当日は、一年間御礼清掃の日でしたが、生憎の天候で、私何ぞ遅刻ギリギリの駆けつけとなり、先生所有の4WDで送り迎えまでしていただき、心からの感謝です。今年は、水子地蔵さまの狭い間にも総代様の背負い式エンジンブロワーが入り、頼もしい限りです。境内も残すことなくきれいになりありがたいことです。雨天ながら、〝落葉のくごし〟も叶い、当初の雪模様も回避できました。感謝申し上げることです。
親先生より、12月は、「以心伝心」(いしんでんしん)『心と心を結ぶ、大切なもの』、といただきました。 現代能力開発(研)高橋浩所長・著、「禅の智慧・ものしり辞典」から頂戴しました。先ず、国語辞典には、「言わず語らず暗黙のうちに伝えること」とあります。実際我々は、「打合せの時間を取れなかったが、Aとは、以心伝心で会議を乗り切った」というように使うことが多い、と・・・あります。
禅語としての「以心伝心」は、やや意味が異なると…。〝Aの意思が無言のうちにBに伝わる〟ことではなく、〝Bの仏性(自己に本来そなわっている仏性)をB自身に悟らせる〟ことを意味しているからである。つまり、自悟させることが真に伝えることである、という発想法から生まれた言葉なのである。
この典型例は、ブッダと迦葉との間にみられる。ブッダは、迦葉に目配せをしたのでなければ、咳払いをしたのでもない。みんなの前で、蓮華(れんげ)を拈(ひね)っただけであるが、迦葉は自分で己の仏性を悟り、微笑したと…。以心伝心が成立したのである。迦葉の(ブッダの…、ではなく)心を以って、迦葉の心を迦葉の心に伝えたのである。
ブッダ自身は、『以心伝心』という言葉を使わなかったようであるが、現在の禅の開祖である達磨(だるま)大師は、以上のことを自覚的にとらえ、何度も口にした。達磨の著とされる『血脈論』では、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といっしょに、この語を並べている。『円覚経(えんがくきょう)大疏鈔(だいそしょう)』(圭峰宗密(けいほうすみつ)著)によると、達磨は仏法の基礎とすら考えていたらしい。すなわち、「大師答えて伝く、我が法、以心伝心、不立文字を以(もっ)てす。」とである。「大師」とは達磨のこと。宗密は別の著『禅源諸詮集都序』で、達磨のこの答を説明する。「達磨は法を天竺(インド)に受けて……但(た)だ心を以て心を伝うるのみにして、文字を立てざりき」、というようにである。
「以心伝心」を強調したのは、もちろん、達磨ばかりではない。『伝心法要』(黄檗希運の語録)では、「以心伝心」を「正見(しょうけん)」(真正の見解(けんげ))とすら言ってのける。「故に学道の人は直下(じきげ)に(ズバリ)無心にして(無心になって)、黙契(もくかい)するのみ、心を擬(ぎ)すれば(心の志向・はからいが働けば)即ち差(たが)う。心を以て心を伝う、此れを正見と為(な)す」、というようにである。「黙契」とは、言語道断の項で説明したように、師と弟子が、言句文字を離れて意思を通じ合う〟ことだ…。
このように見ていくと、「以心伝心」が大層高度なものであることに気付くであろう。第一に、師の方が正師でなければ、これは成り立たない。弟子が悟ったのを気付かないようでは、ブッダが迦葉に言ったようには言えないからである。第二に、弟子の方も教えてもらうのではく、自分で悟るのだから、よほどの修行が必要になる。弟子が師のレベルに達し、師もそれを認識する目を持っていて、初めて「以心伝心」となるのである。
そうして、この「以心伝心」で、ブッダ、迦葉、……と、現代まで続いて来たのである。
(以下、略…。)
(合掌)
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