遅くなりました…9月

溜りに溜ったアレコレを処理することが目的のようにお参りさせていただきました。暖かい秋とは言え、御山はすっかり秋の気配に包まれていて、季節の移ろいが心地よくまるで春めいているかのように心躍る高ぶりを感じていました。

親先生から9月は、「摂取不捨(せっしゅふしゃ): 仏がこの世の衆生、生きているものすべてを見捨てず、仏の世界へ救いあげる」と、いただきました。

「摂取不捨」は、「御宝前の行」として、作法にも定められ、それぞれに毎度の勤めにて熟知されていると思われることですが、その出典など再研してみたいと思うものです。 仏説観無量寿経には、次のようにあります。

  

…前略…

佛告阿難。及韋提希。此想成巳。次當更観。無量寿佛。身相光明。

【佛は、アナン及びイダイケに告げられた。この想成(そうじょう)して已(お)れば、つぎにまさに無量寿佛の身相光明(しんそうこうみょう)を観すべし。】

阿難當知。無量寿佛身。如百千萬億。夜摩天。閻浮檀金色。

【アナンまさに知るべし。無量寿佛の身は、百千万億の夜摩天(やまてん)。閻浮檀(えんぷだん)金色(こんじき)の如し。】

佛身高。六十萬億。那由他。恒河沙由旬。

【ぶっしんの高さは、六十万憶なゆたこうがしゃゆじゅんなり。】

眉間白毫。右旋婉轉。如五須彌山。

【みけんのびゃくごうは、みぎにめぐり、えんてんしている。ごしゅみせんの如し。】

佛眼如四大海水。青白分明。身諸毛孔。演出光明。如須彌山。

【佛眼は、しだいかいすいのごとく、青白ぶんみょうなり。みのもろもろの毛孔より、光明をえんしゅつする、しゅみせんの如し。】

彼佛円光。如百億。三千大千世界。於円光中。有百萬億。那由他。恒河沙化佛。

【彼の佛の円光は、百億の三千大千世界の如し。円光の中に於いて、百万億那由多恒河沙の化佛あり。】

  

 

一一化佛。亦有衆多。無數化菩薩。以為侍者。無量寿佛。一一相。有八萬四千相。隋形好。

【いちいちの化佛、また衆多あり。無數の化菩薩(けぼさつ)あり。もって侍者とする。無量寿佛に八萬四千の相あり。いちいちの相におのおの八万四千の隋形好(ずいぎょうこう)あり。】

以為侍者。無量寿佛。有八萬四千相。一一相。各有八萬四千。隋形好。

【もって侍者とする。無量寿佛に、八万四千の相あり。いちいちの相におのおの八萬四千の隋形好(すいぎょうこう)あり。】

一一好。復有八萬四千光明。徧照十方世界。念佛衆生。攝取不捨。

【いちいちのこうに復(また)八萬四千の光明あり。いちいちの光明、遍く(あまねく)十方世界を照らし、念佛のしゅじょうをば、せっしゅして、捨てたまわず。】

其光明相好。及與化佛。不可其説。但當憶想。令心眼見。

【その光明相好、及び化佛、具(つぶさ)に説(と)くべからず。ただまさに憶想して心眼をして見せしむべし。】

見此事者。即見十方。一切諸佛。以見諸佛故。名念佛三昧。

【此のことを見るものは、即(すなわ)ち十方一切の諸佛を見る。諸佛を見るをもっての故に、念佛三昧と名づく。】

作是観者。名観一切佛身。以観佛身故。亦見佛心。佛心者。大慈悲是。以無縁慈。攝諸衆生。

【この観を作(な)すをば、一切佛身を観ずと名ずく。佛身を観ずるをもっての故に、また佛心を見る。佛心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を攝(せっ)す。】

作此観者。捨身他世。生諸佛前。得無生認。是故智者。應當繋心。諦観無量寿佛。

【此の観を作(な)す者は、身を捨て他世に諸佛の前に生じ、無生忍を得ん。是の故に智者當に繋心して無量寿佛を諦観すべし。】

  

観無量寿佛者。従一相好入。但観眉間白毫。極令明了。

【無量寿佛を観する者は、ひとつの相好より入り、ただし眉間から白毫を観して極めて明了ならしめること。】

見眉間白毫者。八萬四千相好。自然當現。見無量寿佛者。

【みけんの白毫を見たもの、八万四千の相好、自然に當に現すべし。無量寿佛者を見る。】

即見十方。無量諸佛。得見無量諸佛故。諸佛現前授記。是為徧観。

【すなわち十方無量の諸佛を見る、諸佛現前に授記し、是を編観と為す。】

一切色身想。名第九観。作此観者。名為正観。若他観者。名為邪観。

【また一切色身想とし、第9観となづく。此の観をなす者は名づけて正観とし、若し他観するときは邪観と名づける。】

・・・後略・・・  

  

   近所の駆けつけお医者様によりますと、新型コロナ感染症は、グーッと減少している模様です。それに比べて、インフルエンザの大流行が始まりつつあるとのこと…。先に、インフルエンザの予防接種、余力があれば、コロナ対策とした方がよさそうです。

