令和6年12月のブログ

当日は、一年間御礼清掃の日でしたが、生憎の天候で、私何ぞ遅刻ギリギリの駆けつけとなり、先生所有の4WDで送り迎えまでしていただき、心からの感謝です。今年は、水子地蔵さまの狭い間にも総代様の背負い式エンジンブロワーが入り、頼もしい限りです。境内も残すことなくきれいになりありがたいことです。雨天ながら、〝落葉のくごし〟も叶い、当初の雪模様も回避できました。感謝申し上げることです。

  

親先生より、12月は、「以心伝心」(いしんでんしん)『心と心を結ぶ、大切なもの』、といただきました。 現代能力開発(研)高橋浩所長・著、「禅の智慧・ものしり辞典」から頂戴しました。先ず、国語辞典には、「言わず語らず暗黙のうちに伝えること」とあります。実際我々は、「打合せの時間を取れなかったが、Aとは、以心伝心で会議を乗り切った」というように使うことが多い、と・・・あります。

禅語としての「以心伝心」は、やや意味が異なると…。〝Aの意思が無言のうちにBに伝わる〟ことではなく、〝Bの仏性(自己に本来そなわっている仏性)をB自身に悟らせる〟ことを意味しているからである。つまり、自悟させることが真に伝えることである、という発想法から生まれた言葉なのである。

この典型例は、ブッダと迦葉との間にみられる。ブッダは、迦葉に目配せをしたのでなければ、咳払いをしたのでもない。みんなの前で、蓮華(れんげ)を拈(ひね)っただけであるが、迦葉は自分で己の仏性を悟り、微笑したと…。以心伝心が成立したのである。迦葉の(ブッダの…、ではなく)心を以って、迦葉の心を迦葉の心に伝えたのである。

ブッダ自身は、『以心伝心』という言葉を使わなかったようであるが、現在の禅の開祖である達磨(だるま)大師は、以上のことを自覚的にとらえ、何度も口にした。達磨の著とされる『血脈論』では、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といっしょに、この語を並べている。『円覚経(えんがくきょう)大疏鈔(だいそしょう)』(圭峰宗密(けいほうすみつ)著)によると、達磨は仏法の基礎とすら考えていたらしい。すなわち、「大師答えて伝く、我が法、以心伝心、不立文字を以(もっ)てす。」とである。「大師」とは達磨のこと。宗密は別の著『禅源諸詮集都序』で、達磨のこの答を説明する。「達磨は法を天竺(インド)に受けて……但(た)だ心を以て心を伝うるのみにして、文字を立てざりき」、というようにである。

  

「以心伝心」を強調したのは、もちろん、達磨ばかりではない。『伝心法要』(黄檗希運の語録)では、「以心伝心」を「正見(しょうけん)」(真正の見解(けんげ))とすら言ってのける。「故に学道の人は直下(じきげ)に(ズバリ)無心にして(無心になって)、黙契(もくかい)するのみ、心を擬(ぎ)すれば(心の志向・はからいが働けば)即ち差(たが)う。心を以て心を伝う、此れを正見と為(な)す」、というようにである。「黙契」とは、言語道断の項で説明したように、師と弟子が、言句文字を離れて意思を通じ合う〟ことだ…。

  

このように見ていくと、「以心伝心」が大層高度なものであることに気付くであろう。第一に、師の方が正師でなければ、これは成り立たない。弟子が悟ったのを気付かないようでは、ブッダが迦葉に言ったようには言えないからである。第二に、弟子の方も教えてもらうのではく、自分で悟るのだから、よほどの修行が必要になる。弟子が師のレベルに達し、師もそれを認識する目を持っていて、初めて「以心伝心」となるのである。

そうして、この「以心伝心」で、ブッダ、迦葉、……と、現代まで続いて来たのである。

(以下、略…。)

(合掌)

(管理人)

遅くなりました…令和6年11月のブログ

親先生より、11月は、「破顔微笑」(はがんみしょう)『顔をほころばせて、にっこり笑う』、といただきました。(秋月 龍民(Akizuki ryoumin)著・「無門関を読む」より)

  

