は、「盂蘭盆施餓鬼法要」厳修の日でしたが、それはまた、心ひとつにしての祈りの日でもあったと思っております。島根は蒸し暑く、新型コロナウイルス感染症対策には『換気』ということでは都合よかったのですが、「BA5」という変異株は、第7波となって猛威をふるい、感染者数の新記録が連日続くこととなり、遂には、法要も、『流れ焼香』方式に変更となりましたが、信者様にはすでに御祈願の申込みされた方々が多く、ほおづき提灯は、既に、ご先祖様供養をいただいたものとなっておりました。

  

『流れ焼香方式』には関係なく、親先生を始め僧侶様方には、盂蘭盆施餓鬼秘法の真を尽くしていただくことであり、変わらず蒸し暑さを耐えておられるものと感謝申し上げることでありますが、お参りさせて戴いている信者様には、換気の風がありがたく感じた日でもありました。加えて、篤信なお同行さまの丹精込めて育てられた大輪の蓮の花が、会場を驚かせて、明るく幸せにもさせて戴きました。有難くお礼申し上げることであります。

  

当日は、時おり小雨のぱらつく天気ではありましたが、猛烈な日差しを直に受けることなくありがたいことでございました。奥之院の方角には大師山(山陰高野山)の緑深い山肌が輝き、夏の花のキスゲ、ムクゲ、カンナ、サルスベリなどが色合を競っておりました。

親先生の御法話は、『盆はうれしや 別れた人も 晴れてこの世に会いにくる』との詩から始まり、目には見えないけれどもお祖父さん・お祖母さん、父母、飼っていた動物たちなど家族として縁あるものが会いに来ていると…。新型コロナ禍で3年になるが、今年はいよいよ百万遍もできないことになったと…。これからどのように対処して行くのかと(…仏さまに…)問われていると…。 令和4年は『トラ年』であるが、2月には、ロシアのプーチンが戦争を始めた。ウクライナのスラブ民族という兄弟の命を平気で奪っていると…。 7月には、昭和29年生まれの、お逢いしたことはないが、華々しい政治の世界の人が命を断たれた。無常を感じさせられ、お祖父さんとの繋がりを感じる。25~6年遡ったころに、霊感商法とか、何とか協会とかのことで、相談を受けた記憶があると…。当事者の子ども達がその気でいて、ご両親は手の施しようが無かったとの記憶であると…。 お互い、家族を想い、相手の立場を考えることが必要であると…。

  

島根県松江市出身の中村元先生の伝えられた詩があると…。 『目のある人は、盲人のごとくであれ。 耳ある人は、聾者のごとくであれ。 知慧ある人は、愚鈍なる者のごとくであれ。 強い者は、弱い者のごとくであれ。 (中村元訳・ブッダの言葉より・テーラーガーター501)』 仏さまは、相手の気持ちになれとおっしゃっていると…。今年もご先祖さまにはよろこんでお帰りになっているとお伝えし、身も心も健やかにとお祈りさせていただきますと…。

  

新型コロナウイルス感染症は、新たな『BA5』なる変異株の感染力が強いこともありますが、社会的規制を実施していないことがあって、第7派の襲来による局面がピークを迎えています。 新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。そして、今年こそインフルエンザなみの対策で済ませることが叶うように願うものです。

(合掌)

管理人

熱中症に注意して御行清掃の日

先の日曜日、夏を控えての御行清掃の日、あれこれと日頃お世話になっていることばかり思い返し、今日こそはご恩の極々少しでもお礼したいと思いつつも、何をしても手間のかかる体になってしまい、思いのようにはなりません。それでも、皆さまに声をかけてはげまし戴いたこともあり、奥之院開基堂までお参りがかない、今日もまた感謝のことが絶えない日となってしまいました。お同行さまには、奥之院への参道に倒れたマツの古木(芯には松脂が蓄積)など伐採、白木堂をはじめ、多くの御堂の大掃除と、暑い中、熱中症とたたかいながらの作業をされており、感謝申し上げる次第です。曇り空の下でのことではありますが、蒸し暑く、何事においても、熱中症に注意しながらの作業となってしまうことでした。改めましてお礼申し上げます。