 もうひとつの懸念、それは、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。そして再びパレスチナ(ハマス)とイスラエル、次期世界大戦の様相が見え隠れして…不気味…。

(合掌)

(管理人)

 

 

遅くなりました…8月ブログ

今日は久しぶりのお参りで、体調が完全ではないものの心が逸ることの嬉しさで満ちているように感じられています。9月も半ばとなると酷暑の夏も落ち着きを取り戻し、比較的過ごしやすくなりつつあります。何時ものことですが、こころ和みます。難病を戴いてからおよそ10年、昨年末より徐々に不調個所の増加が気になることでしたが、リハビリの努力が良いはたらきをしてくれています。そして皆様のご支援が元気のみなもとであり、心より感謝し、有難くお礼申し上げるものです。 

ところで通所携行品の五木寛之氏の「百歳人生を生きるヒント」には、以下のようにありました。一つには、世界で初めての「核のゴミの最終処分」について、既に世界に先駆けて着手していること。二つには、「超高齢者社会の先駆け」として、既に世界の先頭にあるということ…。高齢者として健全に生きるための社会システムや思想や哲学を、どう築き上げて行けるかということ…。 世界から期待される国として50歳過ぎたらボーッしてはいられない…、「Japan as No.1」と言われた時代を彷彿とさせたいもの…。時代は、温暖化、水素社会、生成AIなど課題山積、一方では、70代「黄金期」学びの楽しさに目覚める時代」、80代「自分ファースト」嫌われる勇気を持つ時代」、90代「妄想のとき」郷愁世界に遊ぶ時代」であると…。戦後生まれの70歳代として、これからを頑張ろうと、思うところ…。

  

親先生から8月は、「同事《どうじ》 (自他の隔たりをなくし、つながりの中で生きること。) 」と、いただきました。

道元禅師の「正法眼蔵」・「菩提薩埵四摂法」に――以下のようにあります。

【原文】同事というは、不違(ふい)なり。自(じ)にも不違なり。他(た)にも不違なり。まず、このようにあります。

【解釈】同事(人・事物に同和す)の行というのはどのようなものに対しても平等の心で接し、特別なものを作らないということである。それは自分においても他人においてもことさらなる扱いをしないことである。

【解説】これは菩薩の大事な行として説かれる同事行について示した一節である。平等という言葉は、別に平凡と言い換えてもよい。平凡ほど私たちにとって大事な生き方は無い。但しそれは自己への厳しさや、努力・向上心に倦いた日和見(ひよりみ)的な現状維持の意味ではない。宗教はつねにこの平凡の一事の肝要さを教え、先人たちもまたそれを説き、みずからの生活を律し、「愚の如く、魯の如し」(中国唐代の禅者、洞山の語)という生き方に徹した。日本の大愚良寛もまたこの例に属する。日常の人生において、私たちは往々にしてみずからを特別扱いにすることを欲し、他にもそのことを要求してはばからない。

  

「特別」は、往々にして優越感を生み、それは権威主義を助長する。逆にまたそれは劣等感や悲劇の主人公を気取る別の意味での権威主義を生み、世を拗(すね)るものとなる。利己心に発するものであるがゆえに、利己心に発する「特別」は宗教にとっても、また私たちの人生においても警戒すべきものはないと言っていい。私たちは、それぞれがつねに抜群であろうことを欲して汲々(きゅうきゅう)たる人生の日送りをなしている。それは努力精進に見えて、実は名利に馳走しているだけの場合が多い。その証拠には、互いに支え合いの中で生き、生活していながら、そのことについては全く無自覚で、周囲への思いやりもなく、己のみの欲求の充足に突っ走っている現実がそれを物語っている。これも自他への深い洞察を欠いた一種の暴走族と言っていい。

  

平凡であれということは、怠情の勧めではない。己ぐるみの万人・万法(一切存在)を貫く共通普遍のいのちの事実に視点を置いた生き方の勧めである。このとき、努力・精進の意味が、前とまったく違った意味を持ち、行動となって現れてくる。脚下を照顧する歩みと、脚下を顧みずに天上ばかりに気を取られての歩みとの違いである。己のみの特別席を求めるエリート意識ほど鼻持ちならぬものはない。互いに席を譲り合いながら人生を旅し、しかもそのようなあい和同する歩みの中で、おのおのの分を尽くし、それぞれのかけがえのないいのちのひと時ひと時を琢磨しながら生きてゆく、そういう大らかな、ゆったりとした生き方を生きるべく努力したいものである。古人(前出・洞山)は、このような大らかにして自由無礙「主中の主」と並告げていると…。

  

近所の駆けつけお医者様によりますと、新型コロナ感染症は、グーッと減少している模様です。それに比べて、インフルエンザの大流行が始まりつつあるとのこと…。先に、インフルエンザの予防接種、余力があれば、コロナ対策とした方がよさそうです。

もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。そして再びパレスチナ(ハマス)とイスラエル、次期世界大戦の様相が見え隠れして…不気味…。

(合掌)

(管理人)