世尊は、昔、霊鷲山(りょうじゅせん)の集会で、華を取ってみんなに示されました。そのとき、みんなは黙っていましたが、ただ迦葉(かしょう)尊者(そんじゃ)おひとりだけが、にっこり微笑(みしょう)されました。そして、世尊は言われました。

「私に正法眼蔵(しょうほうげんぞう)・涅槃妙心(ねはんみょうしん)・実相無相(じっそうむそう)という微妙(みみょう)の法門がある。不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)というやり方で魔訶(まか)迦葉に付(わた)した。迦葉、嘱(たの)んだぞ」

世尊(シャーキャムニ・ブッダ)は、むかし、霊鷲山の集まりで、一枝の花を取り上げて、大衆の面前に示されました。そのとき、人間天上八万四千の大衆は、せきとして声なく、みな黙然(もくねん)としているだけでした。ただ迦葉尊者がおひとり、それを見てにっこり微笑されました。世尊は言われました。「私に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相という微妙の法門(おしえ)がある。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうがいべつでん)という仕方で、私は今これを魔訶迦葉に付嘱した。  

注) 拈華微笑は、お釈迦様のなされたことが、拈華(つぼみをつまむ)であったと、そして、迦葉尊者は、それに答えて「破顔微笑」されたのでしょう……。

  

本文は、禅の起源といわれる有名な公案で、「四十九年、未顯真実」、きょうこそこれまで、四十余年の説法で顕(あらわ)さなかった、とっておきの説法をするとのことで、どんなにか奇特な教えがあるのかと期待して待ち望んでいた大衆の面前にその日の大梵天王(だいぼんてんおう)という在家の信者が供養した一枝の金波羅華(こんぱらず/蓮の花の一種)を世尊は黙ってただスっと示されました。皆様には、すでに天龍「一指頭の禅」でおなじみのところであり、見抜かれたこととぞんじます。その「拈華」の端的に「正法眼蔵・涅槃妙心」そのまま全体露現であることを皆さま見抜かれたことでしょう。そのときの世尊の「拈華」を、ひとり迦葉尊者だけが、にっこり「微笑」して受け止められたのでした。

唯仏与仏――ただ仏と仏――両鏡相対(りょうきょうあいたい)して中心影像(ようぞう)なしです。

このようにしてはじめて大法は、師から弟子へと相続されるのでした。そのとき文字を立てず、教えの外に別に伝える(教外別伝)という「以心伝心」というやり方で、いま法を迦葉に付した迦葉よ、嘱んだぞ、と言った釈尊でありました。

これ以後、伝統の禅の印可のあり方は、師は、ただ弟子が自分と同じ境涯に到達したときに、「そこだ」と、そのことを証明するだけなのです。禅は「仏心宗」と称し、「仏教の総府」と言います。釈尊から迦葉へ、迦葉から阿難(あなん)へと「仏心」を伝え、西天の四七すなわち達磨大使は初祖迦葉尊者から、四・七=二十八番目の祖師であり、そして東土の初祖達磨から、慧可(えか)へ、慧可(えか)から僧璨(そうさん)へ……と、東土の二・三すなわち達磨大師から六代目の六祖慧能(えのう)禅師にいたって、ほんとうに中国化した禅となったと、あります。

今日の学者は、釈尊の仏法をいわゆる原始経典の中にだけ探ろうとします。そして禅宗などは、釈尊の根本仏教から見れば、はなはだしく変容されたものだと言うと……。しかし、大乗仏教が「非仏説」であろうとなかろうと、こうして人から人へ、仏から仏へと伝えてきた「人法(にんぽう)」をどうして文献以下に見て良いものでしょうか。長い歴史の変容発展があることは事実でしょう。しかし、長い歴史を貫いて、人から人へと伝えられた釈尊の「正法眼蔵(正しい真理を見る眼))・涅槃妙心(不生不滅の悟りの心)」、そこにこそ仏教の仏教たるゆえんがある、……と。

  