  

そして、親先生より7月は、「看脚下(履物をちゃんと揃えるくらいの余裕がなければ、生活が乱れ、人生まで乱れますよ。)」、といただきました。

その「看脚下」について、故・松原泰道老師の著「五十歳からの人生塾」に、次のような一節があります。ある時、修行を積んだ雲水が、大應(だいおう)国師(臨済宗妙心寺開祖・無相大師の師・大灯国師の師)に問います。「釈尊のご誕生については、『天上天下唯我独尊』とおっしゃったことなど史実は存じていますが、釈尊は、いま、どこにいらっしゃるのでしょうか?」と…。 この雲水は、学問の勉強でなく、生きた仏教を身に着けたいのです。仏像でなく、お釈迦様を目の前に拝みたいのです。大應国師は、雲水のひたむきな面差しを愛おしんで、静かにゆっくりと力をこめ、「看脚下『脚下(きゃっか)を看(み)よ』(照顧脚下ともいう)」と、明快にひと言で答えておられると…。 『脚下を看よ』とは、自分の足もとに気をつけよ、ということであると…。インドの修行者は歩く時、虫を踏み殺さないように、下を向いて足もとに注意すると…。このことから転じて、禅門では、自己反省から更に、自己の中に真理を求めることを言うと…。

  

この話は、同老師の禅語百選にもあり、中国・禅の開祖達磨大師から五祖・法演禅師とその三人の弟子が夜道を帰る途中、風のために灯りが消え、師は「一転語を下せ(暗夜を行くには灯火がなによりの頼り、それが今消えた、さあ、どうする?…)」と命じ、弟子たちはそれぞれの力量に応じて答え、その中で、仏果圜悟師(碧厳録の完成者)の「看脚下」が師の心に適ったとあると…。(中国・宋代の話)

  

新型コロナウイルス感染症は、新たな『BA5』なる変異種が格別の感染力であるとも聞くところであって、月末に開催の『盂蘭盆施餓鬼法要』については、新規感染者数が数百人という現状が減少傾向に転じない場合には、第7派の襲来を予想した対策に移行して行くこととされるやも知れません。その場合には、『ながれ焼香』方式で行い、百万遍供養などの人が密になりやすい事態を避けることで検討中とのこと…。新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

またしても急遽のお参り

先の日曜日、またしても急遽のお参りとなりました。突然の事と言いながら、毎度、毎度の突然のことであり、もはや「毎度のこと」にほかならぬと思う次第…、新緑の境内は、お同行さまの草刈り御行 (いつもありがとうございます) にて「くよし」の煙が青くたなびくなか、親先生にもご挨拶が叶い、ありがたいことです。そしてまた、本堂の裏山には、親子の「サル」の群れがあって、賑やかすぎるくらいでした。先日のNHKスペシャル (島根県三郷町のお話し) の「獣害転じて福となす」を思い起こします。

  

親先生より6月は、「不退転(後戻りできないという気持ちでがんばる。)」、といただきました。)

岩波仏教辞典(中村元先生他・編)によると、「不退転」とは「無退」とも訳し、修行において、退歩しないことを言い、「阿鞞跋致(あぴばっち)」と音写する…と。修行者がある程度の階位にまで達すると、もう二度と欲に染まり、迷いに苦しめられる状態に後戻りすることがなくなった堅固な心の状態を言う…と。 将来、仏陀になることが約束されて決して迷いの世界に転落することがない菩薩の心のあり方を言う…と、あります。

  

そして、仏説無量寿経、四十八願のうち、例えば四十七願には、世自在王仏が法蔵菩薩(未来の阿弥陀仏)の求めに応じ、二百一十億の仏がたの国々のすべてを目の当たりにお見せになり、また、法蔵菩薩は優れた願を起し五劫の長い間思いを巡らして浄土をうるわしく整える清らかな行を選び取られ、世自在王仏の求めに応じ、すべての人々に、次のような願を説き述べられた。――(原文で)…『設我得仏(せつがとくぶ)、他方国土諸菩薩衆(たほうこくどしょぼさっしゅ)、聞我名字(もんがみょうじ)、不即得至不退転者(ふそくとくしふたいてんしゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく) とあり、―― (現代文で)…もし私が仏となった時、他方の国土の諸々の菩薩たちが、私の名を聞いて、すぐに悟りへと至って、退くことがない、ということがないならば、私は正しい悟りを得ることはしません。――』と、訳されています。