遅くなりました…7月ブログ

このところ体調の良い日もあり、半年遅れではありますが、ブログを書いてみました。7月9日(日曜日)は、御行清掃の日でしたが、家内も私も体調が悪く、お休みさせていただいておりました。境内の御山では、山水が川のように流れ下る様子がはっきりと見て取れ、この頃には「記録的短時間大雨情報」も出されていたものと思われます。大雨の中、お同行様には大変ありがとうございました。衷心より、感謝申し上げるより見当たりません。なお、今月は最終日曜日に厳修されました盂蘭盆施餓鬼法要につきましても、写真をアップしてみました。見苦しくもなっているように感じつつ、お許しを願って掲載させて戴いております。

  

親先生から7月は、「無常《むじょう》 (この世にあるすべてのものは、つねに移ろいて、一時もとどまることはない。) 」と、いただきました。

お釈迦の生きておられた紀元前2千数百年のインドでは、文字文化がなかったとのこと。その中で多くの記述が伝承され、中でも中村元先生による「感與のことば」の、「第一章、無常」には、42項に亘って整理されています。以下その一部を記します。

  

(感與のことば・抜粋)

さあ聞け――すべてを知りきわめた人・救い主・慈悲ぶかい人・最後の身体をたもつ人である仙人、尊師は次のように説かれた――  (途中、省略有り) 。

諸(もろもろ)のつくられた事物は実に無常である。 生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。 

何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか?―― (世間は)このように燃え立っているのに。 汝らは暗黒に陥っていて、燈明を求めようとしない。 

朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが朝(あした)には或る人々のすがたが見られない。 

老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。――熟した果実が枝から落ちて行くように。 

熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生まれた人はいつでも死ぬおそれがある。 

山から発する川(の水)が流れ去って遷らないように、人間の寿命も過ぎ去って還らない。 

眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者にとっては生死の道のりは長い。

  

男も女も幾百万人と数多くいるが財産を貯えたあげくには、死の力に屈服する。 

いくら財産を貯えても最後には尽きてなくなってしまう。高い地位身分も終には落ちてしまう。結びついたものは終には離れてしまう。 

生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業(ごう)の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。 

悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう。

大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。 

  

この世においては、過去にいた者どもでも、未来にあらわれる者どもでも、一切の生き者は身体を捨てて逝くであろう。智ある人は、一切を捨て去ることを知って、真理に安住して、清らかな行ないをなすべきである。 

この容色は衰えはてて、病の巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまうであろう。生命は終(つい)に死に帰着する。 

「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏にはここに住もう」と、愚者はこのようにくよくよと慮(おもんばか)って、死が迫って来るのに気がつかない。 

「わたしはこれをなしとげた。これをしたならばこれをしなければならないであろう。」というふうに、あくせくしている人々を、老いと死とが粉砕する。 

それ故に、修行僧らは、つねに瞑想を楽しみ、心を安定統一して、つとめはげみ、生と老い究極を見きわめ、悪魔とその軍勢に打ち克って、生死の彼岸に達する者となれ。

(以上、感與のことば)

  

新型コロナ感染症が、格下げになってから、カウント数は、減少している模様…。しかし、油断は禁物!守りがおろそかにならぬようお互いに気を付けたいものです。この冬は、インフルエンザも大流行の兆(山陰は要注意であると…)

 そしてまた、もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。プーチン氏も苦しいのだと思います。そしてイスラエルはハマスの攻撃を受け、世界大戦の様相が益々濃くなっている。防空壕を準備する時も近いのではなないかと…。皆で名案を考えたいですね。

(合掌)

(管理人)

 

梅雨の中休み?

ブログのアップをどうしたものかと思案しているとき、女房殿には、明日(7月初日)お参りさせていただきましょう…と、即決。梅雨はと言えば、九州、山口辺りで大雨の模様なれど、山陰地方は其の梅雨も中休みの模様です。旧本堂辺りでは、サルの群れがはしゃいでいます。梅、ビワか何かの果実を楽しんでいるように見えます。そして今日は、「御行花替えの日」でもあり、お同行様には、感謝申し上げます。国道あたりには蒸し暑さが籠っていますが(いつも思うことですが)、本堂や信徒会館は、風の通りが違っていて、蒸し暑いとき《涼しい》ことで、みんなで、生きいきしています。花たちは、いま、紫陽花(アジサイ)、ジンジャー、木槿(ムクゲ)など長く楽しめるものが、雑草を押し分けて元気にしていました。

 

親先生から6月は、「慈悲《じひ》 (美点や欠点にこだわらない愛情) 」と、いただきました。 【慈悲】は2021年6月、「中村元先生の新仏教語源散策」を取上げさせて戴いております由、今回は「仏教名言辞典・奈良康明編著」から引用させて戴くことにしました。

【慈悲・その1: 「弘法大師 空海(平安・774~853)の言葉;続性霊集・巻第四】より「苦を見て悲(ひ)を起(おこ)すは観音(かんのん)の用心(ようじん)、危(あやう)きを視(み)て、身を忘るるは、仁人(じんじん)の務(つと)むる所(ところ)なり。」】