無門は評して言う――

 黄色い顔をしたゴータマは、人もなげなふるまいをして、良民を圧(おと)しめて奴隷にし、羊の頭を店頭にかけて犬の肉を売るような、インチキをされた。どんな奇特な説法をされるかと思っていたのに、【なんだ、こんなことか。】例えば、あのとき、迦葉(かしょう)だけでなく、大衆がみんな笑ったとしたら、正法眼蔵はいったいどのように伝授したのか。【あのとき、迦葉が笑ったから良かったが】、もし迦葉が笑わなかったら、正法眼蔵はいったいどのように伝授したのか。もし正法眼蔵なるものが、伝授されるものなら、黄色い顔をした爺さん(釈尊)は、【純朴な】村里の人々をたぶらかしたことになるし、また、もし、正法眼蔵に伝授はないというなら、なぜ、迦葉ひとりだけを印可したのか。

無門は頌っていう——

  花とりあげて、しっぽが見えた。 迦葉の微笑、人・天、 処置なしだ。(以下、略)

 

(合掌)

(管理人)

 

 

遅くなりました…令和6年10月のブログ

親先生より、10月は、「忘己利他」(もうこりた)『己を捨てて他を利すればいい、そうすればまっさらな皆が幸せになる』、といただきました。

『奈良康明著』「仏教名言辞典」から、「他を利するとは、即ち自らを利するなり」と、展開させていただきます。
〈出典〉インド、ナーガールジュナ(竜樹・著、150年~250年頃)、「十住毘婆沙論」七巻、後秦、鳩摩羅什・訳」

  

  他利即自利

〈解説〉言うまでもないことながら、私たちは社会の中に生きている。一人で無人島にいるわけではない。だから、他人とともに生きざるをえない。ともに生きるなら互いに不愉快にならぬよう気を付けなくてはならないこと、自明の理である。それなのに、みんながエゴを振りかざして、自己を主張するものだから、世の中は自我がきしみあって、まことに不自由である。自由とは「自らに由る(拠る)」と書く。拠るべき自分がエゴの自分なら、その自分の自由は、必ずや、他人の自由とぶつかる。お互いに不自由になるのも無理はない。

仏教の基本の考え方は、みんながともに生きてゆく世の中だから、他人をわが身にひきあてよ、という釈尊の教えにつきている。だから、「他を利する」からといって「自らを利する」ことを否定するのではない。自らをたてるのに他をおしのければエゴで世の中はどうにもならないし、逆に他をたてて、自らがつぶれてしまったら、それは愚かである。他人の利が自分の利に連なる考え方と行為をしようと言っているのである。

  

商人は物を売って利益を上げるが、お客は商店があるからこそ、金さえだせば、すぐに物が手に入るという便宜を得ている。互いに他を利して、自分の利を得ている。物を作る職人も同じである。大工さんなら、金をもらって家を建てるのだが、これも相互の利の交換である。

金を払ったのだから、家を建てるのは大工の義務だ! というのではなくて、相互に利を与え合っている…と、考える。と、…仏教は、教わる。そこから、お互いに「お陰様で」…、と、感謝しあう共感が生まれてくると、……。

(合掌)

(管理人)

  

遅くなりました…令和6年9月のブログ

親先生より、9月は、「無為」(むい)『まっさらな心に、戻ってみましょう』、といただきました。 久しぶりに、中村元先生の「岩波仏教辞典」を拝読させて戴くこととしました。

無為は、一般には、何もしないでぶらぶらしていることや、平穏無事なさまをいったり、また、老荘思想では、作為的でない、自然なままのことを意味するが、仏教では、原因や条件《因縁(いんねん)》によって作り出されたものでない。不生不滅(ふしょうふめつ)の在住をいう。涅槃のことを《無為》というが、それは涅槃が生死輪廻(しょうじりんね)を超越した、不変のものであることを表現したのである。

  

そして、以下は、奈良康明著による仏教名言辞典から拝読しております。

【どのように友を作ろうとも、どのようにつき合おうともやがて人はそのようになる。つき合いとはそういうものである。】

〈出典〉インド、原始経典『ウダーナヴァルガ』25.1。

〈解説〉釈尊は悟りをひらき、当時のインドにはなかったキラキラした教えを説いた。それは新しい価値観の創造であり、当時の社会に広く受け入れられた。しかし、当時の倫理のすべてを否定したわけではない。だれでもが認める人生の知恵を仏教の世界観の中で確認しているものも少なくない。

  