また、仏説無量寿経・四十八願のうち、最後の四十八願には、――(原文で)…『設我得仏(せつがとくぶ)、他方国土諸菩薩衆(たほうこくどしょぼさっしゅ)紋、聞我名字(もんがみょうじ)、不即得至第一第二第三法忍(ふそくとくしだいいちだいにだいさんほうにん)、於諸仏法(おしょぶっぽう)、不能即得(ふのうそくとく)、不退転者(ふたいてんしゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく) とあり、 ―― (現代文で)…もし私が仏となった時、他方の国土の諸々の菩薩たちが、私の名を聞いて第一音響忍、第二柔順忍、第三無生法忍の三忍へと速やかに到達し、諸々の仏法の位において退くことがない、ということができないならば、私は正しい悟りを得ることはしません――』」と、訳されています。

  

そして、無量寿経の最後の部分には、『釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。「如来がお出ましになった世に生まれることは難しくその如来に会うことも難しい。ましてこの教えを聞き信じて保ち続けることは最も難しい事であってこれより難しい事は他にない。そうであるから、私はこのように仏となり、様々なさとりへの道を示し、遂にこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただ、これを信じて教えのままに修行するがよい。」 釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、皆この上ないさとりを求める心を起した。

 一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得て、二十二億の天女や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、様々な功徳を積んでその身に備え、やがて仏となるべき身となったのである。その時、天も地も様々に打ち震え、大いなる光明は広く全ての国々を照らし、実に様々な音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。釈尊がこの教えを説き終わられると、弥勒菩薩をはじめ、様々な世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集う全てのものは、その尊い教えを承って誰一人として心から喜ばない者はなかった。』と、あります。  『不退転』とは、修行される菩薩の方々の決意であり、その名を冠した位であること…と。仏さまの世界は、遠い遠い先にあるらしいとのこと…もっと驚くことには、『劫』とは、一つの宇宙が始まって消滅するまでの時間らしい…。または、四十里四方の岩を天女が3年に一度舞い降りて衣の袖で払い、岩がすり減って無くなるまでの時間とも…。インド哲学の広大な宇宙観に、驚くばかりです。また、その時代、文字文化が無く、お釈迦様入滅後約1000年もの間、8万4千部もの法が口伝に依って伝承されたとあり、さらなる驚きです。

  

新型コロナウイルス感染症は、いよいよ減少傾向ですが、その先は油断大敵のように感じます。ワクチン接種が進んでいますが、他方では熱中症のこともあり、マスクを外すことも考えられているもようです。しかし、オミクロン株の後遺症は、重篤なものであるとのこと、クラスターが発生しそうな規模の集会には参加しないか若しくは徹底した対策が必要ではないでしょうか…。やはり、普段からの努力が不可欠、マスク、手洗い・消毒、密にならないなど基本を守りつつ、適切な換気対策の上でのマスク中止など、工夫したいものです。 新型コロナウイルス禍の撲滅、一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

お留守の間のお参りでした

親先生はお留守でしたが、ボランティァ作業やどうしても御祈願をお願いしたいことなどあり、どうしてもお参りさせていただくこととしました。久し振りの境内は、「もうすぐ夏」の装いで、やや薄い緑と黒々した濃い緑、ほっとするような、溜息のでるお山です。カキツバタ、白いカラー、躑躅などが目にとまります。1月に初護摩をいただいてからあっという間6カ月でした。

  

親先生より5月は、「知足(今あるものに目を向ければ満足のいく生活がある)」、といただきました。)

「知足」について、まず、仏教名言辞典(奈良康明編)には、次のようにあります。「知足(ちそく)の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽(あんらく)なりとす。不知足(ふちそく)の者(もの)は天堂(てんどう)に処(しょ)すと雖(いえど)も亦(また)意(こころ)にかなわず。不知足(ふちそく)の者(もの)は富(と)めりと雖(いえど)も而(しか)も貧(まず)し」と…。