【現代訳: 人の苦しみを見て慈悲の心を起こすのは観音の願いであり、他人の危ういのを見て、自身の身の危ういのも忘れて人を救うのは、慈しみ深い人の務めとするところである。】

【慈悲・その2:慧能(638-713)撰 『六祖大師宝法壇経』に、「諸水衆流は却って大海に入るも、海は衆水を納れて合して一体と為す。】とあり。

【現代訳:もろもろの川の流れは最後には海洋に入りこむが、海の方は多くの川の水を受け入れて、合わせて一つの海水としてしまう。】仏教の経典の中で最も知られているものは……、と聞かれたら、多くの人は、般若心経とこたえるであろう。特に薬師寺の管長・故・高田好胤(こういん)師は、「かたよらない心」、「こだわらない心」、「とらわれない心」、「ひろく、広く、もっと広く、これが般若心経の空の心なり」と、般若心経は、空の心を説き示したお経であり、大海の衆水を納れて一体とする素晴らしい働きは、何に例えたかと言えば、【六祖壇経はこの言葉に続いて、『六祖壇経』は、この言葉に【衆生の本性般若の智もまた是(かく)の如し】と、説いていると…。私たち人間は、このような般若の智慧を生まれながらにして持っている、というのが仏教の人間観である。「衆生の本性般若の智」という表現がそのことをはっきりと示している。生まれながらにしてもっている般若の智慧に目覚めたのが、釈尊の悟りであり、釈尊は、弟子たちにもこの般若の智慧に目覚めることを説かれた。目覚めてみれば衆生も仏なのである。

 

【慈悲 その3:宗祖お上人様の語録には、お上人様がおっしゃっておられますように、「いただくまいと思っても、授かるまいと思っても、「ありがとうございます、もったいのうございます」と、その気持ちがあったならば、必ず授けられる、いただくまいと思っても、いただかずにはおられない。 そして、授かるまいと思っても、授からずにはおられなくなるそうであります。自分の位置を見極めて、その位置で自分自身が助けられて、救われて、生きているということに、感謝の念を持つことが一番大事であると…。】

今日のことは、まず諸先達さまより様々にお伺いし、または目を通させていただく、その一つ一つがありがたく、感謝申し上げるものです…。

 

新型コロナ感染症が、格下げになってから、始めての中央での専門家会合が開かれたと聞いておりますものの夏には一つのピークが現れるとの予測が報じられており、油断はならぬと思うものです。 隣の中国でも、一部地域で流行の気配があると聞きます。 やはり、油断は禁物と思っていて、注意を忘れ去ってはいけないと心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)

むせ返る新緑の境内

先の日曜日、女房殿の遣り繰りにて久しぶりのお参りから叶いました。うれしく感謝の気持ちでいっぱいです。 64歳でパーキンソン症を発症してから、10年を遣り過ごしはしましたが、細かな不都合が多々出てくるようにもなり始めました。日頃よりみなさまには大変にお世話になっており、心よりお礼を申し上げ、これからのお掛けするであろうご迷惑の数々に先んじてお詫び申し上げるものです。 近年は、春が亡くなりつつあると感じることで、冬からいっきに夏へとジャンプしているものと強く感じることです……。境内のお山は噎せ返るような熱気を感じ、黄緑色の風のなか、まゆみ、カラー、アヤメ、遅咲きのツツジなどに目を細めて、ホッとするひと時です。しばらくの間、お行のお許しをお願いいたします。

  

親先生から5月は、「無垢徳《むくどく》 (求めれば、足りない。手放せば、足りる。) 」といただきました。 「無功徳」は、約6年前にも登場いただいています由、今回は、故・松原泰道老師の「百歳の禅語」を取り上げてみようと思います。 そして、「功徳」とは、「仏教用語」で、「善行、善い行いそのもの」をいうとあります。 布教のためインドから海路、中国を訪れた-禅の開祖-「達磨大使」、中国は「梁」の時代、梁の皇帝・「武帝」は、仏教を広め、寺を建て、僧を養い、仏像をつくり、写経をする。あらゆる善行をしてきたのだから、達磨大師がさぞ褒めてくれると期待していた……と、しかし結果、達磨大師は、武帝に対し「無功徳」と言ったとあります。 武帝の善行について、一つには、どんなに善い行いであろうと、何らかの善い報いがあるという功利的な考えがある限り、これを行ったならば何らかの善い報いがあるという期待がある、あるいは、自分のした行為を美化し、拡大化してエゴを満足させようとするような考えがある限り……、これには何らの善い報いは無いというものです。

  

それからもう一つ、「無功徳」が仏教的に矛盾しているのではないかということについては、仏教の思想には創造の神はおらず、人間の幸不幸は神によって支配されるものではないとされ……、結果は人間の行為によって決まり、「善い行い」⇒「善因善果」、「悪い行い」⇒「悪因悪果」と言うことになる。 良し悪しは別として、原因があって結果が生まれる、因果律が仏教の思想であるとして来た……、 これは釈尊が悟った仏教の根本となる考え方であり……、この「因果律」に照らすと、武帝の様々な善い行いを「無功徳」言うについては、この「因果律」を否定することになる。  今、この矛盾を解(と)かねばならないが、その解決策として、「因」と「果」の間には、空間的隔たりがあり、原因、イコール結果であるという「因即果」と成り得るという深いところまで仏教思想は進んでいるのだと……、すなわち、「因果一如」もしくは「因即果」であると……。 達磨大師は、これらの奥深い次元を抑えて、「無功徳」と言ったのだと……。つまり、「武帝よ、あなたは仏教のための様々な善行を積まれた。その善行がそのまま善い功徳となっている。それも、これ以外にないという功徳であって、更に、功徳を求める必要がない」と続けたのではないかと…、あります。