この一文も「友」と名づけられた一章の一つで、人はいかに友人に影響されるかを説いたものである。この章には、ほかにも、くさった魚を包めば、匂いの良い草さえ悪臭にそまるし、香木とともにあれば臭いのひどい葉も芳香を放つ。毒を塗った矢を矢筒の中に入れると、他の毒を塗っていない矢を汚す、等という比喩をあげている。

善悪、いずれであれ、私たちは友人からさまざまに影響されることは当然である。仏典は、より具体的な例として、賢者と交わると知恵を磨き、真実を見分けることができる、とか、自分では悪いことをしていなくても、悪人とつき合っていると同じ悪事をしているのではないかと疑われ、評価を落すともいう。「朱に交われば赤くなる」という諺があるが、その仏教版である。

(合掌)

(管理人)

遅くなりました…令和6年8月のブログ

親先生には、8月は、布施『喜びの気持ちで人にほどこす』と、いただいております。

奈良康明著の「仏教名言辞典」にて、多々ある中、この一文を読み上げてみたいものと思います。

  

『相(そう)に住(じゅう)せずして布施(ふせ)せば、其(そ)の福徳(ふくとく)思量    (しりょう)すべからず。』

【出典】インド、大乗経典、「金剛般若経」、『後秦、鳩摩羅汁訳』

(若菩薩)不住相布施。其福徳不可思量

【解説】布施の原語は「ダーナ」と言い、与えることという意味。 布施には、財施(物の施し)と法施(教えの施し)がある。仏教教団では前者は在家信者が修行者に行う布施で、とくに食べ物の布施が中心である。これに対して後者は修行者が在家信者に対して行う布施で、信者の布施を受けたときに、その善行に対して説法することが布施と考えられている。修行者は生産活動をしないので、信者の食べ物の布施が頼りである。それがあることで修行に専念できる。

  

一方、信者はその布施をすることで、修行者から法施を受ける。それによって功徳を積み、来世で善いところに生まれ変われるという確固たる信仰をもつことができる。布施はこのように教団のなかでは、信者と修行者の間においてなくてはならない行為で、これを修行とまで考えたのである。修行であるから、そこで、「ものにとらわれながら布施してはならない」という教えが生まれた。

在家信者は、惜しみ心、賎(いや)しい心、お返しを期待する心などをもって財施をしない。つまり、貪(むさぼ)りの心で財施をしてはならない。という意味である。また修行者には教えを出し惜しみしたり、報酬を求めるために説法したりしてはならないというのが法施の意味である。

(合掌)

(管理人)

遅くなりました…令和6年7月のブログ

7月は、盂蘭盆に当たり、施餓鬼法要が厳修されました。この法要でもコロナ禍以降、お参りされる方は少数となり、郵送などを利用され、熱風の吹きまくる状況では、むしろ、好ましいこととなりつつあります。

親先生より、7月は、「陰徳陽報」(いんとくようほう)『人知れず良いことを行う人には、必ず目に見えて良いことが返ってくる』と、いただきました。

  

以下は、故松原泰道老師の「百歳の禅語」から拝読したものです。明治の文豪幸田露伴の「三福の教え」で、次のような言葉を遺しているそうです。

「今日の吾人(ごじん)は、古代に比べて大いに幸福を有している。これらは皆前人からの植福の結果であり、よきリンゴの木を有している者は、よきリンゴの木を植えた人の恵みを荷(に)なっているのである。すでに前人の庇蔭(ひいん)による。吾人もまた植福をなして、子孫におくらざるべからずである。」

福を独り占めせずに、近所の人に施すだけでなく、未来にも遣わせ、と言うのです。

良いリンゴの木は美味しいがリンゴがなって食べられるけれども、これは自分が植えたけものじゃない、リンゴの木を植えた人はそれを食べることができない。人の寿命は短いから、みんな後の人のために植えている。

だから我々も、リンゴの木を植えるのと同じように、自分の子孫をはじめ、他人の幸せのためにも、やはり福を蒔(ま)いて、おかなければいけない。

  

この露伴のつくった幸せについての三つ言葉があります。(これらの言葉は、露伴が作ったものだそうです。味わって噛みしめたいものです)

