冬らしい日・ご恩日法要

寒気のため小雨も降るなか、ご恩日法要にお参りさせていただきました。一週間前まで赤く染まっていた紅葉もすっかり葉が落ちて冬らしい景色・・・。水仙や、万両など早春の花が出番です。

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このところ、お斎はバイキングですが、今日は、シチュー、おでん、チャウダー、豆パン、その他いろいろとあり、大変なご馳走でした。いつもながら言葉にならない美味しさです。感謝です。

 

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そしてまた、今日の百万遍供養では、大念珠の頭に坐するようにいただきました。先月に山深いところから平地までお墓を移させていただいたことがあり、ご先祖さまにご安堵をいただいているか、また、そのことも含めて廻向させていただければと思うままのほんとうに有難いことでした。

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親先生の12月のおことばは、「一日一生(いちにちいっしょう)」、今日の一日は、一生の一日でなく、日々がわが一生であると。

天台宗の大阿闍梨・酒井雄栽師によると、「何も変わらないように見えても、自分自身はいつも新しくなっている。毎日生まれ変わっていて、一日だって同じ日はない」、「だから、「一日が一生」と考える。今日一日、全力を尽くして明日を迎えようと思えてくる」、「生まれ変わったと考えれば、きのう(過去)のイヤなことは忘れて、心機一転、一日を始めることができる」と。「生きるのは、今日一日と考えれば、限られた時間を大切にできる」と。

また、西行法師の漢詩(らしい?)に、「非晴非雨睡蓮天(晴れにあらずと雨にあらずと水連は咲く」「非山非林在家仙(山にも林にも在家の仙人はいない)」「一日一生興無究(毎日人生に興が尽きることはない)」「老楽唯在行至善(老いての楽しみはただ善を尽くすことにある)」とあるそうです。ここでの「一日一生」は、日々生き生きして興味津々の毎日が人生と思われます。この漢詩のように、善を尽くす楽しみがいただけたらと思うものです。

合掌

(管理人)

 

 

一年間御礼清掃日

先の週末は、御行させていただきくことが出来感謝でした。暖冬で冬支度を控えていた紅葉も、やっと色付き、参道の落葉は掃除する手を止めてしまうほどでした。

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暖冬ではありますがその一方で嵐となると大変な強風で、境内では多数の杉の木の小枝が折れ落ちていて、掃除も大変でしたが、参道のあちこちで落葉を燃やす煙があがったものでした。このたき火には「おイモ」が入れられ、皆さんで焼きイモを美味しく頂戴したものでした。

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作業の後は、お斎でした。バイキング方式とのこと、メインのカレーのほか色々な惣菜やデザートなど、大変美味しく戴きました。感謝…。

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ただ、本日の御行のご同行さまには、都合で、作業のみで帰られた方々も多数おられました由、このようなバイキングの方が無駄がないのかもしれないと思うものでした。

合掌

(管理人)

暖かい晩秋

久しぶりのお参りでした。今年の秋は暖かく、風邪気味の体にも心地よいほどでした。蔦などが色づいているものの、紅葉は未だ緑色が沢山で、落葉の絨毯に染まるのは来月になってからの模様です。

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親先生の今月のおことばは、「閑古錐」。「長い年月が生み出す円熟」であると。新しい錐(キリ)は先鋭で良く切れるが時には他人だけでなく自分も傷つけるが、年齢を重ね、鋭角な角が少しずつとれて円熟な人格となると。

白隠禅師は、著・『毒語心経』に、「徳雲(トクウン)の閑古錐、幾たびか妙峰頂(ミョウブチョウ)を下る。他の痴聖人(チショウニン)を傭(ヤト)って雪を擔(ニナ)って井戸を填(ウメ)る。」と、あります。 徳雲とは、妙峰山の住人徳雲比丘のこと。痴聖人は、おろかではなく、「愚」に徹した聖人のこと。

徳雲比丘は、修行を積んだ閑古錐というにふさわしい高層でしたが、高峰に安住することなく、娑婆世界に下りて、黙々と雪を担いで井戸に投げ込むという愚行を行ったと。

無駄なことであっても決めつけることなく、黙々と努力する・・・まずはそのような修行からさせていただくこと、まだまだ遠い閑古錐の心境であると思わせていただいたことに、先ずもって感謝したいものです。

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(合掌)

(管理人)

実りの秋

私事ながら此のところボランティア多忙で、やっと、お参りできました。お行の場である堂床山は紅葉の季節に衣替えを始めています。

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今日は、親先生もご不在でしたが、境内は、すっかり秋の気配で、柿の実が色づいていました。ご同行さまが枯葉を集めるなど熱心にお行されており、頭の下がる思いでした。