(原文)「知足之人、雖臥地上、猶爲安楽、不知足者、雖處天堂、亦不稱意。不知足者、雖富而貧。」(仏遺教経・後秦の鳩摩羅什訳)

(解説)  「足るを知る人は地上に寝るような境遇であっても幸せな人であり、足ることを知らない人は、天上界の宮殿のような立派なところに住んでも満足できない。足るを知らない人は、いかに財産があっても心は貧しいものだ」と…。    この文には、前段があり、「若し、諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。」と説かれ、足るを知るということは、人生を幸せに生きるうえで最も大切なことであることが示され、これに続いて、知足の人と不知足の人との心の違いや生活態度が対比して説かれている。…中略…「不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の憐憫するところとなる」と説かれているように、いくら富があっても満足しないものは、金銭上の不満だけでなくて、五欲つまり食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲、の奴隷となり、それらの欲望にひきずられて、貧しくとも足るを知る人から逆に憐れみを受けることとなると…。

  

また、故松原泰道師の「禅語百選」には、「知足」につき、釈尊が亡くなる時の最後の説法「遺教経」に『八大人覚』と説かれており、(注:ここで『大人』は、仏道修行者をいう)  彼らが固く守って修行すべき八項目とは、「少欲(多くの利を求めない)」、「寂静(静かな処に住す)」、「精進(進んで努力して退かない)」、「不忘念(法を守り忘れない)」、「禅定(心を乱さない)」、「修智慧(智慧を修める)」、「認識(正しく考える)」の七つに「知足」を加えたもの。それぞれ独立した必修項目であると共に、それを修めることによって、最後の「知足」を身につけることになると…。

また、同松原泰道師の一冊には、松江藩主で茶人の松平不昧公につき、「茶の本意は知足をもととする。茶道は分々に足ることを知るという方便なり。足ることを知れば、茶を立てて不足こそ楽しみとなれ」と、茶によって「知足」を行じて知恵を身につけよ」と示しておられるともありました…。

  

宗祖上人様の語録「心のともしび」にも色々とありました。そのひとつに、「不平不満をのけて、ありがとうございますという感謝の一念を持って、孜々(しし)として(熱心に励む様子)精進して行くならば必ず授けてくださる。いただくまいと思うても、向こうから授けてくださる…とありました。日々支えられて生きております。ただ、ただ、感謝ばかりです。

   

新型コロナウイルス感染症は、これから上手く付き合って行くことになりそうです。マスクの外し方(外して良い場所)など、提案される模様であり、4回目のワクチンと共に、この夏の暮らし方に方向が示されることになりそうです。それでもやはり、手洗い・消毒・密にならないなど基本を守って、ワクチンを行き渡らせることで、後遺症の心配を無くしたい、コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。

(合掌)

管理人

境内はもえぎ色

今月も多忙につき、急遽のお参りとなりました。先の彼岸永代経から1か月も経っていないのに、お山は黄緑色、まさに「萌木色」です。先週は、夏日もありました。そして快適な温かさ、今から夏の暑さを予感させるお参りとなりました。そして、お同行さまには、新緑の中にあって、草刈り、剪定など、忙しくしておられ、いつもながら、感謝の気持ちいっぱいです。休耕田には黄色い菜の花が一面に咲き誇り、モミジの花にミツバチが飛び交う様は、楽園を思わせてくれます。

  