一つは「惜福(せきふく)」、福を惜しみ、大切に、大切にする。

二つ目は「分福」、「分福茶釜(ちゃがま)」などと冗談めいていますが、分福は自分だけでなく福を他にも分けるということ。茶釜で沸かしたお湯は一人だけのものではなくて、みんなで分けていくもの。

三つ目に「植福(しょくふく)」、後の人のために、福を植えて徳を積んでゆく。

惜福は、物をいとおしんで、大切にすること…。例えば、一枚のティッシュペーパーでも、一粒のお米でも大切にしてゆく、これが「惜福」です。

  

日本の茶の湯の話になりますが、長い間の錬磨によって、無駄なお点前(作法)は一つもない、けれども、一つだけあるとのこと、それは、お湯を杓で汲むとき、すこし多く残して、無駄をするそうです。禅の心から生まれた茶の湯の「分福」というそうです。この分福を修行されたのが道元禅師、越前・福井の永平寺にあって師は、毎朝、柄杓で仏様の水を汲むのですが、閼伽(あか)の水と言い、最後に杓に汲んだいくらかの水を川へ戻すそうです。川に流れる水はたくさんあるけれども、自分たちだけが戴いてはいけない。下流の人たちも、この水を分けていこう…、これが分福、福を分けること、と…。

茶の湯では、杓のお湯を全部茶碗にあけてしまわずに、後の人のために、茶釜に戻していくという作法になったと、…。禅の生活が表れているのですが、こうした行為を「陰徳を積む。」というそうです。陰という字は「かげ」、つまり人に分からないように、目立たぬように、さりげなく他人様の幸せを願っていく。そのように物を大事にしてゆく。そして子供たちに、「閻魔様も分からないように良いことをしなさい」と教え、「他に分かったら何にもならないのだ、……。」と、「黙々として人のために幸せを念じて行きなさい」と、…。それが植福になるのだと、…。

(合掌)

(管理人)

遅くなりました…令和6年6月のブログ

親先生より、6月は「克(欲望などを抑える。困難を切り抜ける)」と、いただきました。

「克」について、大辞林では、動詞(タ)五段活用。「争って相手を負かす。競争して他のものをしのぐ。「大事な試合に…ツ。選挙で…ツ。多くは、克ツと書く。欲望などを抑える。誘惑に、・・・ツ。己に、…ツ。一方の力や傾向などが、他方より、強い、勝っている。能力を超えた負担を負っている。

  

お上人様がおっしゃっておられましたそうです。「いただくまいと思っても、授かるまいと思っても、『ありがとうございます。もったいのうございます』という、その気持ちがあったならば、必ず授けられる。いただくまいと思うても、いただかずにはおられんことになる。授かるまいと思うても授からずにはおられんと、…。

  

自分自身が助けられて、救われて生きていることに感謝の気持ちを持つことが一番大事であると、羨む、ねたむ、何になりましょう。自分の粗食に、自分の生かされている現在の境遇に、心からありがとうという感謝の念をもって精進努力するところにこそ、本当の財産もでき、本当の名誉も、家も、おのずから授かることができると…。今の自分をよく見つめて、そしてありがとうございますという感謝の念を持って生きていくこと、……今一番大事なことと思います。

  

苦しいとき、悲しいとき、つらいとき、感謝するのは難しいことかもしれませんが、しかし、他人と比べることをやめて今現在の境遇に生かされていることに感謝する。これが、宗祖お上人様の歩まれた道であったと、…。「宗祖覚恵上人様語録…心のともしび」より

(合掌)

(管理人)

 

遅くなりました…令和6年4月(~5月)のブログ

親先生より、4月は「不迎」(むかえず)、『これから先のことを思い悩まない…、』といただきました。また、5月は「不蒋」(おくらず)『過ぎ去ったことをくよくよしない…、』と、いただいております。今回は中国の「荘子」について、守屋洋著より拝読させていただきました。ブログの遅れを取り戻すべく、現在も頑張っておりますが、パソコンの不具合もあと少しで脱出できそうですし、今しばらくお待ち願います。

  