  話を発展させて、「原因」が「結果」を契機となるものとして「縁」がありますが、「因果一如」の考えでは、「縁」も「原因」とされていると……。

江戸時代に白隠という有名な禅師があり、その師匠は信州中野・飯山の人で、正受庵に住まいし、子弟の扱いの乱暴であったこと、噛んで含める厳しい教育をしていたと……。その厳しい教えは、正受禅師からだけでなく、村の人々からも口伝の形で、正受禅師にも伝えられた……。 その例が「一日暮らし」という釈尊も守ってきた生活の仕方であったと……。 禅の言葉で、「日々是好日」とも言いますが、その日が思いのとおりにはならないし、二元的には考えない。

作家の吉川英治さんは、「雨の日は、雨を愛し、晴れの日は、晴れを愛する……、」と、言う言葉を残されたと…。

同じ作家の武者小路実篤さんは、絵も好きで、サインと共に一言、添書きをされていたと……。それは「桃栗三年柿8年、達磨は九年で、俺は一生」とし、「俺は一生学び通す」と誓ったとのことです。

詩人の八木重吉さんは、「花はなぜ美しいのか……。ただ、一筋の気持ちで咲くからだと……。」

わたくしごととなりますが、「ただひとすじ…、との思いで、お行させていただきます」、

感謝申し上げます。

  

新型コロナ感染症は、ついに5類に移行されてしまいました。第九波については、よく分からなくしたというのが正しいのかもしれませんね。 最後は、自身の注意で、自身を守るしかいのでしょう……。 手洗いの励行、マスクの着用など、これまでもちょっとだけ注意深くするだけで違いが感じられるのではないでしょうか。 換気にはちょうど良い時節でもあり、頑張るところは頑張って、感謝しつつ、注意を忘れないよう心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナ、平穏の日々の一日も早く戻ることを祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)

境内は春・真最中 !!

ほんとうに久しぶりのお参りとなってしまいました…先の日曜日…久しぶりのお参りでした。 先ずは親先生のご配慮に感謝申し上げたいと思います。 季節は春爛漫、今年は総てが早春を一気に通り過ぎ、花々のかおりが心を高ぶらせてくれています。手遅れかと思っていた石楠花もこれから見ごろを迎える様子にて、最高潮の感動を独り占めしているとの嬉しい思いでいっぱいです。

  

親先生から4月は、「不自讃毀他戒《ふじさんきたかい》 (自分をほめて、人を見下さないこと) 」といただきました。  

【不自讃毀他戒】は2年前にも登場いただいておりますので、今回は正法眼蔵(増谷文雄・全訳注の受戒の巻を取り上げてみようと思います。 【現代語訳:(受戒の作法) また、さらに、まさに菩薩戒を受けるがよく、それが仏法に入るの順序というものであるという。 その菩薩戒を受ける作法は、久しく仏祖の奥ふかいところまで学び入ったもののかならず正伝するところであり、怠けおこたるものどものよく与り得るところではないのである。 その作法は、まずかならず、祖師を焼香礼拝して、菩薩戒を受けんことを請う。さて、その願いが聴許せられると、沐浴して身を浄め、新しいきよらかな衣服を着る、あるいは衣服を洗いきよめて、花を散じ、香をたいて、礼拝して敬をいたし、そしてその身に着ける。 それから、すべての仏像を礼拝し、また、三宝を礼拝し、長老を礼拝して、もろもろの障りを除き、身心を清浄ならしめる。その作法も、むかしから仏祖のやかたの奥ふかいところにちゃんと正伝せられている。】

…略…、 そして十戒の第七には、【原文:第七、不自讃毀他。汝従今身至仏身、此戒能持否。答云、能持。三問三答】、【現代語訳:第七、自己を讃え他人を毀(けな)さざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。 答えて云う。「よく保つ」…と。(三度問い、三度答える)…とあります。】 

  

上にいうところの十戒は、いずれも犯してはならない。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。 答えて云う。「よく保つ」…と。(三度問い、三度答える)  では、この事は、このように保つがよい。受ける者は三度礼拝する。

…略…、この受戒の作法は、まちがいもなく仏祖の正伝しきたったものである。丹霞(たんか)の天然禅師(てんねんぜんじ)や薬山の高沙弥(こうしゃみ)などもひとしく受持してきたものである。比丘戒を受けなかった祖師はあるけれども、この仏祖正伝の菩薩戒を受けなかった祖師は、いまだかってないのである。それはかならず受持するものなのである。 正法眼蔵、受戒。……とあります。