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花は、少くなくなりつつありますが、秋の花が一面咲いています。

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10月の親先生のおことばは、「明珠在賞(めいじゅざいしょう)」―探すことで磨かれる心の中の宝物―です。

明珠は、掌(たなごころ)にあるという禅語とのこと。弘法大師空海は、「般若心経秘鍵」にて、「それ、仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し、真如外にあらず、身を捨てて何かを求めん」と説かれたと。また、道元禅師は、「極楽は、眉毛の上のつるしもの、あまりの近さに見つけざりけり」と詠まれたとのこと。

むかし、お釈迦様は、辻説法について批判されたとき、「説法は、皆さんの心を耕しているのです。」と、答えられたとか、親先生のご法話によって、心を豊かにさせていただいているものとして、改めて感謝する次第・・・。

日々、鋤や鍬を持って一生懸命に働くことで、掌の中に明珠が生まれてくるということ。こつこつと足元の幸せを積むことに努力したいものです。

合掌

(管理人)

ご恩日・百万遍法要

秋季彼岸の二日目、ご恩日・百万遍法要にお参りさせて頂きました。境内は、秋の気配で彼岸花など初秋の花が咲き乱れていました。柿の実も赤く熟して食べごろです。

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いつものことながら、お斎もたいへん美味しく戴きました。お赤飯、おはぎ、ご同行様からの無花果、大粒ピオーネ、そして、素麺の吸い物も格別の美味しさで頂戴しました。本当にご馳走様でした。

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9月の親先生のおことば・・・「三衣一鉢(さんねいっぱつ)」・・・一所不住の仏道修行であると・・・。

昔、インドでは、仏弟子は三枚の袈裟かあればよいとされていた。それは、下衣(安陀会:あんだえ)、中衣(鬱多羅僧:うったらそう)、上衣(僧伽梨:そぎゃり)と言い、古い布を縫い合わせて作られたそうです。こうした三衣が袈裟となり、だんだんと形式化されていったと。

お釈迦様の頃の話で、お坊さまが、説法をして家々を回っているとき、大変良い話を聞いたお礼に、こんなものしか無いが、と、洗ってはあるものの、赤ん坊の糞に汚れて黄色くなった「おしめ」につかっていた布を差し出され、それを持ち帰ってつなぎ合せ着衣にしたそうです。これが袈裟の起源であり、糞掃衣(ふんぞうえ)と言い、基本は黄土色だそうです。布を施されたことから、ほどこしを「布施」する起源でもあるそうです。

曹洞宗開祖道元禅師は、「修行者は、三衣一鉢の外は財宝を持たず、居処を思わず、衣食を貪らず間、一向に学道すれば分々みな得益あるなり。その故は貧なるが道に親しきなり。」と、説かれたとあります。(正法眼蔵隋聞記)

お行させていただくもの、清貧をこころざし、執着を捨てねば・・・と、反省しております。

合掌

(管理人)

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百日紅・反魂草

お盆の終わった日、すべてを洗い流してくれそうな雨の後は、涼しさを感じる一日でした。

久し振りのお参りをさせていただき、心も洗われた思いでした。境内に咲く、夏の花も心を和ませてくれました。

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親先生の今月のおさずけは、「中道」、対立を超えまっさらな心の世界、であるとされています。

岩浪仏教辞典によると、中道とは、「相互に矛盾対立する二つの極端な立場のどちらからも離れた自由な立場(中)の実践(道)とあります。(中)は二つの者の中間ではなく、どちらからも離れ、矛盾対立を超えることであり、(道)はその実践・方法を示しているとのこと。

むかし、釈尊は快楽主義にも苦行主義にも片寄らない(不苦不樂の中道)に立ち、修行者が歩むべき道として、「八正道」の実践を説かれたとのことです。「正見(正しい見解)を持ち、正思(正しい思惟)をして、正語(正しい言葉)を使い、正業(正しい行い)をし、正命(正しい生活)を送り,正精進(正しい努力)をし、正念(正しい意識)を整え、正定(正しい精神統一)を行うこと」が八正道であり、「中道」の実践と説かれているとのことです。

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まっさらな心を少しでも取り返すべく、少しずつ努力したいものです。

合掌

(管理人)

 

盂蘭盆施餓鬼法要・結願百万遍法要

昨日、台風12号が接近中の暑い中でしたが、盂蘭盆施餓鬼法要、そして結願百万遍法要が厳修されました。

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親先生の御法話は、「ご存じのことと思いすが…」と、前置きしてのこの盂蘭盆会、施餓鬼会についてのお話でした。