「老子(ろうし)・荘子(そうし)」は、道家(道教)の人で、紀元前四世紀後半頃、楚(そ)の苦県(こけん)厲卿(らいきょう)曲仁里(きょくじんり)の人で、姓は李(り)、名は耳(じ)、字は聃(たん)と言い、周王朝の録を食んでいたが、その衰えとともに旅に出て函谷関(かんこくかん)に至った。尹喜(いんき)という人に請われるままに上下二編の道と徳に関する説五千余言を残したといわれる。 『史記』は、老子の著作と言われるが、この老聃のほかに二、三の異説を紹介するなど、真偽のほどはわからない…と、あります。 荘子は名を周(しゅう)と言い、宋の国の蒙の人で、『史記』にかって蒙の漆園があり、その管理人をしていたとあります。

  

【原文】「至人の心を用うるはカガミのごとし。不蒋(おく)らず、不迎(むか)えず、応じて蔵(おさ)めず、故(ゆえに)に能(よ)く物(もの)に勝(た)えて傷(そこな)われず。

【解説】「至人」とは、「荘子」のような理想の世界の人間像であり、そうした人の心の使い方は、鏡のようなものだ…とのこと。それでは、鏡のようとはどのようなことなのか…、「荘子」によれば、まず、「蒋らず」「迎えず」なのだと。「蒋らず」とは、過去にとらわれない。過ぎ去ったくよくよ思い悩まないということである。また、「迎えず」とは、将来のことまで取り越し苦労はしないということであると…。さらに、「応じて蔵(おさ)めず」とは、眼前の現象に自在に対応し、過ぎ去れば痕跡を留めないという意味であると…。

  

どんな状況でも柔軟に対応できて、しかも、自分が傷つけられることがない。「至人」というのは、定見のない日和見主義的な存在に見えてしまいそうであるが、決してそうではなくて、荘子は、「至人」についてこうも言っている。

「外面は相手によって自由に変化しながら、内面はしっかりと自分の主体性を守っている。相手によって自由に変化できる人物は、自分を傷つけることがないから、その本質は少しも変わらない。だいいち、このような人物は変わるとか変わらないとか、そういう意識すらもたない。よって、相手との摩擦も生じないのである。」と…。

(合掌)

(管理人)

 

遅くなりました…令和6年3月のブログ

親先生より、3月は、「寛恕」(かんじょ)『心が広くて思いやること、過ちをとがめだてしないで許すこと』…、といただきました。なお、3月は春季お彼岸にあたり、永代経法要が厳修されました。

寛恕(かんじょ)という言葉について、『大辞林』には、「かんじょ」(スル)心が広く、思いやりのあること。また、とがめずゆるすこと…と、ありました。 よく使われる例として『なにとぞ御寛恕願います』などと、使うとあります…。

  

奈良康明編著『仏教名言辞典』には、次のようにありました。

出典 空海(774~835)「性霊集(せいりょうしゅう)巻第四。

【原文】濁世凡人、豈得无愆、恕過令新、請之寛大、宥罪納臓、稱之含弘。

【解説】濁世の凡夫、豈(あ)に愆(あやまち)なきことを得んや.過(とが)を恕(ゆる)して、新(しん)ならしむる。之(これ)を寛大(かんだい)と謂(い)い、罪を(つみ)を宥(なだ)めて、臓(ぞう)を納(い)る。之(これ)を含弘(がんこう)と称す。

[元興寺の僧の中璟(ちゅうけい)の罪が赦されんことを請う表]の中の言葉。元興寺の僧の中璟の罪が赦されるよう、弘仁五年(814)閏七月二十六日、懇請した上表文であるが、中璟に関しては伝未詳。空海との関連についても不明。また、いかなる罪を受けたかも不明である。しかし、この上表文をみると、中璟は仏法としての戒律・行法を守らず、国の法典をも慎み行わないという、仏法と王法の両者にまたがる罪を犯したようである。しかもなおかつ、ここにとり上げた言葉の前に次のようにある。