 

  

 

「梵網経」には、二種類あり、一つは初期仏教経典の「梵網六十二見経」、もう一つが中国撰述経典の「梵網経廬舎那仏説菩薩心地戒品」であると…。 「梵網経」は、上下2巻あり、上巻では、お釈迦様が廬舎那仏に代わって、このお経を説くという設定で、菩薩がなすべき四十の心の段階、(十発趣心、十長養心、十金剛心、十地) が説かれ、下巻では、「梵網戒」として、十重禁戒、四十八軽戒が説かれていると…。それは、不殺戒(ふせつかい)、不盗戒(ふとうかい)、不淫戒(ふいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不酤酒戒(ふこしゅかい)、不説過戒(ふせつかかい)、不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)、不慳戒(ふけんかい)、不瞋戒(ふしんかい)、不謗三宝戒(ふぼうさんぽうかい)、が説かれていると……。 管理人としましては、いずれ項目もとりこぼしの恐れあるに加えて、五番目の不酤酒あたりが、現実的困難を伴うものと心しております。 日々、努力させていただいておりますことと認識しているのではありますが……。

  

新型コロナ感染症は、希にゼロの日があるなど、収束にむかっているとの推測……。 3月13日からは、マスクの着用も本人の意思に任せられることになり、5月からはインフルエンザ同等に扱いも変わる模様です。 ただ、油断は禁物です。 自分のことは「人にうつさない」、「人からうつされない」とのことで、時と場所、状況を考慮して注意したいものです。  もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にあるウクライナのこと、平穏が戻る日を祈らずにはおられません……。

(合掌)

(管理人)

春の永代経 厳修

先々の日曜日は永代経法要厳修でありましたが、遣り繰りつかず、お参りは叶いませんでした。3月はコロナ禍とのたたかいや、不整脈との体力勝負でありましたが、何とか永らえておりますことにありがたく感謝でいっぱいです。ところで、永代経について、中村元先生外編著・「岩波仏教辞典」には、「永代読経」の略で、ご先祖などのために位牌をまつり、命日または毎月の忌日もしくは春秋の彼岸などに永代にわたって菩提寺で読経してもらうこと、とあります。そのようなことで、写真は当日撮影(令和4年版)ではないことをお詫びします。

  

親先生から3月は、「 不説過戒【ふせつかかい】 (人の過ちを非難しないこと) 」といただきました。  

【不説禍戒】は《大人の学びなおし・お経で学ぶ仏教・箕輪顕量著》によりますと、【梵網経】(梵網経廬舎那仏説菩薩心地戒品) の6番目に出てくるお話です。「梵網」とは、仏教界の神の一人「大梵天王」の網のことで、広大な網のあまたの穴に仏の教えの多様さをなぞらえているとあります。 梵網経は、上下2巻からなり、上巻では、釈尊が毘廬舎那仏に代わって『梵網経』を説くという場の設定、菩薩がおさめるべき四十の心の段階(十発趣心・十長養心・十金剛心・十地)などが説かれ、下巻では、梵網戒として、『十重禁戒・四十八軽戒』が説かれていると…。 その戒律のうち、十重禁戒は、『不殺戒(ふせつかい:殺さない)』、『不盗戒(ふとうかい:盗まない)』、『不淫戒(ふいんかい:性行為はいけない)』、『不妄語戒(ふもうごかい:嘘をつかない)』、『不酤酒戒(ふこしゅかい:飲まない)』、『不説禍戒(ふせつかかい:他人の過ちを非難しない)』、『不自讃毀他戒(ふじさんきたかい:自分を褒め他人をそしってはいけない)』、『不慳戒(ふけんかい:施しを惜しまない)』、『不瞋戒(ふしんかい:怒ってはいけない)』、『不謗三宝(ふぼうさんぽうかい:仏・法・僧をそしってはいけない)』であり、四十八軽戒は、細かな規定であるとのこと…。

  

そして「正法眼蔵」の「受戒」の巻には、【原文】「第六、不説出家菩薩罪過。汝従今身 至 仏身、此戒能持 否。答云、能持。」のように述べられており、その【現代語訳】(増谷文雄・全訳注)には、その受戒の作法として、「第六に、出家の菩薩の罪過を責めぬこと。汝は、今の身より仏の身に至るまで、よくこの戒を保つや、否や。答えて云う。よく保と…。(これを三度問い、三度答える。)・・・と、あります。

  

また、宗祖覚恵お上人様語録 『心のともしび』には、『そしる身になるな!』とありました。「そしられても、そしる身になっちゃいかんばい。泣かされても、泣かす身になっちいかん。嘘つかれても、だまされても、嘘を言う身、人をだます身になっちゃいかんぞ。人から笑われても、人を笑う身になってはいかん。」と、常々おっしゃっておられたとのこと。 どんなにそしってもぬかにくぎ。どんなにけなしても、豆腐にかすがいと言いますか、にこにこしていらっしゃる。腹立ちもどうもしなさらない。かえって、ありがとうございますと、お礼をしておられる。・・・とありました。 「かみしめ」ありがたくいただきました。

  