施餓鬼ですが、私たちが亡くなると、その生前の功徳によって、次の世界の六道(地獄(ジゴク)、餓鬼(ガキ)、畜生(チクショウ)、修羅(シュラ)、人(ニン)、天(テン)の6つの世界)に振り分けられるそうです。「餓鬼」は、生前、欲深く嫉妬深い人が落ちるところで、常に欲望の炎で身を焼き苦しむ地獄の世界のことです。施餓鬼とは、字の如く、餓鬼に施すこと、まず水や食べ物を供え、読経廻向することは勿論、普段から全ての生き物に食べ物を分け与えるという心掛け、そして全ての生き物に気配りする優しさが大切とのことです。

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 百万遍法要      お斎の準備

 

お盆とは、「盂蘭盆(ウラボン)」のことを言い、「ウランバーナ」というインドの古い言葉で、逆さずりにされた苦しい状態を言うそうです。お盆の始まりについて、「盂蘭盆経」には、次のように書かれているそうです。

お釈迦様の弟子に目連尊者(モクレンソンジャ)という人がいて、神通第一と言われるほど神通力の優れた人でした。目連が、その神通力を使って、亡くなった母親の様子を見ると、餓鬼道に落ちて、体は痩せこけ、腹だけが膨らみ、食べ物は口にいれようとすると燃え上がり、もがき苦しんでいたのでした。母親は、生前、息子のためにと、欲心を持ち、すべてを施すことをしなかったため、餓鬼道に落ちていたのでした。

目連は、お釈迦様に相談すると、「安居(アンゴ)で雨季の間集まって修行していた僧侶たちが雨期明け(7月15日)で出てくるので、みんなに供養しなさい。そうすると母親は救われる」と言われ、多くのお坊さんを供養したと。その結果、母親は、餓鬼道から救われ、極楽浄土に生きることが出来たそうです。この供養のことが、お盆のはじまりですと…。

私たちの祖先も、餓鬼道に落ちて苦しんでいるかも知れないと…、私たちは凡人であり、知らずして欲深い行いをして、結果、餓鬼道に落ちて苦しむと…。そうした人々のために、普段から、善行を積んで、仏様の慈愛によって、餓鬼道で苦しむ人々を極楽世界へ導いていただくことを施餓鬼と言うと。

普段から、食べ物を大切にし、他に施し、分け与えあっていくという施餓鬼供養の心を日頃から大切にしたいものです。

合掌

(管理人)

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御行の日

天候の怪しいなかではありましたが、御山の清掃をさせていただきました。

奥之院からの境内の清掃、案内板の整備など、暑い中、皆さまご苦労さまでした。

 

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お斎は、夏野菜のカレーなど、いつものことですが、大変美味しくいただきました。

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親先生の7月のお言葉は、「直指人心」(じきしにんしん)、外に目を向けず,あれこれ迷わず、自分の心を、よく見つめなさいと・・・。

禅の始祖、達磨大師は、「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」と説かれたそうです。

(不立文字)文字や言葉によるのではなく、お行の体験によって体得せよ、(教外別伝)教えるとは、心から心に伝わるものであり、(直指人心)外に惑わされず、よく自分の心を見つめなさい、(見性成仏)心をよく見つめれば、すべての人の中に仏があることに気付くものだと・・・。

まずは、修行、そして、直指自心・・・感謝して、頑張りたいものと・・・。

合掌

(管理人)

 

紫陽花

やっとの思いで、お詣りしました御山では、紫陽花が満開で、心和みました。

本堂から、信徒会館の周りは、花いっぱいで楽しくなります。感謝。

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6月の先生のお言葉は、「自浄其意」でした。自ら、心を清らかにせよ・・・と。

昔、白楽天が道林和尚に仏の教えを問うと、和尚は、「諸悪莫作(しょあくまくさく)衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」(諸々の惡を為すなかれ・諸々の善を行い・自らその心を浄くする・これ諸仏の教えなり)と答えたと。そんなことは三歳の童子でも知っていると言うと、和尚は、三歳でも知っているが、八十の老翁も行うことが出来ないでいると自己に厳しくされたと。

親先生のお言葉に、少しでも近くなりたいものです。

合掌  (管理人)

高野山開創1200年大法要

開創1200年の節目にあたり、ご同行ご一同様と無事参詣できました。心よりありがたく思っております。

磯長山・叡福寺(親先生の高野山修行の砌のご縁)では、参拝と共に聖徳太子ゆかりの宝物殿を見学させて戴きました。

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又、高野山では、奥之院、金剛峰寺、壇上伽藍、万燈会、普門院など参拝することが出来ました。

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開創1200年という二度と無い機会に、お導きを戴き、深く感謝するものです。

合掌

(都合によりまして、代筆です/管理人)