  
「大樹仙人、迹(あと)を曲城(こくじょう)に廻らし、慶喜(きょうき)道者、悩みを鄧家(とうけ)に被る。往古の賢人、猶亦(なおまた)未だ免れず。すなわち、禅定の徳の高かった大樹仙人のような賢人でさえ、王女に恋慕したため曲女城にその醜名を遺し、釈迦の弟子の阿難尊者でさえ、摩登伽(まとうが)という婬女になやまされた。昔の賢人でさえ、なお女犯のおそれを免れることができなかったとある。これらから考えられるところとして、中璟が罪を被ったのは女性に関連したことかもしれない、…と、あります。

  

空海は、中璟にたいして秦の始皇帝がとった、罪ある時は必ず罰するという方法ではなく、仇に報いるに恩をもってすることを願っていた、と…。

まさに「寛恕」では…。

(合掌)

(管理人)

 

 

遅くなりました…令和6年2月のブログ

2月のお山(境内)は、年々趣きを変えており、大本山も最初のお参りが紫燈護摩供祈願祭であったこと、本堂・奥の院など、それぞれの広さに驚かされたこと、さらに親先生のご配慮で知覧など拝見させていただきましたこと、歓びに満ち溢れておりました。親先生より、2月は、「身口意」(しんくい)『言葉と心と行いが揃ってこそ人に真実がとどく』と、いただきました。

  

そして2月は、奈良康明著、仏教名言辞典から以下のように拝読させていただきました。

【原文】我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち) 従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいざんげ)

【出典】インド 大乗経典 『華厳経』 (唐、般若訳、四十巻本) 第四十「普賢行願悔」

【解説】普賢菩薩の行と願を讃嘆する偈文が入法界品(にゅうほうかいぼん)の梵本(ガンダ・ヴューハ)や『四十華厳』などにみえる。その中に、前掲載の懺悔文が含まれている。梵文から訳すと、「貪(むさぼ)りや瞋(いか)りや愚(おろ)かさの故に、身と語と意とによって、私は悪を作(な)した。そのすべてを私は懺悔します」となる。

仏教では、人間の行為を身・口(または語)・意の三業に分けて考える。身体的行為、言語的行為、心理的行為である。例えば、他に対して憎しみの気持ちを抱くのは、意業であり、それを言葉に出して言うのが口業であり、相手をったりするのが身業である。いずれも悪業であるが、その根本になっているのが、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと無知(むち)の三毒である。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)を三毒と言うのは、この三つが人間の悪業の根源となっているからである。

また人間の行為を三昧(現在・過去・未来)という広がりの中でとらえ、特に宿業について深い宗教的な自覚を求める。「我借より造るところの諸の悪業」という表現は、それをよく示していると思われる。みずから意識すると否とを問わず、われわれはたえず悪業をおかしつづけている。このことに深く思いをいたし、おかした罪を心から懺悔すること。ここに仏教生活の原点があるように思う。

悪業(悪い行い)と言われるものには、さまざまなものを数え得るであろうが、仏教では、十種類のものをその代表として選び、十悪業とする。身業に関するものが三種(身三(しんさん)という)、口業に関するものが四種(口四(くし)という)、意業に関するものが三種(意三という)ある。

  

今それを列挙してみると、殺生((せっしょう)いきものを殺すこと)、偸盗((ちゅうとう)盗み)、邪婬((じゃいん)男女間のみだらな行為)、妄語((もうご)偽りを言うこと)、両舌((両舌)人の間をさく言葉)、悪口((あっく)粗暴な言葉)、綺語((きご)ことばを飾ること)、貪欲((どんよく)むさぼり)、瞋恚((しんい)いかり)、邪見((じゃけん)偏見)を言う。

殺生とか偸盗とか邪婬とか、身体で行う悪業が重大な結果を招くことは言うまでもない。とりわけ人を殺すことは、悪業の代表と言ってよい。大量殺戮(さつりく)を伴う戦争が仏教徒にとって許すべからざる犯罪とされるのは当然である。しかしちょっとした不注意から行われやすいのは口(言葉)に関する悪業であろう。人を傷つける言葉、乱暴な言葉、うそ偽りにみちた言葉、歯のうくようなほめ言葉等々。意識すると否とを問わず、私たちはこれらの様々な悪業をまぬがれることができない。悪業を犯さないように心がけるとともに、犯した悪業について、心から懺悔滅罪(ざんげめつざい)することが大切な所以である、……と。

  

(合掌)

(管理人)