新型コロナ感染症は、我が家も感染してしまいましたが、近隣の方々にご迷惑を掛けることもなく、無事に収束にむかっております。 3月13日からは、マスクの着用も本人の意思に任せられることになり、5月からはインフルエンザ同等に扱いも変わる模様、ただし、油断は禁物と思っていて、注意を忘れ去ってはいけないと心得ておきたいものです。 もうひとつの懸念は、ロシアの侵攻の渦中にありますウクライナのこと、平穏が戻る日を祈らずにはおられません…。

(合掌)

(管理人)

めぶきの季節

この日曜日、天気も回復し、急遽、お参りさせていただきました。このところ慌ただしく、落ち着くことも必須、境内は既に杉花粉の黄緑色に染まりつつあり、親先生のお話では朝夕拭き取りしておられるとか…、大変な季節のひとつ、黙々と耐えて遣り過ごすことと…。そしてお山は、木々の新芽でしょうか、やや赤味を帯びて見えます。お堂の周囲には、馬酔木、梅、など白い花が目立ち、そこから山腹に向かって、今は、沈丁花、自生のやぶ椿など楽しめました。この日は花替えのお行をされたとのこと、お同行さまには、ありがたく感謝申し上げるものです。

  

親先生から2月は、「 惺惺着【せいせいじゃく】 (心を静かに保て) 」といただきました。  

この禅語は、『無門関』第十二則に出てくる話…。『無門閑』は中国、宋の禅僧・無門慧開(ムモンエカイ)和尚(1183-1260)による公案(禅の修行者に課せられる一種の試験問題)集、四十八則のひとつであると…。

――瑞巌(ズイガン)の彦(ゲン)和尚、毎日自(ミズカ)らを主人公(シュジンコウ)と喚(ヨ)び、  復(マ)た自ら応諾す。乃(スナワ)ち云(イワ)く、「惺惺着(セイセイジャク)、喏(ダク)。他時異日(タジイジツ)、人の瞞(マン)を受くること莫(ナ)かれ、喏。喏。」――

  

――秋月龍珉著・『無門関を読む』には、次のようにあります。――

【原文】瑞厳彦和尚、毎日自喚、「主人公」、復自応諾。乃云、「惺惺着。喏。他時異日、莫受人瞞。喏喏」。  無門曰… 瑞巌老子、自買自売、弄出許多神頭鬼面。

何故、聻。一箇喚底、一箇応底、一箇惺惺底、一箇不受人瞞底。認着依前還不是。若也傚他、総是野狐見解。    頌曰… 学道之人不識真、只為従前認識神。無量劫来生死本、痴人喚作本来人。

【現代語訳】「第十二則「瑞巌、主人公を喚ぶ。」  

「瑞巌(ズイガン)の彦和尚、毎日自(ミズカ)ら「主人公」と喚(ヨ)び、復(マ)た自ら応諾(オウダク)す。乃(スナワ)ち云く、「惺(セイ)惺(セイ)着(ジャク)、喏(ダク)。他時異日(タジイジツ、人の瞞(マン)を受くること莫(ナ)かれ。喏(ダク)喏(ダク)。

 無門曰…

瑞巌老子、自(ミズカ)ら買い自ら売って、許多(ソコバク)の神頭鬼面(シンズキメン)を弄出す。何が故ぞ。聻(ニイ)。一箇の喚ぶ底(テイ)、一箇応ずる底、一箇の惺惺底、一箇の人の瞞を受けざる底、認着(ニンジャク)すれば依前として還(マ)た不是(フゼ)。若也(モシ)他(カ)れに傚(ナラ)わば、総(ス)べて是れ野狐の見解(ケンゲ)ならん。

 頌(ジュ)に曰く…(六義の一つで宗廟にて神徳を賛美した楽歌)

学道の人(ヒト)の真(マコト)を識(シ)らざるは、只だ従前より識神を認むるが為なり。無量劫来生死(ゴウライショウジ)の本(モト)、痴人(チジン)を喚んで本来人と作(ナ)す…と。

  

―― 高橋浩著・『禅の知恵ものしり辞典』では、「瑞厳の師彦和尚は、毎日、自分のことを主人公と喚び、また自ら応諾す。すなわち云く、惺惺着。他時異日、そして、自分に向かって『心静かに保っているか』と問いかけ、自分で「ハイ」と答えている。――ここで、喚びかけている自分は、『日常の自己』、 答える自分は『本来の自己』、または『真実の自己』であると…。毎朝、いつもの自分から、心の奥のもう一人の自分へ喚びかけ、『惺惺着…。』と再確認、『心静かにできているか、ボーっとして騙されるな』と…、再び自身に問い直す。 日々の気付きに感謝し、そしてまた『惺惺着』をお導きいただいた親先生に感謝申し上げるものです。 『惺惺着』…日々傍らに置きたい禅語ではないかと…。

  