親先生より 4月は、「般若(誰の中にも「仏の心」がある。正しい生き方は、すでに仏の心が知っている)」と、いただきました。  「般若」は、よく耳にします「般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)」に出てくる「般若」です。松江市出身の故・中村元先生は、仏教語源散策の中で、次のように説いておられます。般若と言うと恐ろしい形相をした鬼女の面を連想する人が多いが、奈良の般若坊という面打ちが始めたということらしいと…。般若は、サンスクリット語で、「プラジュニャー」、その俗語で「パンニャー」、〝悟りを得る真実の智慧〟〝全てを全体的に把握する智慧を意味すると…。…(中略)…菩薩の修行法として、六種の波羅蜜(完成)があげられている。それが六波羅蜜であって、「六種の完成」とは、(1)布施(ダーナ)の完成、(2)持戒(シーラ)の完成、(3)忍辱(クシャーンティ)の完成、(4)精進(ヴィーリヤ)の完成、(5)禅定(ディヤーナ)の完成、(6)智慧(プラジュニャー)の完成であると…。すなわち、第六番目の智慧の完成が般若波羅蜜(プラジュニャー・パラミダー)である。般若波羅蜜とは、完全にして最高の智慧であり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五波羅蜜は方便(手段)としての実践活動にほかならない。対して般若波羅蜜は、直接悟りに結び付く別格の波羅蜜で、他の布施などの五波羅蜜を成立させる根源的な叡智である…と。般若経という膨大な大乗経典があると…。玄奘三蔵訳の『大般若波羅蜜多経』(大般若)六百巻のように諸経典を集大成した一大業書もあれば、『般若波羅蜜多心経』(般若心経)のように小部の者もあり、一律に論じられないが、いずれも菩薩の修行法としての般若波羅蜜を口を極めて褒め讃えていると。釈尊といえども過去世に般若波羅蜜を修行して仏陀となられたと…。

  

また、日本画(草絵作家)故・芘田圭子氏(大阪出身・1949年真言宗善通寺派大本山隋心院にて得度)の『心経百話』には、次のようにあります。――第三話 般若…… 般若は仏の智慧であります。 何度か繰り返すうちに覚えてください。 仏の智慧とはどんな智慧でありましょうか。 本当の仏の智慧を探してみましょう。 見つかるかどうか私の方法で探してみましょう。 何日か前、小さい小さい浅い緑豆のような一粒が土からのぞきました。 その小さい粒は少しづつ膨らんで口を開きました。 私たちに口があるようにその小さい粒にも口があったのです。 それは草の芽でありました。 私たちの口に歯があるようにその小さい粒にも葉が見え出したのです。 それは草の芽でありました。 その芽の歯は葉でありました。 そうです。口や歯だけでなくその葉の芽は私たちにある目のように草の芽として伸びはじめたのです。 いまに私たちに鼻があるように草にも花という華がるのが分る日がきますね。 それは日本さくら草です。 花だけではありません。 樹も、石も、苔もみんなみんな。 みんな生き生きしています。 いまここにあるもの、ここだけでなく、そこにあるもの、それが般若なのです。それがそのままに。――

  

そして、あとがきとして、――日の出を見て、日本もインドも同じ仏さまを拝んでいるのだなと思うと…。それは、お釈迦さまも、真言の大日如来もインドからお迎えしているからであると…。ところで、世界で一番古い宗教…ゾロアスター教のご本尊は「マズダ」というと…。「マズダ」とは、アフラ・マズラ、即ち智慧と光のことであり、般若(仏)と日輪のことになると…。キリスト教(旧教)の唯一神エホバは、「ヤハウエ」のことであり、すなわち「雷さま」のことであると…。シナイ山に住まいし、閃光をもって岩に十戒を刻んでモーゼに示したと…。イスラム教では、天のお告げコーランと旧約聖書を使っていると…。恵みを与えてくださる日輪、悪を退けてくださる雷さま。世界中が同じ神仏を頂いているのであって、同じ親から生まれた子供のようなもの…、人類も宗教もどうして仲良くできないのかと…。  さいごに、ウクライナの皆さまが、心安らかに暮らせる日を願ってやみません。

新型コロナウイルス感染症は、第7波に入った模様であると県知事さまの話がありましたが、同館であります。オミクロン株も、BA2、XEと、変異しつつあり、感染が益々早くなっていると…。爆発的流行があるような予感がしています。やはり、基本が大切ではないでしょうか。 手洗い・消毒・密にならないなど基本を守り、ワクチンを行き渡らせることで、後遺症の軽減化を確実にしてから、次の策を進めたいものと…。新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を強く願うものです。まずは、この一年を無事に乗り切りたいものです。

(合掌)

管理人