新型コロナは、2桁台の日が出てくるようになり、減少傾向にありますが、死者数が比較的多く、また、後遺症も重篤な人が多いなど、第5類への移行について、諸手を挙げての賛成には、蟠(ワダカマ)りの残るものではないかと。 経済中心の方向を考えておられるように感じておりますが、くれぐれも慎重な対応をお願いしたいものです。集会などへの参加では、手抜きすることのないように、基本を守って、マスク、手洗い、換気、距離を空けるなど、みんなで臨機応変に頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実にワクチン対策したいものです。 新型コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)

春風を感じて初護摩供祈願祭

先の日曜日は新春初護摩供祈願祭が厳修されました。当日は当初、冬の嵐、大雪の予想でしたが予報外れといいますか、季節外れの暖かさとなり、番狂わせのことともなりました。新型コロナ禍ということで、流れ護摩方式に変更となり、13:20開始のところを、正午から13:30までと変更されたものでした。会場の本堂・護摩壇周辺には郵送によって届けられたであろう大量の護摩木・添木がうず高く積まれ、護摩供御祈願を待つばかりでした。この場で御済度いただくとともに今年は「六地蔵尊御百度行場」にお世話になることとなりました。

  

親先生から1月は、「 柔和忍辱 【にゅうわにんにく】 (やわらかい心で周りに接すれば衝突を和らげることができる。) 」といただきました。 

奈良康明 編著 仏教名言辞典には、次のようにあります。【中国・隋・天台智顗(テンダイチギ538~597) 魔訶止観 巻四上】「如来の衣とは、柔和、忍辱の心是なり」『如来衣者、柔和忍辱心是』 《解説》仏教徒は、袈裟を着ける。如来の衣とは、この袈裟のことである。私たちはそれぞれの仕事に適した服を着る。例えば戦国時代の武将は戦には、鎧と兜で身を包む。仏は袈裟を着けた。仏の教団に加入するときは、頭を剃り袈裟を着けることが規則である。渋柿色に染めた大衣を袈裟懸けに着るのである。このような僧形は、柔和な心、忍辱の心の表現にほかならない。柔和とは、感性豊かな柔軟な心である。忍辱とは、屈辱にも堪忍して大願に生きること、辱めにも耐えるという意味である。(…以下、略……。)

  

また、妙法蓮華経法師品第十には、以下のようにあります。(前の部分…略……。)『薬王。若善男子。善女子。如来滅後。欲為四衆。説是法華経者。云河応説。是善男子。善女人。入如来室。着如来衣。坐如来座。爾乃応為四衆。応説斯経。如来室者。一切衆生中。大慈悲心是。如来衣者。柔和忍辱心是。一切法空是。安住是中。然後以不懈怠心。為諸菩薩。及四衆。広説是法華経。』 《訳文》薬王(薬王菩薩)、若し善男子、善女子あって、如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何してか説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入り如来の衣を着、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是なり。如来の衣とは柔和忍辱の心是なり。如来の座とは一切法空是なり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。『薬王。我於余国。遣化人。為其集聴法衆。』《訳文》薬王、我余国に於いて、化人を遣わして其れが為に聴法の衆を集め、『亦遣化。比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。聴其説法。是諸化人。聞法信受。隋順不逆。』《訳文》亦化の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして其の説法を聴かしめん。『若説法者。在空閑処。我時広遣。天龍鬼神。乾闥婆。阿修羅等。聴其説法。』《訳文》若し説法者空間の処に在らば、我時に広く天・龍・鬼神・乾闥婆・阿修羅等を遣わして其の説法を聴かしめん。・・・・・・(中、略)・・・

『若人説此経。応入如来室。著於如来衣。而坐如来座。処衆無畏所。広為分別説。大慈悲為室。柔和忍辱衣。諸法空為座。処此為説法。若説此経時。有人悪口罵。加刀杖瓦石。念仏故応忍。』《訳文》若し此の経を説かば、如来の室に入り、如来の衣を着て、而も如来の座に坐して、衆に処して悪びれる所なく、広く為に分別し説くべし、大慈悲を室とし、柔和忍辱を衣とし、諸法空を座とす、此れに処して為に法を説くべし、若し此の経を説かんとする時、人にあって悪口し罵り、刀杖瓦石を加わうるとも、仏を念ずるが故に忍ぶべし。・・・・・・以下、略・・・・・・

  

私事ですが、松原老師の「道元」、読みつつあります。「法華経には譬え話ばかりで思想がない」と言われるが、それは読み方の違いであると言っておられます。「柔和忍辱」の考え方は、法華経が起源であろうとも、「やわらかく、気持ちからやわらかく、お互いに心掛けましょう。そしてグッと我慢しましょう。言いたいことはお互いさまにあるのですが……。」 せめて「コロナ禍」の間だけでもと…、決心してみませんか。

  

新型コロナは、このところ島根でも連日1000人を超える日が続いており、死者数が多いことも心配なところ、すでに第8派に到っているものと推測されます。市からは、5回目のワクチン案内が届き、すでに5回目を完了したところですが、やはり、ここは、手抜きすることのないように、良く基本を守って、マスク、手洗い、換気、距離を空けるなど、みんなで頑張りたいものです。 インフルエンザ予防接種と共にコロナも確実に対策したいものです。コロナ禍の根絶を皆様と共に祈願したいものです。

(合掌)

(管理人)